Howard Zinnのコロンブスの物語の後半を紹介します。Zinn教授は、コロンブスについて真実を語ることが重要なのは、それがただ単に500年前に起こったことへの正しい認識につながるだけではなく、現代にも共通することを我々に教えてくれるからだといいます。コロンブスは、インディアンを非人間化し、征服した人々を自分達よりも劣っていると一方的に価値判断を下すことで残虐行為をすべて正当化しました。そし
<コロンブス記念は愛国心か>
なぜ今頃になって、コロンブスやその500年祭についてこんなに大きな論争が起きているのだろうか。先住民もコロンブス擁護側も、かなり熱くなっている。この謎を解くには100年前の400年祭が参考になる。当時、ニューヨークでかなり大がかりな記念行事が行われ、カーネギー・ホールの式典で挨拶をしたのがチャンシー・デピューである。ニューヨーク・セントラル鉄道の看板役であったデピューは、ニューヨークの州議会のメンバーに現金と鉄道のフリーパスを提供する代わりに、その鉄道の補助金と土地を手にした人物である。コロンブスの祭典を富と繁栄の祝いととったデピューは「400年祭は偉大な民族の富と文明化、その民族の快楽や贅沢、その権力に通じるものの記念である」と述べている。
これと同じ頃、貧困労働者がスラム街に群がり、子供達は病気や栄養失調で苦しんでいたことを忘れてはならない。これら労働者の絶望的な苦しみは農業同盟の怒りや人民党の設立につながった。そして、翌年の1893年には経済危機により苦難がさらに拡大した。デピューも舞台で人々の不満の色を感じとったのであろう。「私が嫌うことはすべてを疑おうとする史的な詮索である。そのような気運はこれまで培われた愛国心をすべて滅ぼしてしまう」と付け加えている。
これではコロンブスを祝えば愛国心があり、疑えば愛国心がないということになる。では、デピューにとって「愛国心」とはなんであったのか。それはコロンブスや米国が象徴した拡大と征服の美化に他ならない。デピューの演説から6年後の1898年には、米国はスペインをキューバから追い出し、プエルトリコとハワイも獲得した。また、フィリピンを奪うための米西戦争もこの年に始まった。
デピューが持ち出した愛国心とは、征服した人々が自分達よりも劣っているという考え方に根ざしている。コロンブスの攻撃はインディアンを人間より下に位置付けることで正当化された。南北戦争直前、テキサスとメキシコの大半を獲得したのも同じ人種差別的な理由による。テキサスの初代州知事、サム・ヒューストンは「アングロサクソン族がこの大陸の南の端まで支配しなければならない。メキシコ人はインディアンと同じなのだから、我々がメキシコ人の土地を奪ってはいけないという理由はない」と宣言している。
1900年に、デピューは再びカーネギー・ホールで、今度は上院議員としてセオドア・ルーズベルトの副大統領立候補を応援した。中国方面への侵入開始として、フィリピンの征服を記念しながら、「マニラ湾のデューイ提督の大砲はアジアやアフリカ大陸にまで轟いた。それは東洋人の中に、西洋諸国の新勢力を意識させたに違いない。他の欧州諸国同様に我々も無限の東方市場への参入に努力している。フィリピンは莫大な市場と富を提供すると信じている」と宣言した。偉大な大統領と考えられているルーズベルトは典型的な人種差別の帝国主義者である。クリーブランド大統領がハワイの併合に失敗した1893年には、陸軍大学校に対してすごい険幕で、これは「白人の文明化に逆らう犯罪」であるとしている。フィリピンの米国人陸軍将校は、もっとあからさまに「言葉を飾る必要はない。我々はアメリカン・インディアンを絶滅させた。我々の大部分がそれを誇りに思っているのではないだろうか。必要とあれば、我々の進歩と啓蒙の前に立ちはだかる他の人種を絶滅させることも躊躇しない」と述べている。
「敵」の非人間化は征服戦争には付き物である。異教徒や下等人種と見れば残虐行為の言い訳も容易である。米国の奴隷制や人種差別、そしてアジアやアフリカにおける欧州諸国の帝国主義はこうやって正当化されてきた。米国によるベトナム村落の爆撃、索敵せん滅作戦、ミライの大量虐殺などもすべて、犠牲者は人間ではないと考えればなんでもないことに感じられてしまう。彼らは人間である前に「東洋人」、「共産主義者」であるのだから、こういう目に合うのは当然だという考え方である。
