このコラムを開始して以来、私は問題点の指摘に大半の力を注ぎ、解決策についてはあまり触れませんでした。その理由の1つは、問題の解決にはまずそれを認識することが先決だと考えたためでした。また、大半の問題には複数の解決策が存在するため、その中から適切なものを選択するには、問題の存在を認識した上で、その問題が何なのか、共通の定義を得た方がよいと思ったからです。
社会の目的の定義
————————————————————
社会の目的が何であるのか、明確なコンセンサスが日本には存在しないように思える。小沢一郎は、日本が「普通の国」になるべきだと言うが、一体それが何を意味するのかを彼自身きちんと定義していない。逆に彼が「普通ではない」と指摘していることのほとんどは日本が米国と異なっている点を指しており、また彼の提案が、日本を米国のような国にすることであると考えると、米国こそ、彼が考える「普通の国」なのではないかと思われる。しかし、日本国民が現在の米国に蔓延する、拳銃、麻薬、犯罪、貧困、ホームレス、家庭の崩壊、文盲、肥満といった問題に、自国も汚染されることを望んでいるとは思えない。
日本政府は、米国を喜ばせることが政府の最優先課題であるとでも考えているようだ。国連平和維持活動への参加、米国の国連分担金および政府開発援助削減分の穴埋め、湾岸戦争の資金援助、米国が北朝鮮に約束した原子炉と重油の支払い、ウォール街のクリントンの後援者を助けるためのメキシコ支援などは、すべて米国を喜ばせるために日本政府が行ったことではなかったか。また、1994年に高額所得者の所得税減税を行った時の日本政府の一番の言い訳も、米国への約束を果たすためというものであった。植民地が宗主国のご機嫌を取るというのなら分かるが、これが独立国家の取るべき行動であろうか。
また日本政府や大企業は、経済成長こそが社会の目的であると考えているようだ。経済成長を刺激する必要があるというのが、政府が高額所得者の所得税を削減した時のもう1つの大きな理由だった。また現在、経団連も同じ理由で、所得税、法人税、有価証券取引税、地価税などの削減を提唱している。さらに、大企業やおべっか使いの政治家達が規制緩和の時に使う主な言い訳も、経済成長の刺激というものなのである。
私は、このような定義を社会の目的として受け入れることはできない。私が信じる社会の目的とは、最大多数の国民に最大の幸せを提供することである。社会、政治、経済に関する提案は、必ずこの目的に照らし合わせて検討されるべきであり、それが最大多数の国民の最大の幸せにどう影響するかを考えることを我々は習慣づける必要がある。
それが習慣になれば、失業の増加や賃金削減による企業収益の増加や、富裕者や大企業向けの減税のために消費税を上げたり、弱者を強者の略奪から保護するための規制を緩和したり、政治献金をする少数の人間の博打のつけを他の人間が肩代わりするといった政策に対して、国民はもっと慎重に検討するようになるはずである。
例えば、現在、政府が取っている住専処理対策は、子供も含めた日本国民全員に対して、1万5,000円の税金を取り立てるというものである。「金融制度の安定化」のためには公的資金を使うしかないと日本政府は主張しているが、見掛け倒しの大蔵省の監視下で、貪欲な銀行家が積み上げた博打のつけを罪のない国民に肩代わりさせることが、最大多数の国民の幸せにどれだけつながるのだろうか。これによって、博打や汚職、無能や貪欲といった状況が助長されることにはならないのだろうか。
誰のための誰による政治か
————————————————————
祖先の時代とは異なり、我々は民主主義を盲目的に崇拝しているようである。例えば、アリストテレスは、政治を集団的な幸福の学問であると定義し、国家の役割は、最大多数の人間の最大の幸福のために社会を組織することだと信じていた。主権が1人にあろうと、少数または多数の人間の手にあろうと関係ないと述べた。その主権者が公益(社会の幸福)のために国を治めれば素晴らしい政府になるが、私益のために治めれば政府は腐敗することになる。
現在の日本はどうであろうか。経団連は、選挙の借金返済のために自民党に100億円を寄付し、その見返りに、
1)大手銀行と関連金融機関による博打が招いた「住専」問題の処理に税金を使うこと、
2)労働者が負担する消費税率を上げ、逆に所得税、有価証券取引税、地価税率を下げるように、政府に頼み込んだのである。
加えて、住専の母体銀行のうち大手20銀行は、1994年だけで、自民党に対して7億2,000万円、新進党に2億6,000万円、さきがけに5,600万円の政治献金を行っている。この20行を含めた金融関連業界全体の政治献金は、1994年だけで、自民党に15億6,300万円(これは自民党が企業や組織から集めた政治献金の37%に当たる)、新進党に4億7,390万円(全政治献金の54%)、さきがけに1億1,713万円(全政治献金の86%)にも上る。さきがけの武村元蔵相の下で、大蔵省が、金融機関の住専問題による博打のつけを納税者にうまく肩代わりさせたのは、公益のためか、それとも私益のためかは容易に想像がつく。また、橋本総理が大蔵大臣であった時にこの問題を放置し、今になって日本国民にそれを支払わせようとしていることが、すべての国民の幸せのためか、それとも個人的な利益のためかも簡単に分かるはずだ。
