「透明性」
日本をより米国化させ、帝国主義国家である米国に従属させるためのキャンペーンで最もよく使われる言葉のひとつに「透明性」がある。
米国の社会統治は明文化された規則や法律への依存性が高いのに対し、日本は人間の判断に依存する傾向が高いとして、日本の社会は不透明であるというのである。つまり、米国は規則や法律が細かく規定されており、それを読めばはっきりするので透明性が高いが、日本では規制当局や裁判官の判断に任されるので不透明だという考え方である。
しかしこの論拠は理屈に合わないだけでなく、歴史的事実すらも無視している。現代のように複雑で変化の著しい時代に、1億2,500万人の日本国民、また2億5,000万人の米国民をすべて明確に統治できるだけの規則や法律など、作り上げることは不可能である。そしてこの大それたプロジェクトに挑み、無残にも失敗した国が米国なのである。
その失敗例は、フィリップ・ハワードの著書、『The Death of Common Sense』(ランダムハウス、1994年)に詳しく記述されている。ハワードによれば、「米国は文明化の歴史の中で、比類のない巨大な法律を作り上げた。その法律は何百万語にものぼり、それはさらに増え続けている。米国の法規制度は、使用説明書となったのである。そこには国民や官僚が、何をどう行うべきかが詳細にわたって記されている。規則に次ぐ規則で、考えられうるすべての可能性に細かく対応している」
さらにハワードはこの傾向は比較的最近のものであるとし、次のようにも述べている。「わずか30年前の1960年代には、米国政府は細かい規則を敷くことなく、新たな可能性が生まれるたびにそれにじっくり対応するやり方をとっていた。それが第二次世界大戦後になると常識をも無視したような規制が作り上げられていった。自動発効の法律、つまり他の法令を待たずにただちに法律が施行されるようになった近代法では、われわれの人間性は締め出されてしまった。確かにそうした理由も理解できる。詳細な法規があれば政府は統制を保ち、一般国民に明瞭な指針を提供できる。しかし実際はその通りにはいかない。人間の判断なしに、人々の行動を規制することはできないからである」
米国が自動発効の規則と法律で透明性を目指した結果、失敗に終わった例は無数にある。盗みに入った家でローラースケートを踏んで怪我をした泥棒がその家を訴え勝訴したことや、マクドナルドのコーヒーをひざの上にこぼして火傷した女性がマクドナルドを訴え290万ドルを獲得した例など、その例は枚挙にいとまがない。
ハワードの分析によると、こうしたやり口を正当化するための論拠が明らかである。同じような論拠をもとに、米国は日本にも同様の訴訟社会を広めようとしているのである。またハワードは著書の中でブルッキング研究所のハーバート・カフマンの言葉を引用している。「正確で具体的な指針だけが、すべての事例を平等に扱うことにつながる。それがなければすべてに一貫性を保つことは不可能だ」。またもう1人の学者は、「法規は可能な限り自動発効に近いものでなければならない。行政の裁量に一切頼ることなく実行されるような解決策を目指すべきである」と述べている。連邦上級裁判所の裁判官、J.スケリー・ライトは、官僚に決定権をもたせることは米国の司法制度の弱点であると非難し、政府内のすべての部門に対し、規則を増やすことで自由裁量に反対する動きに追随するよう呼びかけた。「防波堤として、規則を組み合わせたものを張り巡らせておくことで政府機関の強化につながり、規制対象となる勢力を阻止することになる」。どこかで聞いたことのある言葉ではないか。
こうして米国は過去数十年間に規則や法律を増やしていき、社会生活のありとあらゆることが成文化された。ハワードによれば、新規あるいは提案中の規則は官報のページ数で見ると、ジョン・F・ケネディー政権の最終年度に1万5千ページであったものが、ブッシュ政権の最後の年には7万ページにもなっていたという。米国の戦後最大の公共事業である州間高速自動車道が1956年に承認を受けた時に提出された法令はわずか28ページであったが、1991年に米議会で可決された非常に小規模な運輸法案はその10倍もの長さに及んだ。ある連邦機関では、「木製のはしご」に140もの規定を設けていた。さらに1万ページ以上に及ぶ法令を設けていた機関もある。連邦政府の法令および正式な規則は英語の単語数にすると1億語にもなる。これは連邦政府のみの数字であり、50州の州政府や地方自治体が発布する法令や規則は含まれていない。
ドナルド・バーレットとジェームス・スティールの著書、『America:Who Really Pays the Taxes』によれば、米国の税法は1913年にはわずか17ページで書かれていたものが、1938年には140ページ、現在は3千ページ以上になっているという。
このように膨大な法律や規則があるがゆえに、その曖昧でしかも矛盾の多い法律・規則の意味を分析・議論するための弁護士が必要になるのである。米国には現在、75万人の弁護士が存在し、これは世界全体の弁護士の数の4分の3にものぼる。米国人333人に対し弁護士1人という割合である。それと比較して人口が米国の半分である日本は、弁護士の数はわずか1万5千人で、日本国民8,333人に対して弁護士1人という割合である。
私には、これだけ多くの弁護士がいること自体が米国の透明性の欠如を証明していると思えてならない。弁護料は途轍もなく高く、腕利きの弁護士となればなおさらである。国民や企業が米国の法の迷路に迷い込めば、訴訟のために弁護士を雇わなければならず、その訴訟から大きな見返りを得られるのは、有能な弁護士を雇える資力のある企業や国民に限られている。透明性と民主主義は高くつく、ということなのであろうか。米国ではいつのまにか金持ちと権力者を優遇する金権政治が確立されていたのである。