湾岸戦争では、イラク人の存在を無視することで彼らを非人間化した。我々は女、子供、イラクの一般の若者を爆撃したわけではない。我々が戦ったのは、ヒトラーのごとき怪物のサダム・フセインである。この怪物のためにイラク人が犠牲になったとしても仕方がない。陸軍大将のコーリン・パウエルはイラク人犠牲者について、「それほど関心のあることではない」と答えている。
<人類の進化とその裏にある犠牲>
コロンブスの記念は、海の偉業だけではなく、バハマ諸島への上陸がその後500年間の「文明化」の開始であること、つまり人間の「進歩」を祝うものである。私自身、技術や知識、科学、教育、生活水準の進歩を意味する「進歩」や「文明」を否定するつもりはない。しかし問題は、そのために人間がどれだけの犠牲を払ったかである。
これについて考えると、私は高校の米国史で、産業革命の時代、米国が経済大国になった時代を勉強した時のことを思い出す。鉄鋼や石油業界の急成長や鉄道の発達などを学んだ時にはどんなにわくわくしたことだろう。しかし、この産業の進歩に携わった人間の犠牲についてはまったく触れられなかった。黒人奴隷にどうやって多くの綿花を生産させたか、少女達がいかに繊維産業に貢献したか、アイルランドや中国の移民が鉄道建設で死ぬまで酷使されたことなどはすべて無視された。これらは「進歩」の名のもとに進められた。そして、産業化や科学、技術、医療の進歩から大きな利益が生まれたのも確かである。しかし、その利益のほとんどは、ほんの一握りの人間の手に渡ったのである。
コロンブスの航海を未開状態から文明化への転換とするのならば、コロンブスの上陸前に築かれた何千年ものインディアン文明はどうなるのか。米国人の歴史家、ギャリイ・ナッシュは次のように描写している。「法律も条令もない。保安官も警官もいないし、裁判官も陪審員もいない。法廷も牢獄もない。こういったヨーロッパ社会における権威の道具だては、ヨーロッパ人到来以前の北東部の森林地帯には見つけようにも見つからなかった。にもかかわらず受け入れられ得る行いの範囲は、はっきりと定められていた。個人が自立していることを自慢していたが、正邪の厳しい感覚を維持していた」
西への開拓で、新国家のアメリカ合衆国は、インディアンの土地を奪い、抵抗するものは殺し、食料源と住処を破壊した。そうやってインディアンをより狭い土地へと追いやり、インディアン社会を系統的に破壊したのである。ミシガン領の知事であったルイス・カサスはインディアンから広大な土地を略奪したことを「文明の進歩」とし、「野蛮な民族は、文明社会との接触なしにはやっていけないのだから」と述べている。
野蛮民族というが一体インディアンがどれだけ「野蛮」であったというのだ。インディアンがまだ生活している共同体の土地を分割して私有の持ち物にしようと、議会が法律制定の準備をしていた1880年代のことである。この法律の起草者、上院議員のヘンリー・ドーズは、チェロキー部族連合を訪問し、何を発見したかを次のように描写している。「部族中、自分の家がない家庭はまったくないし、乞食もいなければ部族連合としての負債もまったくない。自分達の学校もあれば病院もある。しかし、この体制の欠点は明確である。土地の共同所有のため、自分の家を隣人よりも少しでもいいものにしようという欲望がなく、文明化の根底にある利己心がまったく存在しない点である」
この利己心こそコロンブスを駆り立てたものであり、最近もてはやされているものである。米国の指導者やメディアは、旧ソ連や東欧に「利益追及主義」を紹介することが西側の大きな貢献であると説いている。確かに、利益追及という動機は経済発展に役立つのかもしれない。しかし、西側「自由市場」の歴史が示すように、その利益追及が冷酷な帝国主義につながり、人類の受難と搾取、奴隷制や仕事場での虐待、危険な労働条件、子供の労働、土地や森林の破壊、大気、水、食料の汚染という数々の問題を招いたのである。
<コロンブスから学ぶこと>
コロンブスの部分だけを取り出して、20世紀の目で見るのはおかしいという意見をよく聞く。500年前に起きたことに対して、今の価値観を押し付けるべきではないという指摘である。しかし、残虐行為や搾取、奴隷制、無力な人々に対する暴力は果たして15~16世紀だけの問題だったのであろうか。コロンブスと我々の両方の時代に共通する価値観があるのではないだろうか。その証拠として彼の時代も今も、奴隷制や搾取は続いている。