これは戦後の日本の民主主義の追求が、日本とその国民に悪影響を与えたのではないかと私は考える。何世紀もの間、日本政府はアリストテレスやプラトンが提唱するような政府であり、プラトンが『国家』で説いたような道徳教育に根ざしていた。競争的な教育制度によって、最も有能な人々が官僚となり、私益ではなく公益のために国を治めることを、儒教の倫理規範は彼らに説いたのである。しかし、マッカーサーが日本の教育制度から儒教教育を一掃してしまったことから、日本政府から強い道徳性が絞り取られてしまった。彼が去った後には骨抜きになった官僚体制が残り、国家よりも自分達の利益を優先する腐敗した官僚主義だけが残った。そして大半の国民は選挙を棄権し、投票する人も、結局は金の力が選挙結果を左右するのだと諦め、ほとんど考えもなしに投票を行うという脆弱な民主主義だけが残ったのである。
日本でも米国でも、今や金権政治がすなわち民主主義であるかのようだ。こ の腐敗した政治体制を捨て、長い間日本を支えてきた体制に戻る必要がある。そのためには儒教を思い出し、その道徳的な教えに根ざした教育制度を再構築しなければならない。
賄賂を明白にする
————————————————————
国家の役割は、最大多数の人間に最大の幸福を提供する社会を組織することであり、政治家や官僚の役目は私益ではなく公益のために国を治めることだという前提に賛成していただけるであろうか。また、我々国民には、政治家や官僚が私益ではなく公益のために国家を治めているかどうかを知る権利があると思うのだが、これにも賛成していただけるであろうか。
この2点に賛成していただけたと仮定して、それを達成するために必要なことは、政治家と官僚が手にする所得、政治献金、贈答品、接待、その他汚職につながる利益をすべて完全に、かつ速やかに公開させることである。それぞれの政治家と官僚は、自分や配偶者、子供、両親、兄弟がその日に受け取った所得、献金、贈答品、接待について、その金額と提供者を毎日公開すべきである。この情報は、インターネットやその他のデータベースに公開し、全国民が簡単にアクセスできるようにする。それが公開されれば、一般国民はどの政治家、官僚が私益ではなく公益のために働いているかを判断できるようになる。
汚職を罰する
————————————————————
賞罰は好ましい行動を奨励し、また好ましくない行動を抑制するための重要な手段であると私は常々考えてきた。日本の犯罪率が低いのは、日本人が犯罪者の行動を非難し、日本の警察が容疑者をすぐに見つけ、裁判所がその容疑者を迅速に裁き、有罪の場合は厳しく罰するためである。
一方で、違法駐車が日本に蔓延っているのは、日本人が違法駐車に寛容で、警察の取り締まりも甘く、駐車違反で捕まっても罰則が軽いためである。したがって違法駐車が増えるのである。
政府の贈賄や汚職が蔓延っているのも同じ理由だと思う。日本国民は政府の贈賄や汚職を糾弾するのではなく、むしろ寛容であるがゆえに、日本の警察が汚職関係者を検挙することは少なく、裁判所も大衆の一般的な犯罪に比べて汚職の裁きには時間をかけ、最後は決まって執行猶予の判決で、実刑が下ることはほとんどない。これらすべてが、政府の汚職を助長しているのである。
政治家や官僚に私益ではなく公益のための統治を望むのであれば、警察がこれに反する容疑者をすばやく検挙し、裁判所が被告人を迅速に裁き、厳しく罰するよう徹底させるとともに、我々自身もそのような違反者を厳しく糾弾すべきである。
ロッキード事件の田中角栄、リクルート事件の江副浩正、佐川急便の渡辺広康、金丸信、その他、中村喜四郎や高橋治則、大蔵省や住専問題は、その不正行為や傲慢な態度、無能さについて、メディアに大きく取り上げられた。しかし、現在、政府が行っている汚職と比べれば、彼らが行ったことなど取るに足りない。米国でも日本でも、与党の政治家や官僚が再選のための賄賂として、合法的に税金を使ったり、あるいは課税負担を減らす時には、先の例とは比べものにならない汚職を働いているのである。
後でどれだけのつけが回ってくるのかを知っていれば、我々はブッシュの湾岸戦争やクリントンのメキシコ救済といった愚行を支援することを日本政府に許しただろうか。後援者の博打のつけを我々に肩代わりさせようと後援者の税金を削減し、逆に我々の税金を上げるような政府であれば、またそれがどれほどの負担になるのかを知っていれば、そういった政府を我々は再選するだろうか。政治家はそういった愚行を行っても、国民の税金を抑えることで再選を果たすことができるのである。しかし、日本政府は税金を増やさないでどうやって歳出の増加分を補填するのだろうか。負債を増やすのである。下の表を見て欲しい。
