No.101 バランスシートで見る日本のバブル経済(後編)

先週に引き続き今回のメモは、ニューヨーク在住のエコノミスト、マイケル・ハドソン氏が日本のバブル経済を新しい経済理論である”バランスシート経済学”という視点から分析します。是非お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

バランスシートで見る日本のバブル経済(後編)
マイケル・ハドソン

日本の金融バブル(1986年-1991年)の特異性
 好景気の初期には株価や不動産価格が急騰するため、負債を増やしながらも大半の人は金持ちになっていると感じる。しかし、負債処理費が膨らんで返済不可能になると、金利が上昇し、資産価格が下がる。企業倒産もある。そして紙の上での架空の富は、負債に対する金利支払能力を反映した実体まで下がり、好景気は終わる。しかし金融バブルがこの好景気と最も異なるのは、バブルでは金利の上昇が抑制され、資産価値は下がるどころか膨張する点にある。
 マスコミは、バブルは人類の楽観主義の当然の帰結であり、定期的に起こる現象であるなどと書き立てる。好景気によって賃金や原材料の価格や金利が上昇すると、高金利のために債券の価値が下がり、また賃金上昇で企業利益も浸食され、株価も下がる。同様に不動産価格も抵当費用の増加と長期融資が底をつくなどの影響を受ける。銀行や保険会社の貸付金や投資が、その銀行の預金や保険会社の責任準備金以上になる。もし国民がこれらの金融機関に託している自分たちの貯金や保険金は大丈夫だろうかと疑うようになれば、支払の鎖が切れるという危険性もある。
 しかしこの構図には政府の果たす役割が欠けている。結局政府こそが、国家債務と通貨制度・金融制度の間のパイプ役なのである。そしてほとんどのバブルは、貪欲な財界ではなく、政府の政策がその機動力となっている。政府の金融政策は公的および民間債務の貨幣化、そして国際収支に常に関与しているのである。
 最初の問題は、増加する国家債務がなぜデフレではなく、インフレ傾向で貨幣化するのかという点である。厳密にいうと、財・サービス市場ではなく、なぜ金融資産や不動産市場に限定してインフレするのかということである。これは、中央銀行が既存の債券を購入すれば解決する。債券を売る側(投資家の代表としての証券会社)は銀行預金を手にし、買い手(都市銀行等)は中央銀行が債券を買い上げてくれることでその銀行に対する支払い準備高が増加する。第二の問題は、政府の資産価格と負債額の関係である。金融バブルは、有形の富、つまり、財やサービスの生産能力の成長率が、経済の貯蓄の伸び率を下回る場合に起きると定義することができる。この2つの問題によって金融バブルが起こる場合、通常の好景気時にはない条件が必要になる。日本の場合、以下のような特異な条件があった。
 まず第一に、貿易収支または国際収支の制約があってはならない。資産価格を押し上げるために、為替相場に影響を与えることなく金利を引き下げられるだけの余裕がなければならない。1985年以降に見た日本のバブルでは、政府が円高を抑えるため、低金利だけではなく海外投資をも促進した。したがって、日本の場合、バブルによる景気拡大期の初期には、国際収支がより均衡へ向かったことになる。
 第二の特異性は国家債務が少なかったことである。これは、日本の軍事費がほとんどないに等しかったことに起因する。富の増加に対する税金が低く、また労働者に対する所得税や消費税も国際的に見ると低かった。
 第三に、日本は国家債務が比較的低いにも拘らず、貯蓄率の高さは際立っていた。さらに重要なことに、国内の不動産や株、債券を好む傾向から、その貯蓄が国内で環流した。国内の貯蓄の海外への流出が低かったことが、日本のバブルを膨張させる機動力となったのである。
 第四の特異性は、米国の低金利政策と円高誘導策の餌食になった点である(詳しくはOWメモNo.64と No.65の『米国はいかにして日本を滅ぼしたか(前・後編)』を参照のこと)。日米金融外交の結果出現した日本から米国への「贈り物」は、日本に何兆円という犠牲を強いることになった。またさらに深刻な事実は、日本から米国への資金移動は日本の金利を低く抑え、信用供与を増やした結果であるにも拘らず、市場勢力によるものであるかのように見せかけた点である。
 第五に、日本では政府が公的資金を使って預金者、もしくは直接、銀行その他の金融機関を救済した。この救済により、日本は負債の裏返しであるバブルで膨れ上がった資産を清算せずに済んでいる。
 そして最も異なる点は、日本の経済政策の策定における新しい政治的局面である。つまり、日本政府が既存の金融資産、つまり、日本の実体経済の富に対する債権を保護している点である。日本のバブルはプラザ合意による歪んだ経済がもたらしたものであるにも拘らず、それが本来のあるべき姿であるかのように、資産価格を回復しようとあらゆる手段をとっているのである。バブル期の資産価格まで回復しなければ、日本の銀行や保険会社、その他の金融機関は債務を返済できないと日本政府は主張する。日本の金融の上部構造の大部分が消滅するのを避けようとしているのだ。それは、年金、信用組合、保険会社、中流階級の退職金などが占める金融債権があまりにも莫大なためである。

