No.122 アメリカはなぜ原爆を投下したのか

8月最後のOur Worldは、『原子外交:広島とポツダム(”Atomic Diplomacy: Hiroshima and Potsdam”)』の著者であるガー・アルペロビッツによる、読みごたえのある論文をお送りします。イギリスのケンブリッジ大学で博士号を取得したアルペロビッツは、National Center for Economic Alternativesの所長で、ワシントンD.C.の政策研究所の研究員も務めています。過去数十年間、彼は米国が広島、長崎になぜ原子爆弾を投下したか、という研究に従事してきました。以下、MITテクノロジー・レビュー誌に掲載されたアルペロビッツの論文をお読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

アメリカはなぜ原爆を投下したのか
(テクノロジー・レビュー、1990年8-9月号より)

 一般の米国人に、なぜ米国が広島と長崎に原爆を落としたのかを尋ねれば、たいていの人はこう答えるであろう。「日本上陸により、多くの犠牲者を出すことを避けるためであった」と。数年前、ABC放送の「ナイトライン」でも、キャスターのテッド・コッペルが、「日本への原爆投下は人類の悲劇であった。…しかし原爆を落とさなければもっと大きな悲劇を生んでいたであろう」と語った。しかし、これを鵜呑みにしてはならない。「当時、原爆投下以外にも日本への本土上陸を阻止する方法があったことは識者の間ではすでに常識となっており、トルーマンも彼の顧問もそれを知っていた」という事実があるからである。これは、米国原子力規制委員会の主任歴史家、J.サミュエル・ウォーカーの言である。
 識者の見方がこのように変化したのは、機密文書や日記、日誌が新たに公開されたことによる。特にトルーマン大統領の日記は、「米国による日本の本土上陸を阻止するには原爆投下しかなかった」とするこれまでの米国民の見解をなし崩しにすることになった。
 1946年実施の戦略投爆調査の結論も、「原爆が投下されなくても、またロシアが宣戦布告しなかったとしても、さらには日本上陸を考えなくとも、1945年12月31日までには確実に、そしておそらく1945年11月1日までには、日本は降伏していたであろう」として、先の歴史家と同じ結論を示している。
 ではなぜ米国は原爆を投下したのか。1945年の年表だけ見ても、米国の動機に疑問がわく。5月8日にドイツが降伏し、連合国は日本が窮地に立たされていたことを知っていた。2月のヤルタ会談で、スターリンが、ドイツ敗戦から3ヵ月後の8月8日前後に日本に宣戦布告することを約束していたからである。米国は日本上陸におけるソ連の支援を期待していたが、米国が上陸しなくても、ソ連による宣戦布告の衝撃で夏の終わりには戦争は終結するものと思われていた。
 8月6日、エノラ・ゲイが原爆を広島に投下、8月8日、ソ連が日本に宣戦布告、8月9日、長崎に2つ目の原爆投下。米軍の日本上陸計画が予定されていたのはそれからまだ3ヵ月も先のことであり、さらに全面的な日本侵略は1946年春まで行われないことになっていた。
 ノーベル賞受賞のイギリスの物理学者、P.M.S.ブラケットは、この年表だけ見ても、米国による公式な原爆投下理由が成り立たないと、すでに1948年に指摘している。米軍の本土上陸がまだ3ヵ月も先の計画であったのに、なぜ原爆投下以外に方法がないと決断したのか。現在その最も大きな理由とされているのは、戦後のソ連との力の均衡を自国に有利にしたかったからだと言われている。

