No.92 日本・ペルー・米国の関係とペシャイン・スミス

昨年末に発生したペルーの日本大使館公邸の人質事件については、新聞・テレビなどで連日、報道されていることと思います。この事件と直接の関係はありませんが、今回は、明治時代にさかのぼって日本とペルーの関係、そして当時日本に大きく貢献した米国人外交官について、ニューヨークのエコノミスト、マイケル・ハドソンがまとめたものをお送りしたいと思います。社会の教科書にある内容とは少し異なる角度から歴史を振り返ること

日本・ペルー・米国の関係とペシャイン・スミス
マイケル・ハドソン

今から120年以上も前、日本とペルーの間で戦争が勃発しそうになったことがある。1872年6月5日、230人の中国人労働者を乗せたペルー船「Maria Luz」が横浜港沖で難破した。当時、駐日米国大使は日本とペルー間に争いが生ずれば、ペルーの国益を代表するよう本国から指令を受けていた。しかし、明治天皇の相談役を務める米国人経済学者がいた。ペシャイン・スミスである。スミスは日本政府に対し、中国人労働者を抑留しておくよう助言した。これに対しペルー船の船長は公式に異議を申し立て、ペルーは日本に対して宣戦布告しかねない状況になった。この時点で紛争は、ロシア皇帝、アレクサンドル2世(ロシアの農奴解放を行ったことで有名)に調停を依頼する。1875年5月、アレクサンドル2世は、日本の中国人労働者抑留は合法であると判定し、労働者は中国に送還された。そして労働者貿易は非合法とされ、間もなく解散を命じられたのである。

この事件が今日興味深く感じられるのは、スミスという人物と当時の日米関係にまつわる話にある。スミスは、米国国務長官となったウィリアム・ヘンリー・スーアードの法律担当パートナーとして、南北戦争以前から北部の奴隷反対政治の中心的役割を果たした人物でもある。ウィリアム・スーアードはリンカーン暗殺後、ジョンソン大統領が辞任する1869年まで国務長官を務め、その後2年間、世界中を周り、中でも日本では特に歓迎され、明治天皇にも謁見した。

1868年の明治維新は、日本の国粋主義復活の前兆と見られたが、当時の日本は駐日英国大使、ヘンリー・パークスの支配下にあった。1871年4月にようやくパークスが帰国すると、この時とばかりに、外務大臣福島は外交組織を再編成した。日本は国際法の顧問を派遣してくれるよう米国に依頼し、その依頼を受けて、スーアードの後任者、ハミルトン・フィッシュは、ペシャイン・スミスを推薦し、1871年末にスミスが来日したのである。

以来日本は40年間、外務担当顧問として米国人を起用している。しかし、このような慣例があったことは米国の歴史の教科書には全く載っていないし、近代の自由貿易主義的そして自由競争原理中心の英国系米国人の視点から歴史の教科書が書き換えられた日本でも、あまり知られていないことと思う。

英国は中国とのアヘン戦争がそうであったように市場の開放と英国への依存を追求し、日本に対しても自由貿易第一主義をとった。これとは対照的に、スミスは自分が師事する経済理論家、ヘンリー・カレイに宛てて、次のように書いている。「国内産業保護促進政策について、日本の政治家は正統な考えを持っているようだ。改正後の条約はこの点で特に、キリスト教国にとって最も受け入れがたいものになるだろう。日本は通商上の障害を容認する特別な理由がない限りは、すべての障害を取り除くつもりでいる。さらに私は、日本は ”最恵国待遇 ” の条項も削除すべきだと確信する。日本を傲慢かつ非友好的に扱うものに対して、武力を使わず、報復措置がとれるようにするためである」。つまりペシャイン・スミスは、日本が特定の国に最恵国待遇を与える代わりに、取引をする相手国を選び、日本の輸出品が海外市場に平等にアクセスできるようにさせることが良いと考えたのである。

スミスは来日すると、すぐに日本人と同じ生活をし始めた。日本の学者達は、日本に庶民外交をもたらしたのはスミスの功績だとしている。着物を着て、刀を腰に付けたスミスは、日本人の妾もいたという。さらに、こうした現地人化が受けたのか、日本政府にもスミスは重宝がられたようで、1874年には当初の2年契約がさらに3年間延長されている。

日本人社会にスミスが引きつけられたのは、スミスの目から見てそれが平等主義に思えたからだ。スミスはカレイに「日本には一人も奴隷がいない」と書き送っている。スミスが、労働者貿易を止めさせた裏には日本社会に対する彼のこうした見方もあったのだろう。

日本の学者によれば、スミスが日本を去る1877年には、「米国式の保護主義経済理論が、日本の政治家、政府役人、理論家の間に一般理念として浸透していた」という。

事実、共和党の1853年の設立党大会の綱領を草案したのはペシャイン・スミスである。その綱領は次の3本柱から成るものであった。第一に奴隷制の廃止、第二に英国のような金融投機型ではない直接投資型の米国式経済の導入、第三に、綿花貿易のような交換だけでなく、産業に融資を行う中央銀行の設立であった。この政綱に基づき、スーアードと共和党員は南部の奴隷制に立ち向かった。(1860年以前には、リンカーンはまだ無名であった。)

スミスの主な著書、『The Manual of Political Economy(1853)』はドイツ語、フランス語など、他の言語にも翻訳されている。その中で、スミスはマルサスの人口論を否定し、また、リカルドの土地収益理論に対しては、「土地に元々備わっている不滅の力」から派生したものであると反論している。当時、米国の土壌の産出力は、単一栽培の輸出パターン(特に南部のタバコや綿花)によって枯渇しつつあった。そのため、海外貿易は、単なる「最低価格市場からの購入」だけではなく、物理的な資本形成と生産性に影響をもつと考えられていた。

スミス以前の時代には、保護貿易主義者も自由貿易主義者も、低賃金労働者の方が高賃金労働者よりも安値で販売できることを懸念していた。しかし、スミスはその逆を立証した。つまり実際には、生産性の優位性が賃金の差よりも大きいことから、高賃金、高学歴、熟練の、食生活の良い労働者の方が、低賃金の貧しい労働者よりも安値で販売していたのである。このような見方は、正統派の貿易理論を唱える石頭達の間にはまだ浸透していないが、人件費の高い日本が、高い生活水準を達成できている理由はまさにこれなのである。

スミスは、エネルギー集約型の資本に加えて、生産性の高い労働者を生む重要な鍵は教育以外にはないと説いている。基本的に、生産性とは、労働者1人当たりのエネルギー使用機能を指す。このことから、スミスは産業生産性分析の父であると考えられている。日本にいる間、スミスは手作業を動力に変え、労働力や生産を機械化すべきであると説いてまわった。

これは、英国のやり方とは正反対である。当時英国は日本に対して、例えば絹のようにすでに日本が長けた生産に特化し、工業製品の供給はイギリスの工場に任せるべきだと主張した。しかし、日本は米国の支援によって自国で工業製品を賄えるようになっただけではなく、世界の大国にまでのし上がったのである。(この時代は、米国も日本と同様に、まだ保護貿易主義国であり、かつ新興工業国であった。)

米国の経済学派も、かつては工業および技術に傾注していた。フレデリック・リストの『National System of Political Economy』は、「問題は、国家の交易量を増加させることではなく、生産能力を増大させることである」と説いている。近代の経済学もあえてこのことを思い起こす必要があるのではなかろうか。