No.74 日本政府は外貨準備高をいかに浪費したか(前編)

OWメモのNo.64とNo.65では、米国の政治家が日本の政治家を威嚇し、騙し、さらには選挙の資金援助などを行ってきた一方で、日本の政治家が米国経済を助けるためにいかに日本経済を犠牲にしてきたかという、エコノミストのマイケル・ハドソン執筆による論文を取り上げました。

日本政府は外貨準備高をいかに浪費したか(前編)

マイケル・ハドソン

日本銀行は単独で、1993年には米国の財政赤字の11%、1994年には14%、そして昨年はなんと35%に当たる金額を米国に資金援助した。一国の政府が他国の国民貯蓄にこれだけ依存するのは、1690年代から1700年代初期にイギリスがオランダへ依存して以来初めてのことである。

なぜこのような状況になったのか。米国が1971年8月に米ドルの金への兌換を取りやめ、世界に米財務省証券本位制を押しつけた結果、このような事態になると誰が予想しただろうか。過去を振り返ってみれば、一国の基軸通貨国家の政府の借用書(つまり米国政府の財務省証券)を基盤とする国際通貨制度がこれをもたらしたことがわかるのだ。

何世紀もの間、国際通貨準備金は金で蓄えられてきた。この通貨用金は、国内紙幣、政府の国債や支払い約束とは異なり、国境を超えて現金として通用する、いわゆる「世界通貨」の形をとった国民の貯蓄である。例えば凶作や飢饉の際の緊急輸入、軍事同盟国への資金援助、さらには緊急時における自国の軍事費を負 担するためにこの金の蓄えを使用した。輸入や対外投資額が、海外からの受領額を上回った時の埋め合せにもこの金の蓄えで補われた。また単に金保有高が借金の担保に使われることもたびたびあった。保有する金を担保に海外の技術や天然資源を購入し、時とともにそれが実を結び豊かになった国もあれば、戦争による負債や賠償金、食料の負債、資本逃避の資金援助のための借金、汚職のための負債などが原因で、支払い能力を超えた借金を抱えて破産した国もある。

1960年代までは、金が国内の通貨や金融の基盤を形成していた。金融緩和が進み、金利が低くなり過ぎると、資金はその国からより金利の高い市場に流出してしまう。そのような状況に陥った国は、国際標準まで金利を引き上げるか、あるいは金の放出に苦しむかのいずれかを選択しなければならなかった。

このような政策によって、国際通貨の均衡は表面上ある程度自動的に保たれていた。好景気がいつまで続くかは、主にその国が過去にどれだけの金を蓄えることができたかによって決まるようになった。例えばイギリスのように戦後、自国通貨を支える金がほとんど底をついた国は、”ストップ・ゴー”景気調整策(拡大と引き締めを交互に繰り返す財政政策)を取らざるを得なかった。これは、好景気で輸入需要が上がり貿易赤字になると、急激に金利を引き上げるという政策であった。また、米国が不況になると、ヨーロッパの輸出が停滞し、貿易赤字補填の借金のために金利を引き上げざるを得なくなるという状況も現れた。「米国がくしゃみをすると、ヨーロッパが風邪を引く」と言われたのはこのためである。

第一次世界大戦後、米国の経済力が他国を凌駕し、米国政府が世界の主たる債権者として君臨し始めた。参戦前には米国の武器を、戦後には食料や他の輸出品を購入する資金を連合国に融資するようになったためである。米ドルの重要性が高まると、世界各国の中央銀行は、外貨準備をドルと金の両方で保有するようになった。大半の海外融資はドル建てになり、資源貿易もドル建てで行われることが多くなっていった。さらに、外国為替市場では金ではなく主にドルが使われたため、為替安定のためには、外貨準備高をドルで保有する方が都合が良くなったのである。

ドルは金と全く同じように使用でき、海外の中央銀行の需要に応じてドルと金を交換することができた。第二次世界大戦が終結し、1940年代末に平和がおとずれると世界の通貨用金の約3分の2を米国が所有するようになり、金はケンタッキー州フォートノックスに保管された。また多くの国が自国の金の蓄えを米国に移し、ニューヨーク、リバティーストリート(後に向かいの通りにチェースマンハッタン銀行が設立された)の連邦準備銀行の地下に保管するようになった。このような状況を考えれば、米ドルが国際決済用通貨になったのはむしろ当然と考えられる。市場に出回る金も不足していたし、米ドルに匹敵する安定性を持つ通貨は他にはなかった。