戦争終結を求めていた日本
 米国が日本に上陸していれば百万人のアメリカ兵の命が犠牲になっていたと、トルーマン大統領はよく述べていた。しかし、軍の計画記録にその数字的根拠はない。スタンフォードの歴史家バートン・バーンスタインによれば、統合参謀本部の諮問グループ、統合戦争計画委員会は当時、九州、次いで本土戦となった場合のアメリカ兵死亡者の数を約4万人と見込んでいた。さらに6月半ばには、ソ連が宣戦布告しない場合でも、九州への上陸だけで戦争を終結できるであろうと同委員会は結論づけていた。
 新しく見つかった機密文書によれば、1945年夏には日本上陸の可能性は無に等しかったという。日本の軍隊、経済、政治状況は1945年春から急速に悪化していた。1945年4月に、太平洋戦闘司令官、ダグラス・マッカーサー将軍は、「日本の艦隊は実質上無力化しており、空軍は無統制な、自殺行為にも等しい行動しかとっていない。消耗が激しく、戦闘持続能力は急速に衰えている」と報告している。
 日本の戦況が悪化するにつれ、日本人による「和平への打診」がヨーロッパ全域で始まった。日本のスイス大使が戦争終結の調停を申し出たり、日本のポルトガル大使参事官も、「無条件降伏”という言葉を使わない限り、どのような和平合意であってもいい。日本人はどのみち数週間以内に木と紙でできた家が壊滅されると信じているのだから」と言っていた。これがすべてトルーマンに伝わっていたのである。
 さらに日本が戦争終結を望んでいるという、より重要な証拠が、外交電文の傍受によってホワイトハウスに届いていた。米国の諜報部員は、日本の天皇がソ連を通して密かに降伏の調停を試みていたことも知っていた。天皇は近衛親王を天皇代理としてモスクワに送ることを希望した。近衛親王の使命は、戦争終結のためにソ連政府との調停に参加し、日本の意向を伝えることであった。さらなる流血を避けることが天皇の願いであるとソ連政府に伝えることが、近衛親王の役目とされたのである。
 ソ連への最初のアプローチは、1944年に行われている。しかし天皇が個人的に行動を起こしたことは、海軍長官ジェームス・フォレスタルいわく、それこそまさに戦争終結へ向けた決意の「真の証拠」であった。傍受された電文はまた、天皇の地位を保証することが、唯一重大な条件であるとしていた。
 後にトルーマンはこれらの電文を知っていたことを認めている。しかし、彼の手書きの日誌は1979年まで公開されず、その中でトルーマンは、日本からの重要な傍受電文を、ジャップ(日本)の天皇が和平を求める電報、と記している。
 戦争を終結させるためには、「無条件降伏」に天皇制の剥奪が含まれていないということを日本に知らせるだけでよかったのである。実際、日本人は天皇を神格化しており、天皇制の維持を保証しなければ日本人は最後の最後まで戦うことになると考えられていた。米国の軍部指導者達もまた、日本の兵隊に武器を置くよう命令できるのは天皇だけで、そのためにも天皇の座を維持する必要があると確信していた。
 スティムソン陸軍長官の日記やグルー国務長官の記録からも、トルーマン大統領が、天皇を残すことに基本的に反対していなかったことが示されている。ただし大統領は原爆を投下した後にこれを認めた。それは、日本人に対して甘いと対抗勢力に批判されることを恐れたため、というのが大方の見方である。しかし1945年7月までに、その選択は日本侵略か新兵器かという単純なものではなくなっていた。

