先週は「透明性」に関するメモをお送りしましたが、今週はニューヨーク在住のエコノミスト、マイケル・ハドソンが、法規制の撤廃に関して次のような論文を寄せてくれました。ハドソンは「契約社会」である米国に住み、より「透明」な社会がどのようなものであるか熟知しています。そんな彼が日本人読者に、一体どのような忠告をしているのか、興味のあるところだと思います。是非お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。
法規制の撤廃を求める企業の無責任さ
マイケル・ハドソン
米国は国際外交において進んで協定を破り、遅ればせながら損害賠償を支払う、という戦略をとってきた。日本や他の諸国は米国人が約束を破ったと捉えるが、米国人にとってはこれはいつもの外交ゲームに過ぎない。そしてこのような手口こそ、米国流に法規制の撤廃を目指す日本への警鐘となる。誠意に基づく交渉から、米国の商習慣を特徴づける「訴訟主義」へ移行すれば、日米摩擦はさらに深刻化するはずである。
例えば、現商務長官、元通商代表部代表のミッキー・カンターは政治家でも外交官でもなく、弁護士として公職に就いた人物である。ワートン・スクールの法学と経営学の教授、G.リチャード・シェルが、ニューヨーク・タイムズ(1995年6月16日)の特集ページに、「相手に告訴させるカンターの外交」と題した記事を寄稿した。これは特に日本に関係があると思うので紹介したい。カンターの言動は、彼が貿易を法律用語、つまり契約や損害などといった言葉で捉えていることを示している。カンターは1994年に議会で証言した時に、WTOが「契約組織」になると述べた、という。
「米国の法制度においては損害賠償を行う限り、契約を破棄しても全く問題はない。…普通法で契約を守る義務は、それを守らない場合、損害賠償を支払わなければならなくなることを意味する」。つまり、契約破棄自体は不名誉なことではない。
さらに同記事によると、米国の貿易戦略には次のような法律上の考えが潜んでいるという。「WTOにより、日本が自動車部品市場を米国に対して閉鎖しているのは違法であると判定されれば、一方的な制裁措置に対して米国は罰金を支払う必要がないどころか、日本側から米国側に多額の金が支払われることになる」
「日本が閉鎖されておらず、米国の制裁が非合法であるとWTOが判定したとしても、米国が支払う罰金は大した額にはならない。賠償額は、6月28日からWTOが判定を下すまでの数ヵ月の間、日本が自動車を販売できないために被る損失額を上回ることはない」
しかし、シェル教授は、「契約違反者が損害賠償をすればよいという米国式の現実主義は、他の世界には通用しない」と警告している。これは、契約違反どころか、背信行為だからである。
たいていの日本人にとって契約は契約であり、口約束だけでも十分有効な場合も多い。しかし米国はそうではない。事実、米国の多くの州では口約束は法的証拠にはなり得ず、日本では詐欺行為にあたる行動も、米国では単なる「契約不履行」であって犯罪にはならず、したがって損害賠償も少なくて済む。このために米国では詐欺や約束不履行、無責任行為が助長される。なぜこのような法体系を採用する国家が存在するのであろうか。答えは簡単である。このような法制度であれば、大企業は顧客や労働者、サプライヤー、そして公共の利益すらも犠牲にすることができるからである。法規制を緩和している国では、こうした犠牲者が従来所有していた権利が決まって剥奪されることになる。
損害賠償の訴訟を避けるために法律改正を望んでいるのは、一般国民ではなく大企業である。タバコ産業はタバコが健康に及ぼした被害に対して損害賠償を求められている。冷蔵庫メーカーはフロンガスが大気中のオゾン層を破壊したかどで罰金を科されている。自動車メーカーは大気汚染、化学会社は有害廃棄物、薬品会社は無責任なマーケティングに対して、それぞれ罰金を科されている。また製造会社は消費者を犠牲にしたコスト削減による過失で訴えられている。
こうした企業の無責任な活動によって、社会全体が環境浄化や医療のためのコストを負担させられることになる。これまで企業側に責任をとらせるために社会が作り上げてきた様々な法規制を撤廃するよう大企業が働きかけるのは、医療費や環境浄化コストの支払いを免れるためである。こうして社会を保護してきた法律は、規制緩和によって徐々にその効力を失っていく。