コロンブス500年祭には、アメリカ大陸全土にわたり抗議の波が起こった。その大部分で先頭に立ったのがインディアンであるが、先住民の視点からコロンブスの話を伝えるべきだと主張する教師も登場した。今や教師も生徒も、教科書の内容に疑問を持ち始めている。ある生徒は、「出版社が、我々が愛国心を持ちそうな栄光に満ちた話だけ印刷しているように思えます。我が国が偉大で強力で、永遠に正しいと思わせたいのです。だとしたら我々は嘘で丸めこまれていることになります」という。また違う生徒は、「アメリカを発見したのが誰であろうと関係ありません。今までずっと騙されてきたということと、事実を誰が知っているのかと考えるとすごく腹が立ちます」と述べた。
学校での新しい批判的な考え方はいわゆる「西欧文明」を美化してきた人達に脅威を与えているようだ。西欧文明を最も積極的に擁護するひとり、『アメリカン・マインドの終焉』の著者で哲学者のアラン・ブルームは、”60年代の社会運動が米国大学教育の環境を一変したことに対して、精神的にパニックに陥ったようである。彼はコーネル大学で見た学生デモに恐れを抱き、それを学問に対する妨害であるととった。エリート大学で少数の優秀な生徒が、プラトンやアリストテレスを学び、窓の外の人種差別反対集会やベトナム反戦デモの雑音に気を散らさないように黙想に耽ける、というのがブルームの考える教育なのである。
彼の本を読みながら、私はアトランタの黒人の大学で教えていた時に、生徒が人種差別反対の抗議のために授業を抜けることに同僚達が反対した時のことを思い出した。彼らは生徒が教育をおろそかにしているといったが、実際には、1年間教室に通っても得られないほど多くのことを、数週間の社会的な闘争への参加で学んでいたのである。教育をなんと狭義に理解しているのだろう。西欧文明を人類の功績の最高峰と主張する歴史の見方と完璧に一致する。西欧文明が人類進歩の頂点であるならば、米国はその文明の中でも最高であるという考え方である。ここで再びブルームの引用である。「世界史の中で今は米国の時代である。米国が伝えるのはただ一つ、自由と平等の発展は誰にも止められない。最初の移民から政体の樹立以来、自由と平等が米国民にとって正義であったということに疑いはなかった」。黒人、先住民、ホームレス、健康保険がない人々、米国の外交政策の犠牲者にこれと同じことがいえるだろうか。
歴史を批判的に見るよう勧める我々は、弁論の自由をないがしろにしていると非難されることが多い。しかし、考えの幅を広げようとせず、また新しい本やアプローチ、情報、そして歴史の新しい見方を取り入れようとしないのは、従来の物語や歴史を擁護する側である。「自由市場」を信じるとするならば、なぜ財貨とサービスの自由市場以上に思想の自由市場を信じることができないのか。物質的なものと思想の両面において、常に権力と富を握る人が独占できる市場を望み、新しい思想が市場に入ることで我々がこれまで500年間苦しめられ、暴力や戦争につながった社会体制に疑問を持ち始めないかと心配しているのである。社会を考え直すに当たって、我々は過去だけでなく現在をも見つめ、そして、文明化の恩恵を受けられない人々の視点からそれを捉えようとしている。世界を違った視点から捉えることは、単純であるが、極めて重要なことである。21世紀を今までとは違った世紀にしたいのならば、また米国や西欧の世紀、白人や男性の世紀ではなく、人間の世紀にしたいのであればこれを実行しなければならない。
[Columbus, the Indians, & Human Progress 1492-1992 — Pamphlet #19 of Open Magazine Pamphlet Series Open Media, May 1992.より抜粋翻訳]
※ Howard Zinnはボストン大学の名誉教授であり、米国で最高権威の歴史家の一人である。Zinn教授は第二次世界大戦の爆撃手として勲章を受けており、公民権運動やベトナム反戦運動に熱心であったことでも知られる。独創的な著書、”A People”s History of the United States”は大学で広く使われている。その他の主な著書には、”Declarations of Independence”や”You Can”t Be Neutral on a Moving Train”がある。
※ Open Magazine Pamphlet Seriesは、ニュージャージにあるOpen Mediaが出版する小冊子で、政治、社会、経済を問わず我々を取り巻く様々な問題を取り上げている。最近出版されたものの中には、Media ControlやNAFTA, GATTT & The World Trade Organizationなどがある。
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