この通貨制度は「金為替本位制度」と呼ばれた。この制度下で各国は、自国の外貨準備を、金、または金と同等と考えられる通貨である米ドルで保有した。しかし根本的には、この金為替本位制度は金を基盤にしていた。なぜならば、法律で米国の通貨は25%まで金で支えられていなければならないと定められており、海外の中央銀行から要求があれば、金で国際収支の決済を行う意志を米国が表明していたためである。

金は国家を超えた金属であり、例外なくどの国からも望まれ、国際的価値のある蓄えとして全世界が認める物資であった。反対に各国の通貨は、単に支払いを約束する紙切れである。それは政府が支払いを約束した政府の負債の1つの形態であり、国内の支払い手段を約束したものであった。民間部門の通貨も同様に負債である。銀行の預金も、さらには金融制度全体も、相互の支払いの約束の上に成り立っていた。つまり一方が所有する通貨は、他方の負債なのであった。そうした中で、唯一金だけが純粋な資産であった。

しかし、各国の政府、民間両部門の負債が増大した結果、通貨は純粋で単純な資産(つまり金)から、公債などの負債に変わっていった。世界中の公債の大半が、戦争の負債であり、その処理能力は、債務国政府が民間企業や市民に課税できるかどうか、またその意志があるかどうかにかかっていた。

米国がベトナム戦争を拡大していった1960年代になると、紙幣の価値が政府の政策にどの程度依存しているかが驚く程明瞭になった。1960年代を通じて、米国の民間部門は均衡が保たれていた。つまり輸出入、海外投資・収益および資本の流出は等しかった。海外援助でさえ、米国製品の購入と結びついた「紐付き援助」であったために赤字増にはつながらなかった。(言い換えると、海外援助は輸出促進の1つの手段だったのである。)

それにも拘らず米国の国際収支が赤字に転落したのは、主に東南アジアを中心とした海外での戦争費用が原因だった。(ドイツでの米国の軍事援助費用やそれに関連したNATOへの貢献は大きな出費ではなかった。なぜならばドイツ政府が冷戦時の費用の大半を、様々な形で米国に返済していたためである。)ベトナムは長い間、フランスの植民地であったため、その当時のベトナムにある銀行の大半がフランスの銀行だった。その結果、ペンタゴンや米国軍人がベトナムで米ドルを使用すると、その金はフランスに送金された。その余剰ドルをフランスのドゴール将軍が毎月、金に変換したのである。そして、他の諸国も(ドイツはこそこそと、またラテンアメリカはおずおずと)フランスの動きに追随していった。

毎週木曜日の午後になると、連邦準備理事会は、未払い通貨量の統計を発表した。これは、10ドル紙幣、20ドル紙幣、およびそれ以上の金額の紙幣が連邦準備券としてどの程度出回っているか、またそれを支える金はどの程度準備されているかという統計であった。米ドルに対する金のバックアップ率は毎週減少し、法定の25%に限りなく近づいていくという危機に陥った。米国の国粋主義者達は、1980年代末に日本に対して示したのと同様に、フランスに敵対意識を持ち始めた。しかし、ドルに対する金の保証率が低下することを懸念した海外の銀行は、より急速にドゴールの行動に追随していった。

過剰ドルを抱えた日本

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こうした状況の中で、日本は米国の軍事支出から大きな恩恵を受けていた。米国の東南アジアにおける軍事活動に対して、日本は部隊集結地域の役割を果たし、沖縄や他の日本基地は米軍にとって主な保養・娯楽地となった。また、米国が軍事関連でドルを出費していたアジア諸国に対しても日本は貿易黒字を抱えていた。しかし、最も重要なことは、数量割当やその他の非関税障壁によってヨーロッパ市場から閉め出された日本が、米国は日本の輸出を受け入れやすい先進国であることに気づき、その結果日本の対米貿易が拡大していった点にある。確かに、米国でも海外からの輸入に対していつもの国粋的な反論は聞かれたが、それにもひるまず日本の輸出業者達は、米国の消費者市場に着実に参入していった。

