No.79 読者からのご意見と回答(3)

今回は読者の方々からお寄せ頂いたコメントと、それに対する私の返事をご紹介します。

<<< No.45 人間の新しい尺度 >>>

読  者:
新しい生命は、廃虚から誕生するのです。いつも過去ばかり見ているあなたは是非覚えておくべきです。逆戻りはできないし、また過去を復活させるべきではないのです。それは必ず失敗に終わります。
回答:
あなたは私を「古き良き時代」を懐かしむ年寄りだと思っているようですね。しかし、私はすべてが進歩であるという意見には賛成できません。むしろ、我々は祖先と同じように、進歩もすれば脱線もします。現在の情報や技術の洪水によって何がもたらされているのかというと、知恵がどんどん減少し、我々の文明にとって重要であった価値観がなくなっていき、過去において文明に破滅的な影響をもたらした考え方を受け入れるようになっているのだと思うのです。一例を挙げると、米国の建国の父は、選挙がこれ程までに費用のかかるものになり、金持ちか、金持ちに買われた人間しか政権につけないようになるなど、思ってもいなかったはずです。
読  者:
文化が外部の力により破壊されるのは、攻撃あるいは征服による場合のみです。現在起きているのはそれとは異なり、他の文化が「西洋」文明を受け入れ、それを自分達なりに修正しているのです。
回答:
あなたは物理的な「攻撃」や「征服」を指しているのでしょうが、プロパガンダや広告等、人間の心や感情に攻め込むことによっても文化は破壊されると思います。例えば、巧妙な広告で何百万人もの人々が喫煙中毒になり、肺ガンで命を失っているではありませんか。また、読者や視聴者に情報を売るはずのメディアが、読者や視聴者を広告主に売り渡しています。その結果、多数のメディアが様々な情報を提供していた状況から、少数の企業がメディアを独占し、最大数の聴衆を広告に引きつけるために、性や暴力などに集中するよう変わってきています。また、政治討論はほんの一部の30秒だけしか放映されません。そして、政権に就くのは、石鹸やコーラと同じように自分をテレビで売り込むだけの資金力を持つ人間なのです。
読  者:
我々は昔に比べて物事をはるかによく理解しています。マクロレベルではCNNがそれを助けているし、ミクロレベルでは、心理学、生理学、天文学、人類学などのお陰で、我々自身に対する理解も深まっています。
回答:
確かに情報量は増えています。しかし、祖先の時代よりもそれを深く理解しているかどうかは疑問です。祖先達は手にした情報を時間をかけてじっくり考えていたため、彼らの方が知恵は優れていたような気がするのです。現代の心理学、生理学、人類学が、同性愛者の結婚を異性愛者と同等と扱うことや、小学校でのコンドームの配布や、麻薬患者に無料で注射針を配ることを奨励するのであれば、自分達の生活や社会の管理方法の理解は、低下の一途を辿っているのではないかと思えます。
読  者:
これを読んで、オーストラリア人が「多文化主義」と呼ぶ概念を思い出しました。「多文化主義」は、次のような2つの文章にまとめることができます。
文化に優劣はない。誰も価値や考え方を判断する絶対的な物差しを持ってはいないのだから。
他の文化を広く受け入れ、それを享受しよう。
回答:
異なる考え方や行動に対して寛容であることは重要です。しかし、善悪を見極め、社会にとって害となる見方や考え方、行動を拒絶することも同じくらい重要だと思います。現代の米国における問題は、これが欠けていることに起因すると考えます。
読  者:
人間には変化と安定の両方が必要です。一方で変化を求め、また他方で生活の安定を求めるのです。人は人生に現実的で確実な指標を持つことで、安定を得るのです。ここでは、人は新たな指標が見い出せないために、祖先から引き継いだ古いおとぎ話に執着している、と主張しているように感じます。
回答:
おとぎ話と祖先の知恵を混同すべきではないと思います。日米両国の教育における最大の欠陥は、古典を教えなくなったことです。その結果、現代人は無知であるがゆえに傲慢になっています。過去の失敗の原因を知らないがために、過去最悪の失敗を絶えず繰り返しているのです。「情報の洪水」が「無知」につながっているのです。

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<<< No.50 & 51 なぜGDPが上昇しながら、国民生活は下降しているのか >>>
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読  者:
GDPは確かに国全体の富を表すのみで、例えば富の配分がどうなっているかについては有効な指標でありません。私はかねがね米国の貧富の差の拡大に関心をいだいてきましたが、これは今後日本自身の問題ともなります。つまり、規制緩和を推し進めると、その過程で、優勝劣敗、適者生存、市場原理の貫徹といった状況となり、市場での勝者と敗者との格差は拡大することが避けられないでしょう。にも拘らず、我が国は規制緩和の流れを続けなくてはならないのかという議論は通産省内でもなされることがあります。
現在のところは、それでもやはり日本経済を活性化させるためには、規制緩和の流れは重要であるというのが、省内の多数意見であり、私も同意見です。その意味で、国の成長力を示す「GDP的思考」の世界にとどまっていると言わざるを得ないかも知れません。