もちろん法改正の提唱者はこうした傾向を認めようとしない。例えばリズ・スペイドはワシントンポスト(1995年3月5日)の記事の中で、法規制を緩めることが労働者や消費者、その他の犠牲者の権利を剥奪することにつながると説明するどころか、損害賠償を請求することは個人がとるべき責任を他者へ転嫁することになると指摘した。喫煙者は自分から喫煙を望み、自分でタバコ中毒になっているのにタバコ会社を訴えるのはおかしい、喫煙者は自ら選択をしているのだから、その責任は自分でとるべきである、という主張である。こうしてスペイドは、犠牲者を非難することで責任の所在を大企業よりも企業の不正行為の犠牲者に求めるべきだと訴えている。
しかしこの言い分には多くの点が見落とされている。中毒性の物質であることを知りながら、それを販売しているタバコ会社の責任はどうなるのか。中毒性の物質であるニコチンの量はタバコ会社の意のままに操作できる。さらに、タバコ会社は消費者をタバコ中毒にすることで選択肢を奪い、自己の責任に基づいて行動する能力を奪っている。タバコ会社の宣伝を通じた、子供達に対する心理的な影響についてはどう考えればよいのか。従業員の喫煙休憩や病欠が雇用主に与える損失についてはどうなるのか。二次喫煙で、喫煙者の煙が非喫煙者に及ぼす影響についてはどうか。さらに、喫煙が原因で納税者が支払わされる公衆衛生費についてはどう考えればよいのであろうか。
近年、米国社会でタバコ会社が槍玉にあがっているが、それに対する日本の反応が当地米国にあまり伝わってこないのはどうしたわけであろう。米国政府は主に「海外援助」の形でタバコ業界に一種の補助金を与えているが、これは国際法上違反である。しかし、この補助金があるために米国のタバコ会社は海外でダンピングを行うことができる。米国政府がタバコ会社を後押しするのは、タバコ・ロビーに買収されているためである。こうした事実は明白なのに、なぜ専売公社を民営化した日本は米国のタバコに対する関税を低くし、安い値段で販売させているのであろうか。それによって、日本社会に対する喫煙の悪影響が助長されていることに気づかないのであろうか。
法規制の緩和は新しい経営倫理の一部になっている。このため、略奪的な商習慣に対する企業の責任が見逃され、消費者や労働者にいかなる危険が及ぼうとも、可能な限りコストを削減することが米国流の経営手法なのである。新技術の登場とともに消費者の事故率、さらには医療費請求額も増加している。しかし、米国のビジネス・スクールでは「企業が法律を作っているのではなく、与えられたビジネス環境の中で活動しているだけ」との前提のもとに、収益だけに目を向けるように学生に教えている。
損害賠償請求の増加は、米国の労働者の高齢化も一因であるが、大気汚染や水質汚染などの環境汚染とも関連がある。喘息が急増しているのは大気汚染規制の不徹底や燃費の悪い自動車から出される排気ガスが大きく影響している。温暖化現象も自動車の排ガス規制の失敗、冷蔵庫技術や軍用機による大気汚染などの副産物であるため、企業の間接的な財政責任や直接的な製造物責任が益々増える可能性が高い。
こうした恐るべき傾向を認識した企業は、急増する医療費に対するいかなる金銭的な責任をも逃れようとしている。このような状況に対して、現在2つの側面から非難が起きている。1つは、国民全体に対する健康保険、医療保険の責任を政府に追及する動きであり、もう1つは消費者や労働者などの被害に対して企業に責任を求めるものである。
150年前に有限責任会社が出現した時、損害責任が法的に大きく取り除かれることになった。企業そのものは罰金としてすべての資産を失うこともありうるが、その所有者、すなわち株主には損害賠償の責任はないとされたのである。そして、さらに深刻な要因は、従来「非倫理的」かつ「非合法」とされた行為が犯罪ではなくなったことである。
かつて、ビジネスは約束の上に成り立っていたが、いつのまにかすべてのビジネスは契約ベースになった。そして今や、訴訟を起こす意志とその能力にビジネスが左右されるようになったのである。
法律事務所、Skadden, Arps, Meagher and Flomに関するリンカーン・カプランの最近の著書には、この法律事務所が採用している廃退した法倫理について記されている。この法律事務所はドレクセル・バーンハム社のマイケル・ミルケンを中心とした「企業の乗っ取り屋」達の弁護をしたことで1970年代に一躍有名になった。この事務所の弁護士とその依頼人が最も重視したのは、契約破棄と相手に損害賠償請求訴訟を起こさせるのとでは、どちらが金が儲かるかを見極めることであった。結局ミルケンは逮捕され、ドレクセル社は倒産に追い込まれた。しかし、Skaddenは今でも全米有数の法律事務所として存続している。ニューヨーク市の現市長、ルーディ・ギウリアニは1980年代の大半をニューヨーク第二地区の検事総長として過ごし、詐欺などの不正を働いたSkaddenの依頼人を提訴してきたが、法律の改正により、かつては違法であった行為が合法化され、企業の乗っ取り屋達は企業買収や年金基金の横領を「合法的に」行えるようになったのである。
