No.135 米軍基地建設とボリビアの沖縄移民

今週のOWメモでは、米国在住の社会学者、日本政策研究所研究員の雨宮和子氏の論文をご紹介します。これはボリビアに住む沖縄移民と沖縄米軍基地の関係を探った調査レポートです。沖縄がいかに本土の繁栄の犠牲になってきたか、沖縄出身者の苦労の一端を示す研究であると思います。是非お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

米軍基地建設とボリビアの沖縄移民
 

 私は沖縄のことはほとんど耳にせずに育った戦後派世代である。さらに1973年からずっと米国在住であることから、沖縄のことは全く聞かなくなった。そして、沖縄が日本の繁栄の犠牲になってきたことに、つい最近まで全く気づかなかったのである。沖縄は私にとって、日本の国内問題と考えるには心理的にあまりにも遠すぎ、より大きなアジアの問題の一部として考えるにはあまりにも日本に近すぎたのである。
 それが1997年の初め、日本・東アジア専門の政治学者であるチャルマーズ・ジョンソン氏の論文を読み、沖縄問題に対する問題意識の低さに遅まきながら気づくことになった。また同じようにイギリス人の夫も、1970年代初頭にボリビアで聞いたうわさを思い出していた。「多くの沖縄人が米軍機で連れてこられ、ジャングルに捨てられた」というのである。当時、アンデス山脈から東部に移動してきた先住民の定住パターンを調査していた夫は、沖縄移住地は危ないから行かない方がよいと大使館から忠告されていたという。
 その時我々は、沖縄民のボリビア移住と沖縄の米軍基地の建設には何らかの関係があるのではないかと思い当たった。その関係を探れば、米国の沖縄占領の実態が浮かび上がってくるのではないかと考えたのである。そして、このことは、ジョンソン氏が所長を務める日本政策研究所の研究テーマの1つに取り上げられることになったのである。
 調査の初期段階に見つけた参考文献、大城立裕の短編『南米ざくら』には、「米国人が沖縄の土地を接収し、すべての地主をボリビアへ移した」とある。また、国場幸太郎の『沖縄の歩み』には、1955年に米軍が銃剣とブルドーザーを使って行った、悪名高い伊佐浜の土地強制接収について書かれている。伊佐浜は現在の宜野湾市、普天間空軍基地がある場所である。ここに描写された32世帯の農民は家と農地を奪われ、不毛な土地に移住させられたが生計が立てられず、2年後にボリビアへ移住したとなっている。
 私は米国で資料収集した後、1996年5月末から6月にかけて沖縄でも資料収集し、また移民専門家の話を聞いた。8月にはボリビアへ飛び、主としてオキナワ移住地とサンタクルス市街に住む初期移民者(男性36人と女性14人)に直接インタビューし、同時にアンケートを配り、ボリビア移民の動機と沖縄の米軍基地に関する意識を探った。これに対し、112人(男性66人、女性46人)から回答を得た。
 インタビューした中で、実際に米軍に自分の農地を接収されたのは数人だけであった。また伊佐浜の農民はボリビアではなく、ブラジルへ移民していたこともわかった。それならなぜ沖縄のボリビア移民が米軍基地の土地接収と密接に関連すると見られているのか。
 米軍による強制土地接収とボリビア移民の関連性は沖縄では自明のこととして語られていた。大田知事でさえそれを否定しなかった。ただし、それを実証する公文書は入手しにくいであろうと言われたので、私は他のアプローチをとることにした。そして、(1)ボリビア移住計画はどのように生まれたのか、(2)それらの移民は誰か、そしてその後彼らはどうなったのかの2点に調査を集中することにした。