回答:
規制緩和が経済成長のための最善策であることに異論はありません。しかし、経済成長が本当に社会の最終目標なのでしょうか。私が考える社会の目標は、最大数の人々に最大の幸せを提供することです。これに基づけば政府の目標は、政府が治める最大数の国民に最大の幸せを提供することになるはずです。通産省の官僚は、「勝者と敗者との格差の拡大」が大半の日本国民の幸せにつながると考えているのでしょうか。そうでないのに、その格差を拡大する規制緩和を推進しているのであるとすれば、最大数の国民に最大の幸せを提供すること以外の目標を考えなければなりません。通産省、日本政府、日本社会の目標は一体何なのでしょうか。

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<<< No.52 大学に入れるべきか、刑務所に入れるべきか >>>
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読  者:
米国の教育制度は日本の制度よりずっと優れているように思われます。日米を比較すると、日本の教育制度はソフトウェア、ハードウェアの両面で遅れていると言わざるを得ません。
回答:
米国の大学の中でも、ハーバードやエール、スタンフォード、UCバークレー、MITなどの約20校は、世界一優れた大学かも知れません。しかし、こうした大学に行けるのは米国でも最も裕福な人か外国人だけです。米国の平均的サラリーマンや警官、教師や看護婦、工員、店員の子供がこのような大学に行けるのはかなりまれなことです。失業者やホームレス、乞食、囚人、黒人、ヒスパニック系の子供になるとその可能性はさらに低くなります。

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<<< No.67 権力と歴史と戦争 >>>
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読  者:
ここに書かれてあることは理想に過ぎないと思います。私自身「自分からは決して攻撃しないのが紳士である」と信じていますが、攻撃せざるを得ない時に攻撃しないのは男ではない、という時もあるのです。
回答:
確かに、そういう考え方もあるかも知れません。しかし、イエス・キリストもマハトマ・ガンディもキング牧師も、そうは教えませんでした。「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」というのは、「目には目を」という考え方とは全く正反対のはずです。
読  者:
筆者は、ヒットラーとの宥和によって戦争を避けようとしたことや、カンボジアのクメール・ルージュによる残虐行為については一言も触れていません。戦争をなくすことは素晴しいことかも知れませんが、悪辣な独裁者を野放しにしておくことが我々の本意ではないはずです。
回答:
ヒットラーは米国を攻撃しませんでした。私の知る限り、米国はどの国からも攻撃を受けたことはなかったと思います。米国への侵略が発端となって起こった戦争は一度もありませんでした。ジャクソンはフロリダを略奪するためにスペインと戦い、ポークはメキシコからその40%に当たる領土(現在のカリフォルニア、コロラド、ニューメキシコ、アリゾナに相当)を奪うために、メキシコと戦い、またインディアンの土地も取り上げました。マッキンレーもウィルソンも同様です。フランクリン・ルーズベルトは、ヨーロッパ諸国に対するヒットラーの侵略、およびアジアにあったイギリス、オランダ、米国の植民地に対する日本の侵略を不満に思い、米国を第二次世界大戦に参戦させたのでした。朝鮮戦争を開始したのは、米国が嫌悪する独裁者が、米国のお気に入りの独裁者を攻撃したためでした。ベトナムも湾岸戦争も同じことです。米国を他者の攻撃から守るために戦った戦争などなかったのです。
米国が戦った戦争は、自国の防衛ではなく、すべて領土の獲得や他者の救援のためでした。しかし、戦争を行うかどうかの基準は一貫したものではありません。戦争にはそれなりの大義があって当然ですが、その大義は米国人には直接関係のないものも多く、また同じような悲惨な状況があっても無視した時も同じくらいありました。

結局、我々が他者の救済のために好意から行ったことは、結果として何をもたらしたでしょうか。第一次世界大戦はウィルソンが約束したような戦争の終結にはつながりませんでした。ヒットラーについてもヨーロッパの侵略は阻止したものの、その矛先をソビエトに向けさせることになったに過ぎません。満州では日本を抑えたものの、ソビエトに対しては何も行いませんでした。蒋介石を日本から守ったものの、その3年後には毛沢東に中国を乗っ取らせました。韓国の独裁者は、南米にある米国の属国と同様、いまだに汚職にまみれています。ベトナムは今や米国の友好国ですが、米軍が撤退してから一体何が変わったというのでしょうか。サダム・フセインでさえまだ政権に就いています。あれだけ血を流し、資金を投じたというのに、そこから我々は何を得たというのでしょうか。