カプランは、その著書『Skadden: Power, Money and the Rise of a Legal Empire』の中で、Skaddenの行動をこう記している。「富が企業の乗っ取り屋の手に移ったことによって、狙われた企業の社員がレイオフされ、また賃金がカットされた。さらに、年金受給者は年金基金が差し押さえられ、債券所有者は債券の価値が目減りし、政府は税収が減少した。その他にも企業に利害を持つさまざまな人々が犠牲になった」。「結局合併によってもたらされるのは、財政困難、事業の失敗そして倒産であった。国家の繁栄のために仕える法律事務所の裏切りというシナリオは、Skaddenの話を冒険物語に変えた」と、カプランは結論づけている。
こうして法律は売り買いされるようになった。政治家を買収して新しい規則を作らせ、企業を規制や責任から解放し、さらに建築検査官や環境保護局などの規制機関の予算を奪う、ということがまかりとおるようになったのである。
少なくとも従来の意味では、法的、政治的、経済的な侵害は不正行為とされた。しかしニューヨーク州を始めとする数多くの「なんでも自由」の州では、契約時に企業が詐欺を意図していたことを証明できない限り、詐欺行為で相手を告訴することはほぼ不可能である。告訴された相手が契約に全く従わなかったとしても、最初は従おうとしたが数日後に気が変わったのだと言い張れば、簡単に「契約違反」で片づけられてしまう。米国の法律では植民地時代以来、原告も被告もそれぞれ自分で訴訟費用を賄わなければならない。つまり、損害を受けた方も賠償金を受け取るまでにかかる訴訟費用を負担しなければならないのである。訴訟は5年以上に及ぶこともある。なぜなら州裁判所は同じような訴訟で予定がつまっているからである。
保険会社が保険契約者に対する支払いを引き延ばすのも、裁判所を混雑させる原因のひとつである。また不動産の訴訟も多い。しかし中でも最も急増しているのは、金融機関の不正行為である。しかしこうした「ホワイトカラー」の犯罪に対する罰則は手ぬるい。なぜなら刑務所はより凶悪で貧しい犯人で満杯だからである。
ここで「透明性」の話に戻ろう。法律が実際どのように機能するのか、それは細かい条文の文字の中に隠されている。汚職まみれの裁判官や、依頼人を売り渡している極悪の弁護士がいることも表には出てこない。一般市民が目にするのは、特別利益団体や大企業が求める法律を遠回しに描いたPR記事だけである。悪魔はたいてい細かい文字の中の、自分のスポンサーのために動く政治家が付け足した補足の部分に潜んでいるのである。
この新たな訴訟の流行は、株の仲買業者、保険会社、銀行など米国のあらゆるビジネスで見られ、「約束を履行した方が利益が多いのか、それとも約束を破り、顧客やサプライヤー、債権者に訴えられた方が儲かるのか」と、2つの選択肢を常に天秤にかけている。彼らはこう考える。「自分達は一銭も払わず、自分達の資金は自分達の利益になるように運用しなければならない。最高の弁護士を雇っているからきっと勝訴するであろう。詐欺師の立場を守るために、不正行為を単なる「契約不履行」にしてしまう法律を導入しよう」
このような裁判における弁護士の役割は事態を明確にすることではなく、内容を混乱させ、陪審員の注意を「事実」から「有り得る」世界へそらすことにある。これは透明性などではなく、レトリックでありごまかしである。
日本にとって、この種の訴訟が流行ることは特別な意味を持つ。大手の国際法律事務所が、やっかいな訴訟事件で脅すことによって、日本企業を困らせることができると考えるようになるからである。基本的にこれは日本の総会屋たちが使う手口と同じであるが、日本で外国人弁護士の活動を認めれば、日本の総会屋など大したことはないと気づくであろう。
日本が米国と同様の法制度を採用すれば、自由市場で負けた企業が必ずや日本企業を相手に訴訟を起こし、米国や他の外国企業に対するマーケット・シェアの拡大を要求することになる。自由市場で日本企業が勝利を勝ち取れば、それだけで保護主義の汚名をきせられることになるであろう。(これこそ、クリントン大統領が日本市場におけるマーケット・シェアの目標値を設定した時に用いた手口である。)GATTやWTOへ提訴したとしても、それを裁く法は米国で書かれたものである。米国流の法律に従えば、米国のような訴訟の急増で余分なところに力を奪われることになるであろう。
日本が米国から法律を学びたいと考えるのであれば、法の規制緩和や改正に反対を唱える米国人の声に耳を傾けるべきである。残念ながら現在のところ、日本人は法律の乱用者である大企業の言い分しか聞いていないのである。