ソ連の参戦
 ドイツ降伏後の日本は孤立していたため、そこへソ連陸軍が攻撃を加えれば日本が粉砕されることは明らかであった。イギリスのチャーチル首相も1944年9月にはすでに、ソ連参戦をにおわす声明だけで、日本を降伏に追い込むことができると述べていた。
 米国諜報部の調査でも、1945年4月半ばには、「ソ連の参戦でほとんどの日本人は即座に敗北を悟るであろう」としている。1945年7月半ばには、イギリスのヘイスティング・イスメイ将軍もチャーチル首相への英米共同の諜報部の結論として、「ロシアが日本に宣戦布告すれば、日本人はおそらく、天皇の廃位以外ならいかなる条件でも戦争終結を望むであろう」と述べている。
 トルーマンも、ソ連の宣戦布告だけで戦争が終結すると考えていた。スターリンが8月初旬に日本に宣戦布告することを約束した後、トルーマンは日記にこう記した。「これで日本も終わりだ」。そして妻への手紙に「これで戦争が1年早く終結する。若者の命がどれだけ助かることか!」と書いている。
 米国による日本への原爆投下とソ連の宣戦布告は数日の間隔でほぼ同時に起きたため、また日本が正式に降伏したのはトルーマンが天皇制の維持を認めた後であることから、何が戦争終結に最も大きく影響したかについて、さまざまな論争が続いている。しかし1989年に公開された、陸軍省諜報部による1946年の最高機密調査では、日本の降伏に原爆はほとんど関係がなかったという大胆な結論が出されている。そして第二次世界大戦終結の決定的要因はソ連の宣戦布告であったとされ、米国の大規模な日本侵略が行われることはなかったであろうと記されている。つまり、「日本を降伏に追い込んだのは、ロシアの参戦であるといっても過言ではない」というのが同調査の結論であった。

原爆の標的
 日本の敗北を確実視する証拠が増える中、原爆の準備は1945年の春を通じて行われた。しかし5月、6月、7月と日本の戦況が悪化するにつれ、原爆の役割が変わっていったのも確かである。当初、米国の指導者たちは、原爆は軍事目標に限って使用されるべきだと主張していた。5月29日の時点においても、マーシャル将軍はこう述べている。「原爆は海軍基地のような軍事目標に対して使うべきであり、それで何の効果も上がらなければ、次に製造拠点を目標にすべきである。その際攻撃する旨を日本人に警告し、避難させるべきであろう」
 しかし6月初めの日本は、「軍事目標」どころか、精神的なショックを与えるだけでも降伏するかのように見えた。しかし、スティムソンが議長を務めた中間委員会は、民間人に警告を与えることに反対した。スティムソンは、コナント博士(ハーバード総長)の提案で、重要な軍事工場があり、労働者の居住地が隣接している区域が最適の標準であると考えていた。
 ドイツが降伏し、日本も崩壊寸前まできた時点での原爆使用に対し、多くの科学者たちは狼狽した。こうした科学者たちの努力がさまざまな方法で妨害されたこともその後の研究結果から明らかになっている。例えば、ピーター・ワイデンはその著書『デイ・ワン(”Day One”)』に、ロバート・オッペンハイマーが原爆使用に反対したシカゴの科学者たちをいかに巧みにのけ者にしていったかを記述している。
 原爆投下の決定を聞かされた軍部指導者の中には嫌悪を催した者もいた。ヨーロッパの米軍司令官アイゼンハワー将軍は、7月中旬にスティムソン陸軍長官から計画を報告された時のことをこう記している。「彼の報告を聞いているうちに、暗い気持ちになった。私は彼に深い不安を伝えた。まず、日本はすでに敗北しており、原爆は全く必要ないということ、次に米国人の命を救う手段としてもはや不要ともいえる兵器を使用することで国際世論に衝撃を与えることは避けるべきだと伝えた」。アイゼンハワーの見解は「日本はできる限り体面を損なわない降伏の方法を模索している。恐ろしい兵器で日本に打撃を与える必要はもはやない」というものであった。