富裕者の要求を満たす福祉資本主義
 1930年代以来、政府の社会的責任として経済的安全網の提供が加わった。これが福祉資本主義である。この福祉の受益者は富裕者である。富裕者は多くの物を所有しており、それが他の国民の手に渡らないよう、保護することを求める。また、アルコール中毒者や麻薬中毒者と同様に、富裕者は一度手にした富を守るために全エネルギーと精力を費やしている。
 富裕な不労所得者階級に対する公的福祉には、預金保険や大農業家のための価格援助、そして公的資産の民営化などがある。これらの福祉が政治の最優先事項とされ、経済的に困窮を極める人々の福祉は削られていく。
 富裕階級は自分達の立場を未亡人や孤児とだぶらせ、未亡人や孤児は貧しいというイメージを植え付ける。だが未亡人や孤児と呼ばれる人々の中には、信託基金を持ち、両親や夫には先立たれていても、投資ポートフォリオ、保険証書、不動産など合わせて何兆ドルも所有する世襲の金持ちがいる。世界が過去一世紀の間に民主的な政治形態に移行するにつれて、世襲財産保持者の子孫や配偶者は、不労所得階級を夢見る残りの国民に対する権力を維持しようと保護を求めてきた。そしてその要求は留まるところを知らない。富が存続すればする程、富の中毒者の子孫は特別な公的配慮を求めるのである。
 不労所得者という言葉は、11世紀にイギリス国土を奪い、国民を奴隷化したノルマン人の侵略者に由来する。もともとの語源は不在地主に支払われる所得の定期的な一定の流れを指し、所有地の貸し出しと引き替えに支払われる地代と、政府(公共企業)に対する融資に対して支払われる金利を意味した。そして現在、地代と金利は、何世紀も前の征服者の相続人(未亡人と孤児)に対して社会が負う間接費となった。未亡人と孤児、中でも長男は、不在地主の財産と、政府や企業、残りの国民に対する金融債権を何世代にもわたり引き継いできたのである。