日本からの輸出増を米国高官が大目に見てきた最大の理由は、フランスのドゴールと違って、日本が国際収支の黒字分を金に変換していない点にあった。日本は余剰のドルを金ではなく、米国の国債である財務省証券に投資していた。実際、普通株を購入したり、直接投資したりすることは中央銀行には許されていなかったため、それ以外の選択肢は日銀にはほとんどなかった。金を購入しないのであれば、外国政府の約束手形、つまり米国なら財務省証券を購入するしかなかったのである。

事実、日本との貿易赤字および国際収支の赤字が拡大すればする程、日本銀行から財務省に環流するドルの金額が増加していった。このようにして、日本や他の中央銀行は、東南アジアでの米国の戦争における国際収支を全額負担していたのである。日本や他の諸国が、黒字分を金に変換したり米国や他の国のより生産的な資産に投資するのではなく、米国財務省に融資していたために、結局米国の戦争費用を肩代わりしていたことになるのである。これは、金に変換したり、資産の買収に黒字分を使用するのは、米国中心の冷戦時代においては、国際的な裏切りに等しいと米国外交官が警告していたためであった。

金への兌換中止

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国際通貨制度は、1971年8月に根本的な転換を遂げた。ベトナム戦争の終結を拒むヘンリー・キッシンジャーや他のタカ派の言いなりとなったニクソン大統領は、ついに、余剰ドルを金に変換することを禁じ、もはやドルは金と同じようには通用しなくなった。他の諸国は自国が持つ余剰ドルを米国の所有する金に換え ることはできなくなり、また公開市場で金を購入しないようにとも説得された。しかし、民間投資家は災いの前兆を見て取った。米国がLondon Gold Poolの支援をやめ、海外の中央銀行の需要に応じて金を売却するのを停止するやいなや金の価格は着実に上昇し、1980年1月21日には850ドルにも達した。そうなると、問題は毎月国際経済に流入し続ける米ドルを海外の中央銀行がどう処理するかにかかっていた。

米国の高官は、軍事費の赤字を相殺するのに十分な国際収支の黒字を生むよう、民間部門に働きかけた。ドルと金を切り離す過程で、ニクソン政権の財務長官、元テキサスの州知事ジョン・コナリーは、米国の輸出業者が戦争費用を賄うに十分なドルを稼げるよう競争力を高めることを期待して、ドルの価値を10%切り下げた。一方で、戦争は継続した。米国企業は米国経済がペンタゴン資本主義によって骨抜きにされるのを見るやいなや、軍事支出負担の低い海外市場を求めて海外投資を増加させた。

原価算入方式

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大半の国は製造費用削減によって利益増を目指す。この手法こそ、日本が海外市場を勝ち取った方法である。しかし、米国のペンタゴン資本主義制度では、製造費用削減ができない仕組みになっていた。その”原価算入”による価格方式(原価に協定利益を加算する方式)では、軍需産業が製造費用を増やせば増やす程、収益が高くなるためである。費用がいくらかかろうが、企業は政府にその費用を請求し、さらに利益は固定率で加算された。この制度下では、企業はできる限り高い費用で生産しようとする。(これと同じ方式によって、電気、ガス、その他の公益事業が規制されている。)米国経済で最も成長した分野はこのような原価算入方式で政府と契約を結んでいた軍需産業であった。この世代のエンジニアがコスト意識を持たないようになったのはこの影響である。

融資コストにもそれが当てはまり、その結果企業は投資資金の借入のために喜んで銀行から(さらには、直接短期証券として約束手形を発行することで商業手形市場にも)融資を受けるようになった。このようにして米国企業は原価算入指向となり、市場での競争力向上を狙うよりも、借金や金利を増大させることに夢中になった。米国の貿易赤字が拡大し、対外投資が加速したのも当然と言える。