原爆とソ連
 なぜ原爆の使用を米国の指導者が選んだのか、ということについて、歴史家の意見は分かれる。しかし、米国がソ連よりも西側の力を優位にしたかったことが強く影響した、という点で識者の意見は一致する。
 米国は、ソ連が日本を攻撃する前に第二次世界大戦を終結させることを強く望んでいた。トルーマンとその顧問は、ソ連陸軍が満州と中国北部の日本人と交戦することになると考えていた。これは戦後その地域がソ連の支配下に入ることを意味する。そのため、英米の指導者は原爆が完成したことを知るやいなや、ソ連陸軍が満州と中国に侵入する前に、どうしても戦争を終結させたいと考えたのである。
 国務長官ジェームズ・バーンズの個人秘書ウォルター・ブラウンは日記に「バーンズは、原爆を落とせば日本は降伏し、ロシアの介入を初期で食い止めることができるため、中国を米国の支配下に置くことも可能であると考えていた」と記している。チャーチル首相もまた1945年7月23日、「現在米国は、ソ連に対日参戦してほしくないと考えているのは明らか」としている。
 マクジョージ・バンディはその著書『危険と生存(”Danger and Survival”)』に「ソ連の攻撃計画を利用して日本に降伏させるという案は、アジアにおける将来の力の均衡を懸念した政治的理由によって却下された」と記している。
 原爆が米英の外交上の立場を強化するという推測は、ルーズベルトの初期の時代から存在した。ルーズベルトが死去した時、新大統領は原爆に関する報告を受けたがそれは日本への対抗措置としてではなく、外交に影響を与えるものとしてであった。例えば4月末に、戦後のポーランド政府の構成についてスターリンと言い争った時、スティムソン陸軍長官はトルーマンに原爆の話を持ち出すよう主張した。
 スティムソンの日記は、彼が原爆をロシアに対する切り札と見なしていたにも拘らず、初春の時点、つまり原爆の威力を見せつける前に、ソ連と仲違いすることは逆効果になると信じていたことを示す。例えば、極東問題に関する5月半ばの会談では、スティムソンは「この問題は原爆の完成と深く結びついている」と語った。その2日後、スティムソンは、「満州、旅順、その他中国北部の都市とソ連との関係について、また中国と米国との関係について、ここでソ連と十分話し合っておくことは必要かもしれない。原爆という切り札が手中にない状態で、外交上の賭をするのはばかげている」と述べている。
 こうしてスティムソンはソ連と外交上争うことを遅らせるよう主張し、陸軍次官補ジョン・マックロイとの会談の後、5月半ばの日記に次のように記している。「現在、ソ連に対して我々がとるべき対処方法は、黙って行動することだ。その方がロシア人にはよくわかってもらえるであろう。ここでやり方を誤ってはならない。ソ連は米国の支援なしにはやっていけない。今すべきことは、言及しすぎて不必要な争いを起こさないことである。行動でアメリカの強さを見せつけよう」
 スティムソンの文書はトルーマン大統領が同じような結論に達したことを示している。チャーチルの助言に背いて、トルーマンはスターリンとの会談を延期している。なぜならトルーマンは未試用の原爆が本当にうまくいくのかをまず知りたかったためである。「原爆が完成すれば、ロシアをやり込められる」とトルーマンは側近に漏らしている。
 ここに元最高裁判事のバーンズ長官がトルーマンの原爆使用の決定に中心的な役割を果たした強い証拠がある。バーンズは、トルーマンがミズーリ州から最初に議員として選出されて以来トルーマンの顧問を務めた。トルーマンはバーンズを自分の代わりに中間委員会に参加させ、外交政策と原子爆弾に関する助言を彼1人に求めた。
 バーンズは一貫して強硬路線をとった。バーンズの意図は、原爆で戦争を終結させることではなく、原爆の保有とその威力を見せつけることによって、ヨーロッパでうまくソ連を懐柔することであった。
 1945年5月、バーンズは中間委員会において、原爆を使用する前にその存在をソ連に知らせるべきだとするマーシャル将軍らに強く反対した。マーシャルは後に、原爆のテストの見学にロシア人科学者を招待するよう提案したが、これも却下された。大統領の代理であったバーンズは、新兵器の国際的な管理を求めるいかなる試みにも反対したのである。
 ポツダム会談の後、デイビス大使は日記に、原子爆弾が最終的な成功を保証するというバーンズの態度に困惑し、脅迫は通じないどころか、取り返しのつかない害を及ぼすかもしれないとバーンズに伝えたと記している。広島の数週間後にバーンズと会った陸軍次官補ジョン・マックロイもまた、「ソ連の外相モロトフとの会議に出発しようとしていたバーンズは、核兵器の管理でロシアと合意を結ぶことにかなり反対していた」とスティムソンに報告した。