日本の将来
 金融・不動産バブルの後に残った負債の対処策として、日本には2つの解決策が勧められた。1つは、不良債権と株式市場の負債を償却することである。この方法はバブルがはじけた時の従来型の対処法であり、債券の持ち主や銀行の預金者の債権を帳消しにするか、少なくともその資産価値を下げることになる。しかし、不良債権で「不良貯蓄」を帳消しにすると、不良債権で支えられていた銀行の預金や責任準備金は支えを失い、宙に浮いてしまうという問題が起きる。日本の金融債権の多くは裕福な投資家のものではなく、年金基金や保険会社、その他の金融機関なのである。では、住専と同じように、日本の納税者がこれらの金融機関も救済すべきなのだろうか。もしそうであれば、日本にバブルが再燃したときの準備もすべきではないだろうか。貯蓄が実体の資産基盤を超えて複利で増え続ければ、バブルが「再燃」することは間違いないからである。
 もう1つの対処策は、経済を再度インフレにさせることである。これはバブル期の失敗を繰り返すことになる。インフレは不動産や株価を債権以上に押し上げることで負債を帳消しにするかのように見せかける。しかし、インフレで債権の価値を目減りさせるのであれば、なぜ最初からすべて帳消しにしないのか。
 簡単な解決策はなく、政治家は問題に正面から立ち向かおうとはしない。過去6年間、大蔵省と日銀は市場から解決策が生まれることを期待してきた。金利を最低限まで引き下げ、税負担を不動産や金融部門から労働者へ転嫁することで市場勢力のお膳立てをしてきた。
 もちろん不動産価格を引き上げるために経済全体をインフレにする必要はない。政府は固定資産税を削減し、それによって、より多くの賃貸収入が銀行への利払いに回るようにした。不動産投資家を救えば現在の不動産所有者と共に銀行の救済にもつながる。
 しかし不動産や金融投資家に減税すれば、どこかで増税しなければならない。その代償が消費者への消費税5%増税である。今後不動産や金融資産に課税しなければ財政赤字が生まれ、金利が増加し、将来はさらに赤字が増える。その結果、また増税が必要になるだろう。
 不動産や銀行業界はこの政策を公正なものだと支持しているが、彼らの主張には二重基準が潜んでいる。何十年間も不動産価格の急騰に固定資産税の見直しが遅れた結果、地主は利益を得てきた。地価が落ち込み始めると、地主達は税金が高すぎると不満を述べ、現在の見直し過程を迅速化することを望んだ。その間、銀行は会計上は株を帳簿価格のまま残し、一方で長年にわたる株式市場の高騰から利益を得てきた。不動産および株式市場の価格の最近の低下を簿記に反映させれば、日本の大手銀行の正味資産はマイナスに転じる。
 この問題は日本に限った問題ではなく、過去一世紀の間、世界中の市場経済で起こっている。しかし日本の場合、銀行制度の抵当ローン、株式市場ローンやその他の投資が、日本の貯蓄家や企業が銀行に持つ預金高を下回ってしまった。保険会社の準備金の市場価値も同様に急落し、保険会社は当初予想した保険金を払うことができない。
 この財政破綻こそ、日本が1985年に金利を引き下げた結果支払うことになった代償である。この低金利政策が世界の金融バブルを膨張させた。これは米国を助けるために(少なくとも、米国の外交官達を満足させるために)取られた政策であったが、結果として、日米両国に損害をもたらしたのである。
 過去5年間、日本は不動産の暴落から経済が独りでに立ち直るのを待ち続けた。しかし、それは負債処理を行わない限り起こり得ない。大都市の地価は6年間連続して下落し続け、中でも商業地はその傾向が激しい。
 日本のバブルとその余波を景気循環の一部であると捉えるのは狂気の沙汰だ。楽観的な循環説によれば、日本に必要なのは不動産価格の回復をただ待ちわびることであり、米国と同様に銀行は徐々に債務状況を立て直すであろうから、日銀と納税者はこれらの銀行、少なくとも預金者を救済する代償を支払う必要がなくなるという。
 しかし絶対そうはならない。なぜなら繰り返すがバブルは循環型の好景気ではないからである。ではどうすれば良いのであろうか。

日本のバブルに関する理論と政策のための構造的条件
 現在起きていること、また将来どうなるのかという認識は、どの理論を採用するかで異なる。理論によって収集すべき統計も異なり、理論が不完全なら統計も不完全になる。
 今日、キャピタルゲインまたはロスについて、きちんと統計を集めている国はない。先に述べたように、投資家の目的はトータルリターンを求めることであり、不動産、株、債券の経常収益よりもキャピタルゲインを重視している。残念ながらOECD諸国が使っている国民所得の様式は経常収益のみを記録し、マクロ経済理論に資本資産価値は含まれていない。トータルリターンあるいはキャピタルゲインを計算に入れるには、国民所得勘定と製品勘定にバランスシートの分析を加味する必要がある。
 日本がもっと現実的な財務報告を行うためには、実際の預金という銀行から見た負債額に対する銀行の支払い準備金の割合がいかに減少しているかを示す必要がある。同様に不動産部門のキャピタルゲインの統計も取るべきである。近代の税会計では、地主は売買の都度同じ建物を何度も減価償却できるため、不動産収入と償却費が相殺されることにより、不動産から不動産所得が生まれていないように見せかけている。土地の価格が上がっているのに、建物の価値は失われているかのようである。こういった減価償却済みの建物が売却されれば、毎年課税されずに減価償却された不動産の売却によって大きなキャピタルゲインが計上され、一度に税金がかけられる。帳簿価格や税金の数字は、市場価格と何百兆円もの差がつく。しかし、経済分析のためのデータは一部しか公表されず、また公表されるデータも事実を反映していない。
 各国の経済統計は今の形では経済の最も重要な側面、つまり、資産とそれを担保とする負債の関係がわからない。銀行、保険会社、企業の乗っ取り屋、年金基金、短期金融商品投資信託、さらには自分の退職金を管理する個人による投資は、世界中でキャピタルゲイン獲得のために集中しているにも拘らず、そのような統計は存在しないのである。
 このように統計にブラックホールがあるのはなぜか。それはキャピタルゲインに関する統計を集め始めれば、政府が資産保持者に増税を行い、不動産部門がこれまで税金を支払わずに済んだ抜け穴が明らかになり、そのような手口を奪ってしまうかも知れないと恐れているからである。さらに国民や政策立案者が、キャピタルゲインの大半が不動産部門で生まれていることに気づいてしまう。脱工業化社会で最も恩恵を得ているのは生産業者や労働者ではなく、不動産開発者だということがわかってしまうからである。
 不動産投資家が賃貸収入を得ていないとすれば何を得ているのかというと、それはキャピタルゲインである。しかし、それを追跡するための統計が集められていない。日本国民は所得税や消費税を支払わされている一方で、どれだけ不動産や保険、金融部門が課税控除を受けているかを知る術を持っていないのである。