————————————————————
日本の国債残高と国内総生産(GDP) (兆円)
年 国債残高 GDP %
—- ——- —- —-
1965 0.2 109.4 0.2%
1970 2.8 187.8 1.5
1975 15.0 234.5 6.4
1980 70.5 290.6 24.3
1985 134.4 343.0 39.2
1990 166.3 430.0 38.7
1994 206.6 454.5 45.4
1995* 222.0 475.8 46.6
1965~1995 1110.0倍 4.3倍
(*推定)
—————————————-
(30年間にGDPは4.3倍にしか増えていないのに、
政府国債残高は1,000倍以上に膨らんでいる。)
1965年には、日本の国債残高(政府債務残高)はGDPのわずか0.2%であり、当時はまだ負債支払い能力があった。しかし、1965年以来、毎年負債を増やし、現在、日本の国債残高はGDPの46.6%に達し、日本の一般会計はまるで第三世界のような状況である。過去30年間、政府の負債がここまで累積したのは、米国の戦争や、政府の後援者の行った博打のつけや、税金の削減分の支払いによるものではなく、過去に発行した国債の利払いによるものであった。
これは最悪の汚職である。1)選挙資金を提供する富裕者や大企業のために歳入を減らしたり、また、2)米国政府のご機嫌とりのため歳出をすることが、今の日本にとってどれだけの負担になるかなど、負債があまりにも肥大化しすぎてまったく感じられなくなるほど麻痺してしまったのである。
消費ではなく、宣伝に課税
————————————————————
経団連その他の政府の後援者は、所得税、法人税、有価証券取引税、地価税の削減を望んでいる。日本の選挙の結果を左右する資金の出所である富裕者や企業に対する減税を望んでいるのである。自分達が減税で得する結果、減少する歳入を補填するために、選挙資金を出さない一般市民に対する消費税増税を求めているのである。
このような論理を差し迫ったこととして受けとめるのは、自分の議席が金持ちや権力者にかかっている政治家だけである。しかし、1)社会の目標が最大 多数の人間の最大の幸福であり、2)私益よりも公益を優先する政府が正しく、私益を優先する政府は腐敗していると考える者にとっては、このような論理はまったく受け入れられないに違いない。
所得税、法人税、有価証券取引税、地課税を削減し、所得税を下げるのは不公平であると同時に、社会の分裂を引き起こす。これは税の負担を金持ちや権力者から貧困者や弱者へと移行するためである。このような破滅的な政策は、投資だけで生活できるトップ1%の国民と、賃金で暮らす残りの99%の国民を分裂、対立させることになる。
衣食住は誰にも必要なものであるが、金持ちよりも貧しい者の方がこれら必需品に対する出費割合が高くなる。したがって、課税対象を所得や富から消費へ転換することは、金持ちから貧乏人へ税負担を移行することにつながるのである。
さらに、年間GDPの約半分を赤字の補填に回さなければならない程赤字を累積させてきた政府には、どんな種類の税金であろうと、減税を唱えるようなことは本来できないはずだ。ここまできたら、米国への支払いを含めて歳出を削減するか、増税しかない。増税の可能性が低いことを考えれば、政府は現在提案されている所得税、法人税、有価証券取引税、地価税の削減を取りやめ、所得税を1994年の20%削減前のレベルにまで引き上げるべきなのだ。
同時に、政府は消費税3%を、広告宣伝税100%に置き換えるべきである。日本企業は宣伝広告に年間約5兆円を費やしている。これは、政府が消費税3%で得る歳入にほぼ等しいため、これによって政府の歳入は減少することはない。
消費でなく広告宣伝に課税することには、いくつかの利点がある。広告宣伝の主な目的は、消費者に不必要なもの(例、移動電話)や害になるもの(例、タバコ)を消費させることである。No.28, 38, 39を参照して欲しい。生活必需品に対する課税から、不必要なものの宣伝に対する課税に転換することで、社会は利益を得ることになる。広告宣伝のもう1つの目的は、同じような商品の中から自社の製品を消費者に選択させることである。米や味噌などの生活必需品ではなく、消費者の選択で儲ける広告主に課税対象を変える方が社会にとってはプラスになるはずだ。またNo.41で紹介したように、広告はメディアを腐敗させている。メディアは、読者や視聴者に民主主義に不可欠な情報を提供するのではなく、読者や視聴者を広告主に売り渡している。そういった広告に課税することで、メディアを民主主義社会における真の役割に立ち返らせることができれば、国民は自分達や社会に関して必要な情報を得ることができるはずである。
その他
———————————————————–
紙面の都合により他の提案は次回に回すことにするが、この提案に対するご意見、また皆様からのご提案をいただければ幸いである。