爆弾はうまくいった
 スターリンとの交渉を延期するというトルーマンの夏の戦略は効を奏した。原爆の初実験は1945年7月16日に成功を収め、翌7月17日、トルーマンはソ連の首相と体面した。スティムソン陸軍長官は原爆の実験結果の報告を受けた後、この首脳対談について次のように書き記している。「チャーチルは昨日の三者会談で、トルーマンが明らかに何らかの理由で強気であり、ロシアに対して強行に立ち向かっていることに気づいた。原爆の報告を聞いてからの彼は全く別人であった」
 トルーマン、スティムソン、バーンズらは原爆投下を選択した時にすでに、「ソ連陸軍が満州国境を超える前に戦争を終結させる」以上の長期的な外交目標に翻弄されることになったのである。各要因がどれほど大きな動機づけとなったかは、識者の間でも意見が異なる。軍事的要因だけが支配的であり、技術や官僚、軍の勢いが戦時中に高まったために原爆の使用が不可欠であったと見る者もいれば、新兵器の開発に巨額の資金を費やしたために、政治家がそれを使わないわけにはいかなくなったのだと主張する歴史家もいる。さらに、政治と外交上の配慮および軍事的懸念がそれぞれ同程度に影響したと信じる者もいた。しかし、3人の陸軍長官の顧問を務め、スティムソンの友人でもあった故ハーバート・フェイは、25年前に原爆投下がなされたのは、ソ連を圧倒することが目的であったことに間違いはないとしている。そしてエール大学教授のガディス・スミスは、日本へ原爆を投下するという決定は、トルーマンのソ連への対決主義と結びついているという見解を示している。
 事実、現在では、原爆は恐らく戦争を長引かせ、アメリカ兵の命を救うどころか、奪ったと信じる歴史家もいる。なぜなら、国務長官代理ジョセフ・グルーは、1945年5月には降伏条件を変えるだけで戦争は終結すると大統領に進言しており、また大統領は原爆が完成するまで明らかにそれを引き延ばしたからである。タフツ大学の歴史家マーティン・シャーウィンは、「トルーマンがグルーの助言を受けていれば、アメリカ兵、日本人の犠牲者の数は大幅に削減されたことであろう」という。スティムソン長官もまた後になって、「歴史の中で、アメリカは降伏の条件を延期したことによって戦争を長引かせた」としている。

原子の膠着状態
 勝利の後モスクワを訪れたアイゼンハワー将軍は、「原爆が使用される前であったなら、ソ連と平和を保つことができたであろうが、今はわからない」と述べている。1945年9月のロンドン外相会議で、原爆を手にしたバーンズは事実、ブルガリアやルーマニアなどの東欧諸国よりもロシアを統制しようと試みた。その場にいたジョン・フォスター・ダレスは、この時の緊張が冷戦の始まりであったと信じている。
 ワシントンでは、バーンズの態度と米国の政策に困惑したスティムソン長官がそれまでの姿勢を翻し、米国が可能な限り原爆に固執すべきであると考えたのは間違いであったことを認めた。
 スティムソンは直接大統領に、新兵器の国際的な統制に先駆的な役割を果たすよう進言した。彼は、ソ連の応酬を阻むには、核兵器の統制を公的な機関、例えば国連などで行うしかないと強調した。スティムソンはさもなければ軍備競争になると警告し、「原子爆弾はあまりにも革命的で危険な性格を持つものであり、これまでの軍備管理のやり方では対応できない。つまり、米国とソ連の関係は原子爆弾の問題に支配されるのである」と述べた。
 戦後50年以上経過した今もなお、1945年夏の記録のすべては公開されていない。いつの日にか、必ず、すべての真実を知る時がくるであろう。米国は最初に核兵器を使用し、その後の国際関係を支配する緊張を作り出した張本人であった。冷戦終結後、広島の歴史に新たな興味が注がれている。

[Reprinted with permission from MIT”s Technology Review Magazine