結論
 バブル経済とは、投資対象の有形資産よりも貯蓄の方が早く増える状態であると定義することができる。その結果、金融資本がその融資に対し経済全体から債務の返済を受けることになる。資産価格の上昇で負債を返済しようというケースが増えているが、これは日本に新しい経済の分裂が生じていることを示している。富の格差が所得格差を上回っているのだ。
 このような状況は、不動産投資家に賃貸収入から利払い費を控除することや、建物の減価償却を許可することでさらに助長される。しかし、資本減耗引当は主に見せかけの帳簿費用であり、金利の支払いは資本の累積に使われる。この積み重ねがバブル経済であり、それを税法が後押ししている。一方、銀行や保険会社には、キャピタルゲインではなく、税引き前費用として定義される様々な準備金がある。
 支払い能力を超えた負債が生まれるのは何も今に始まったことではない。4,000年以上も前の古代メソポタミアの時代から存在していた。紀元前2,000年から紀元前1,000年までの1,000年間に、中近東社会でとられた借金に対する対応策は、定期的に借金を帳消しにすることだった。借金を白紙に戻すという伝統は、旧約聖書の中のモーセの律法にも残っている。古代も今も変わらないのは利払いの問題である。各国の負債返済能力よりも、負債処理費の方が急速に膨らんでいる。古代社会ではこのような状況に負債の帳消しで対処してきた。そうしなければ、債権者がすべての富を専有し、負債によって社会を分断することになったであろう。現在これと同様なことが起きている。だが社会の対応は大きく変化した。過剰な債権を帳消しにするのではなく、債権者への返済のために社会が犠牲になるのである。日本や他の近代工業国家は負債を帳消しにすることに消極的である。なぜなら複式簿記の会計様式では、負債を帳消しにすればその一方にある貯蓄も帳消しになるからである。  エコノミストの定義では、財やサービスに使いきれない所得が貯蓄となる。融資に回る貯蓄は金利とともに増えるが、消費の上昇率はそれに追いつかない。貯蓄の増加率が消費の増加率よりも高い場合、貯蓄が債券や株、不動産に投資される限り、デフレではなくインフレになる。その結果、日本経済は1985年以降、異常事態を呈してきた。少なくとも円高によって物価が下がり、不動産や株、債券の資産価値は上昇した。その間、生活水準は低下し、経済は麻痺し始めた。だがこのような状況は統計の欠如によって隠されてきた。
 今日、不動産は依然として主要な富の媒介である。富の90%は国民の10%に集中し、相続によりそれが維持される。大半の債券や株は大手機関投資家が保持している。金利の引き下げによって債券価格が上昇し、通常株式市場もそれに追従する。
 何千年間も政府は土地から財源を得てきた。しかし土地が非国有化されるに従い、裕福な地主は財源となることから逃れるようになった。その結果、政府は他の階級から税を徴収せざるを得なくなった。政府は、自然の恵みである土地を先祖から相続したに過ぎない地主にではなく、富を生産する人々に課税し始めたのである。
 近代の政府は、土地から税を徴収するのではなく、土地の所有者にキャピタルゲインを与えることを保証するのがその仕事になった。つまり公的部門の役割が古代と逆転したのである。
 誰もこれに気づいていないとすれば、それは不動産や金融ロビーが自分達の利権を経済全体の利権であるように装っているためである。自分達のための税制優遇措置が当然であり、成功するための経済的規則であるかのように主張する。しかし、歴史を見れば、金融・不動産の利益のためのそのような税制優遇措置は、衰退と崩壊に向かう経済の特徴であることがわかるはずだ。
 古代の緊急事態において、政府は富裕者の富を没収した。しかし現代の政府は大多数の国民から富を絞り取り、それを金持ちに回している。さらには民営化を通じて、国家の資産を売却している。古代に公的債務は存在しなかった。近代になってそれが誕生したのは、金融資産を握る者の力が、国家権力よりも強くなったためである。日本の公的債務の増加、そして労働者への税負担の転嫁は、一般国民よりも金融、不動産の力が強くなったことの表れなのである。