読  者:
私自身戦争を肯定するつもりはありませんが、筆者の意見は極端です。米国は今も昔も悪い国ではありません。領土拡張時代の歴史を振り返れば、米国が行っていたことは、良かれ悪しかれ、どこの国も行っていたことです。
回答:
良い国と悪い国というのはどこで区別されるのでしょう。そうなるとヒットラーが行ったことは、米国と同様に、ドイツの領土拡張に過ぎなかったことになります。また日本がしたことも、サダム・フセインが行ったことも、米国と同じだったということにはなりませんか。それとも、自国の行動としては良しとすることも、他国が同じことをすれば悪になるのでしょうか。
読  者:
正直に言って、負傷者には悪いのですが米国がイラクを攻撃して良かったと思います。悪いのはサダム・フセインなのですから。しかし後から考えると、米国は戦うべきではなかったと思います。日本とアラブ諸国が戦えば良かったのです。
回答:
日本はサダム・フセインと戦わなかったでしょう。日本は中東の石油を必要としてはいますが、それを手にする最善の方法は、中東政治への干渉ではなく、石油代金の支払いだと考えていますから。大半の貿易は爆弾や銃よりも、貨幣による決済の方がスムーズにいきます。何よりも、私が知っている日本人には、イラクの武器は米国が提供したものだったということ以外、イラクとクウェートの区別さえつかないのです。
読  者:
武力紛争よりも経済戦争の方がましだと言うのですか。
回答:
もちろんです。たとえ赤字になったとしても、戦争のように本物の血を流すことにはならないはずです。しかし、あなたの質問が日本を示唆しているのだとすれば、日本の貿易政策は腐敗したと感じてしまいます。私が来日した当時、日本は石油や他の天然資源、食糧など、日本の死活に係わる物資の代金を稼ぐために輸出を行っていました。しかし今や、大半の輸出は、輸出企業の所有者や経営者を豊かにするために行われています。日本の輸出の半分が、日本の大企業30社によるものです。同じ30社は、最大の政治献金者であり、広告主なのです。そういった意味で、これら大企業は自分達が豊かになるために、日本という国家全体を腐敗させているように思います。
読  者:
戦争は外交政策の失敗によるものではないでしょうか。問題は行動ではなく、その目的です。すべての戦争や侵略は、神の名のもと、あるいは国家主義や経済的繁栄のために行われたのですから。
回答:
私が読んだ聖書はとりわけ戦争や他の殺戮に反対していました。私に言わせれば、神の名にかけた戦争はキリストの教えに反するものです。大半の戦争は君主の気まぐれか、あるいは個人の利益のために国家資源を牛耳ろうとする少数支配階級を金持ちにすることを狙って開始されたと考えます。
私は、米国が気まぐれで、世界の警察になる必要はないと考えます。そして、日本や他の国が軍事力を増やす必要もないのです。我々に必要なのは世界合衆国であり、それには、国境を越えた問題に関する法律を作るための立法機能、またその法律を施行するための行政機能、さらに法律の解釈のための司法機能を持たせるべきです。これを全世界で行うのが無理であれば、地域単位で行うべきです。それには、米国、日本、ドイツなどの大国が、国家主権を一部断念する必要があるでしょう。米国は、これまで少なくともフランクリン・ルーズベルトが国際連盟に異議を唱え、またトルーマンは国連で拒否権を発動し、また最近の大統領達は国連を米国の操り人形のように操作しています。