この隙間をうまく利用したのが日本の製造業である。日本の製造業は、国内製造費用の削減と、さらには生産設備や新技術、人的資産への直接投資に融資する金融制度から恩恵を受けた。また米国が自分は国際ルールを留意していないにも拘らず、他者にはどのように振る舞うべきか口うるさい世界の姑の役割を果たしたために、日本政府がこの負担から解放されたという事実も、日本の製造業者にとっては恩恵となった。軍事予算がなかったために日本の財政は均衡が保たれ、政府はほとんど負債を抱えずに済んだ。これによって、日本の税率は比較的低く抑えられ、税収入を軍事費や債権国への利払いではなく、主に経済的な支出に向けることができたのである。(現在米国は連邦予算の約2,000億ドルを軍事費に、さらに2,000億ドルを債権国への利払いに費やしている。)

経済問題から外交上へのジレンマへ

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1971年に米国が金の窓を閉じると、拡大する米ドルの流入に対して海外の中央銀行ではそれを融資して金利を稼ぐ以外に手だてはなかった。余剰ドルの一部はユーロダラー市場の借り手、主として外国企業の買収に収益を利用する米国企業に融資された。しかし、ドルの大半は米国財務省に直接融資され、さらに、国際的な金による準備高がもはや拡大しなくなると、国際収支の黒字分はほぼ決まって米ドルに投資されるようになった。エコノミストはこの状況を「過剰ドルの環流」と呼び、この問題に対処するための最善の方法を議論した。

ドイツや他の国際収支黒字国は、米国が貿易赤字と国際収支の赤字抑制のために金利および税金を引き上げることを拒否したことに対し抗議したが、自ら代替案を提案する努力はほとんどしなかった。実際、これらの諸国には打つ手がなかったのである。ドル地域に代わる通貨ブロックを形成するには力が及ばず、その上、現実にそのような手段を取れば経済を不安定にすることになるという米国の脅しの前で、そうした行動を取ることを恐れたのだった。

余剰ドルは、1つの経済問題から完璧な外交上のジレンマへと発展した。大半の諸国が米国の東南アジアでの戦争に反対しているという事実、さらには、人民主義者や土地改革者よりも独裁者を優先的な選択肢として支持することにつながる冷戦によって、国際通貨問題は抽象的な経済学の問題から、政治的および軍事的な冷戦時代のジレンマへと変貌していった。

それまで、外貨準備高が他の国の外交上の推進力を支援する機能を果たすという主張をエコノミストが行ったことは一度もなかった。しかし現実はそうであり、米国が、米ドルの価値を維持するために国内経済あるいは国際外交を調整する意志がないことを表明した結果そうなったのである。ドルの為替レートに対しては、いわゆる「慇懃な無視」の態度が取られた。そして米国の外交官は、ドルの問題は米国ではなく、他の諸国の問題であると説明した。

米国が金の窓を閉ざした後、各国には外貨準備高をドル以外の形で保持する代替手段が、実際に見つからなかったので、米国の外交官の言い分にも一理あったと言える。「米ドル」の形で外貨準備を保有するということは、米国財務省証券で保有することであり、すなわちそれは、米国財務省への融資を意味した。しかし、その財務省が、外国製品やサービス、投資に対する米国の需要を抑えるために増税を拒否していたことを忘れてはならない。事実、米国高官は、民間部門に冷戦の費用をカバーできるだけの黒字を貿易および国際収支で稼ぐよう迫ることはなかった。それらの費用を実際に負わされたのは海外の中央銀行だったのである。

ジョンソン大統領と彼の経済顧問は、米国の有権者に軍備と国民生活を等しく重視する公約を掲げ、ニクソン大統領も同じ路線を辿った。そして、戦時中の国家として史上初めて、米国は増税ではなく減税を行ったのであった。

結論として言えることは、今日の各国の外貨準備高は、どのような外交政策を取っていようとも、米国に融資されることになるということである。米国は海外からの通貨の流入を利用しながら、外国に有無を言わせず自国の軍事、政治、経済の目標達成を目指している。これは米国独立戦争時のモットーである「代議権なければ納税義務なし」というスローガンに新しい意味合いを持たせる。

外貨準備高をなぜ世界の通貨である金ではなく、一国の通貨(米ドルや、ドルで投資されたIMF特別引出権)の形で保有するのか。その理由は、経済の論理によるものではなく、第二次世界大戦後に生まれた国家間の歴史的な力関係によるものなのである。外貨準備高として米ドルに代わる資産を要求すれば、国際的な通貨形成過程を米国の手で行うようにしてきた米国の戦略家はそれを攻撃の意にとるであろう。