O. J.シンプソンの裁判を例にとろう。シンプソンは有名な黒人の元フットボール選手である。美しい白人妻と彼女と一緒にいた白人男性に嫉妬し、二人を殺害した容疑で裁判にかけられた。これがシンプソンではなく、貧しい黒人男性が裁判にかけられていたのであれば、決して無罪放免になることはなかったであろうというのが、私の知る米国人全員の一致した見方である。シンプソンは幸運にも、米国で最も高い弁護士を雇うことができるほど金持ちであったために無罪放免となった。この事件は、弁護士を雇う余裕のある金持ちのための司法と、それ以外の国民のためという2種類の司法が米国に存在することを端的に示しているのではないであろうか。
シンプソンの事例からもうひとつ言えることは、米国が日本に透明性を高めるように説く一方で、自国では透明性など達成されていないという点である。米国の司法制度では、一事不再理、つまり同一犯罪で被告を再度裁判にかけることを禁止している。ある人が銀行強盗をしたとすれば、この強盗事件に対し、二度裁判をかけることを禁じるものである。つまり一度放免になった犯罪に対し、もう一度裁判にかけられることはないはずで、シンプソンも刑事裁判で放免になったのであるから、法律に基づけばそれで自由の身となることは明白であった。ところがそうはいかなかった。元妻や彼女とともに殺された男性の親族が有能な弁護団を雇い、最初の裁判で無罪放免になった犯罪に対して、再度裁判を起したのである。こうしたことが起きる米国の法制度が明瞭・透明だと言えるであろうか。これについて納得できない読者がいれば、米国の弁護士を雇うようお薦めする。1時間5万円ぐらいで引き受けるはずである。
日本は他の諸国と同様に、複雑で変化し続ける社会に適用できるような、規則や法律などすべてを含めた包括的な体系が作り出せるなどという、傲慢な考え方はしない。日本の場合、明瞭な状況に対してはより単純な法律、規則を適用し、また不明瞭な状況に関しては、献身的な専門家集団である官僚にその判断、規制を任せている。その結果、日本の法律はより明解となり、国民1人当たりの弁護士の数も米国の25分の1程度で事足りるのである。米国では最も弁護料の高い弁護士を雇える一部の人々のために、裁判所が判決を下すという状況であるのに対し、日本ではすべての国民を公平に扱う責任を官僚が負っている。日本でも、汚職にまみれた官僚が最も高額の賄賂を支払う者に身を売るというスキャンダルが新聞を賑わせた。しかしこのような事件は日本に限ったことではないのである。
さらに、日本は米国や他のOECD諸国に比べて、政府の規模は非常に小さい。
全労働力に占める政府職員の割合(1990年)
スウェーデン 31.7% デンマーク 29.8%
ノルウェー 25.7 フランス 22.8
フィンランド 21.9 オーストリア 20.6
ベルギー 20.4 英国 20.3
カナダ 19.4 ニュージーランド 18.1
OECD平均 18.0 アイスランド 17.4
オーストラリア 16.7 イタリア 15.6
ドイツ 15.5 オランダ 15.1
アイルランド 15.0 米国 14.4
スペイン 13.9 ポルトガル 12.8
ルクセンブルク 11.3 スイス 11.2
日本 6.3
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[資料:OECD]
現在、日本政府は規制緩和に躍起となっているが、規制緩和が今後どういう結果をもたらすか熟慮しておく必要がある。過去1200年間にわたり非常にうまく機能してきた官僚制度の力を、日本が規制緩和により弱めるというのであれば、一体どのような社会を目指そうというのであろうか。
ひとつは、規制が少なく、政府機能の小さい、無政府社会により近づけることであろう。これを支持するのは常に権力者である。というのも弱者に対して自分たちの要求を押しつけるだけの力を持っているのは権力者だからである。このような社会はジャングルと同じである。ジャングルは弱肉強食の自由競争である。競争というとスポーツをイメージしがちであるが、スポーツには様々なルールがある。ルールがあるからこそ楽しめるのである。野球や相撲、テニス、ゴルフなど、ルールに則って行うスポーツの世界において、規制緩和、つまりルールを減らすことを求めるような動きがかつてあったであろうか。
無政府状態まで極端な状況を好まないとすれば、規制緩和や政府の縮小を行うべきではない。官僚制度の力を弱めればどうなるのであろうか。私には2つの方向性しか思い浮かばない。まずひとつは、権力が官僚から腐敗した政治家の手に移ること。規制緩和を行うだけで政府が今より公正で、有能、かつ透明性が高いものになりうるかどうか、考えてみてほしい。
もうひとつの方向性として考えられるのは、米国が日本に推薦し、実際に採用している透明性に基づく制度を採用することである。しかし、透明なはずの制度は、実際には、先に紹介したように矛盾と不明瞭な制度や法律の固まりであり、これは金目当てに働く弁護士、つまり誰かれ構わず最も高い弁護料を支払う者に正義を売り渡してしまう弁護士に利用されているのである。
私にはこれら以外の方向性は考えられない。このため、私は日本が規制緩和に猛烈に突進する様子は、レミングの集団自殺(繁殖が極に達したとき、海に向かって大移動し溺死する)としか思えないのである。
日本の政府は米国が提唱している制度に比べるとより公正で公平なものであることに気づくべきである。それに気づけば、米国政府のプロパガンダを拒否し、透明性や規制緩和に関する圧力にも簡単に抵抗することができるはずである。おそらくそれができて初めて、日本は米国の属国ではないことを伝え、さらに米国政府は日本の国内問題に干渉しないようにと、きっぱり言えるだけの真のリーダーが日本に現れることになるであろう。