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<<< No.69 ダウンサイジングの教祖的指導者が主張を撤回 >>>
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読  者:
ローチのような専門家は生産性が実際に何を意味するのかをきちんと理解していません。大半の経済学者は工場に足を踏み入れたことなど一度もなく、生産工程を理解していません。それどころか、自分のタイヤさえ交換したことがないはずです。
回答:
多くの経済学者は生産性などには関心がなく、関心があるのは、いかに経営者が株主を豊かにするかだけなのです。利益の追及者にとっては、製品をより低コストで生産できるのであれば、生産性の高い米国人1人を雇うよりも、生産性の低い外国人3人を雇う方がましなのです。
読  者:
経済学者は観念的であるため、生産性の上昇と税制のつながりを理解していません。例えば、生産性の高い国の多くは、賃金と法人税も高いという傾向があり、日本がその良い例です。賃金と法人税が高いと、企業に対して人件費を削減するための設備投資を奨励することになります。長い間、生産性の増加において、高賃金、高税率の国、日本とドイツが、低賃金、低税率の米国を追い越していることは誰もが知っている事実です。
回答:
経済学者が生産性と税制の関係を理解できないのは、彼らが観念的だからというよりは、富裕者や権力者に雇われているということが大きく影響しているのではないでしょうか。企業は、その所有者や経営者の税金や法人税を低く抑える一方で、賃金の削減を助ける学者やメディア、政治家に多額の資金を支払っているのです。
読  者:
経済学者には現実が全く見えていないせいか、彼らはドイツの失業を欠点であるかのように捉えています。しかし、事実は、それが生産性の高さの現れであり、労働力人口の75%だけで、労働者には高い生活水準を、また非労働者にもそれ相当な生活水準を提供できることを示しているのです。日本ではすべての国民に高い生活水準を提供するのに、労働力人口の55%しか必要ありません。というのは、日本の場合、社会で働く意欲および能力を持つ女性の大半が家庭の主婦であるためです。しかし米国では労働力人口の95%が働いていますが、労働者の生活水準は高いものの、非労働者の生活水準はかなり低いというのが現実です。その結果、先進国では、失業率の高いドイツや、労働者の労働参加率の低い日本が、本当の意味での高い生産性を示しているのです。
回答:
その通りです。ということは、ドイツや日本の方が米国やイギリスよりも、より多くの国民の幸せのために国家が運営されているということにならないでしょうか。
読  者:
米国家庭と日本家庭は、米国の方が生活空間が広いという違いはあるものの、暮らし向きがほぼ同じだということです。しかし、同じ生活水準を維持するのに、米国では共働きが一般的であるのに対し、日本では1人の就労で済みます(ただしその1人は働き過ぎの状況にあるようですが)。その結果、経済学者が正直に考えれば、高い税金と賃金は企業に投資を余儀なくさせ、所得再分配を待たずとも、高い生活水準につながることがわかるはずなのです。
回答:
私もあなたと同じように社会が良くなることを期待していますが、ここに述べておられる意見を見ると、あなたは私よりもずっと楽観的であると言わねばなりません。おかしなイデオロギーを持たない、現実的でかつ正直な経済学者を見つけられると思っているのですか。

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<<< No.72 私腹を肥やすCEO >>>
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読  者:
私は仕事の関係で87年から5年間、NJのバーゲンカウンティの片田舎におりました。米国でのプロテスタントの考え方から来る「THE SURVIVAL OF THE FITTEST」の考え方に共感するものがありました。人より多く働くから当然多くの報酬を得るのが当然である。しかし、もし、この考え方が増長しているなら考え物です。この点、戦後進駐軍が作成した厳しい累進課税制度のおかげで、このような事が日本で行われないとは皮肉といえば皮肉な事です。
回答:
私が米国よりも日本の方が幸せであると考える理由は、日本があなたが米国で経験したような適者生存という野蛮な社会ではなく、より文明化した社会に発展してきたためです。
読  者:
米国の価値観が、人類の理想を実現するものではないことは、私も同感です。ただ、だからと言って、現在の日本が人間社会の理想的な姿だとも思えません。よく言われるように、日本はムラ社会、談合社会です。ムラ社会とは、ムラの構成員である限り極めて安全、かつ、快適に過ごすことのできる社会です。しかし、一方では、ムラの外部の人に対して冷淡な社会でもあります。また、ムラの構成員であっても、ムラの大勢に従順でない人は疎外され、いわゆるムラ八分にされるのがムラ社会です。このような社会は、社会全体がひとつの目標に向かって一丸となって活動する場合には、効率の良さを発揮します。しかし、時代の変化が激しい場合、個人の創造力や独創性はムラの中で抑制され、異端者がイノベーションを起こすことが困難になり、時代の変化に順応が遅れ、適者生存の原則から落ちこぼれてしまう危険があります。
回答:
村や社会の目的は最大数の人々に最大の幸せを提供することであると信じています。そのような村や社会では、一部の人間が他者を犠牲にするようなことは許されず、また社会の一員として行動するよう各人に要求されます。
読  者:
経済大国となり、自ら地平線を切り開かなければならない今日の日本は、組織の調和だけを堅持するだけでなく、個人の独創性と多様性を重視する社会に変化する必要があると思います。
回答:
私は日本が変わり過ぎたし、その変化が間違った変化であると考えています。日本は個人の多様性や個性に対してあまりにも寛容になり過ぎたと思います。最も有能で最強の人間であればジャングルでも生き延びることができるでしょうし、社会”など必要ないかも知れません。社会や村の目的は、その最強者が弱者を犠牲にして自己の利益を追求することを防ぐことにあるのです。私が最初に来日した1969年の日本では、そういった考え方が教えられていましたが、現在の日本人はそれを忘れかけているようです。
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