移住計画の誕生
 1954年から1964年の間に通算3,200人の移民が沖縄からボリビアへ渡ったが、この移住計画は沖縄の同胞を戦禍による悲惨な状況から救いたいという、ボリビアの先住民の願望に端を発している。先住移民は多数の移民を受け入れる構想を立て、やがてサンタクルス州に2,500ヘクタールの移住候補地を見つけてそこを「うるま移住地」と名づけ、その周辺の1万ヘクタールの国有地の払い下げをボリビア政府と交渉した。1952年にその交渉は成立している。
 もともと沖縄内には積極的な移住奨励者たちが移民先を模索しており、ボリビアの先住沖縄移民の努力に呼応し、米軍民政府内の移民賛成派の一部将校の協力を得た。そこでスタンフォード大学フーバー研究所のジェイムス・ティグナーが移住候補地選定を委託され、1951年~1952年にかけてメキシコと南米各地を回った。しかし、最初からボリビアが有力な候補地であったと思われる。
 当時、ボリビア大統領になったばかりの民族革命運動(MNR)指導者、ビクトル・パス・エステンソロは、米国の経済援助でボリビア社会改革を遂行すると同時に、東部サンタクルス州をボリビアの食糧庫にし食糧の自給を目指した。一方米国もまた、共産主義化防止のために有効と考え、その援助に積極的であった。そうした状況の中で、先住沖縄移民誘致構想はボリビア政府にも支持され、米国にも好都合であったと考えられる。
 ティグナーは1952年9月に調査終了後沖縄に渡り、10年間に1万2,000人の沖縄移民をボリビア東部へ送る計画を米軍民政府に進言し、沖縄の移民熱を煽った。米軍民政府は移民輸送のために16万ドルの予算を組み、琉球政府は移民資金の貸し付けを行う移民金庫法を公布し、年末には移民促進県民大会を開催した。その直後、海外協会の稲嶺一郎氏と琉球政府経済企画室の瀬長浩氏の2人が南米へ「現地視察」に出発した。瀬長氏は「うるま移住地」の状態に懸念を示したが、「不可能ではない」という稲嶺氏に押しきられていることから見ても、この時点でボリビア移住はすでに非公式に決定済みであったことがうかがわれる。こうした「視察」はあったものの、移住地の本格的な土地調査は一度も行われなかったことは無視できない。
 視察団が帰国するなり、移住計画が公表され、各移民世帯に50ヘクタールの土地が無償で与えられるというふれこみで移民公募が始まった。それには応募者が殺到し、1ヵ月足らずでその中から400人が選ばれ、移民第一陣は1954年6月にボリビアに向けて出発した。 ボリビア移民はなぜこれ程急いで仕立て上げられたのか。ティグナーも沖縄の海外移住促進者たちも、沖縄の過剰人口と米軍による土地接収でさらに深刻化した耕地不足を既存の要因と受け入れ、その対策として移住の必要性を重ねて強調している。
 日本は戦前、過剰人口問題を理由に海外への膨張を正当化した。戦後人口問題が再び日本の海外進出の口実に使われないようにと、占領軍は出生率抑制を承認し、優生保護法による妊娠中絶の実質的合法化を容認した。しかし、琉球米軍民政府が沖縄の過剰人口問題に取り組もうとしたことはない。優生保護法と同様な法律が1956年に琉球政府立方院を通過したが、米国高等弁務官に拒否され、沖縄では中絶は本土復帰まで非合法のままであった。
 それではなぜ人口問題対策には無関心であった米軍民政府が過剰人口対策と称して1950年代前半にボリビア移民を推進したのか。
 当時の沖縄の状況を移民の視点から再現しようと、私は移民の方々に戦中戦後の体験を尋ねてみた。すると男性の答えから、軍作業の経験とそこでの屈辱感と憤念という、2つの共通点が浮かび上がってきた。
 軍作業は比較的高い賃金で多くの労働力を吸収した。それでもフィリピン人や本土からの日本人に比べると、沖縄人労働者の賃金は最低であった。不平等な賃金体系に加えて、移民の多くが、「米国人に奴隷のように働かされた」と当時を振り返る。
 基地建設が一段落すると、失業問題が悪化した。嘉手納飛行場で測量士として働いていたP氏は、多くの同僚が首切りの目に遭うと聞いて、それに反発して仕事を辞めた。N氏は「異民族に支配されているのがつくづくいやになっていたんですよ」と言う。それから逃れるために本土へ行こうと思ったがビザが下りなかった。彼らがボリビア移住の話を聞いたのはそんな時で、それにみんなが飛びついたのも無理はない。積極的にボリビアを選んだわけでは決してない。彼らにとってボリビア移住は、息苦しい沖縄からの出口と50ヘクタールの土地を約束するものであったのである。
 労働問題と土地強制収用に対する抗議の声が高まった1950年代前半の沖縄の中には不満の圧力が鬱積し、爆発寸前であった。ティグナー自身が、1954年発行の「ティグナー報告書」の中の覚え書きでそのことに言及している。米軍民政府公衆安全部長と共同署名のこの覚え書きでは、ボリビア移住計画の利点として人口問題を挙げながら、「政治安定の確保」をも利点として挙げている。琉球政府の翻訳ではこの点は次のようになっている。
 「沖縄人は伝統的に農業従事者であり、土地を所有することは彼らにとって一生の願望である。年々人口が増大する一方、耕地の減少していく人々にとっては将来は不安定である。不安や不満は殊に沖縄の青年間にあっては必然的に土地所有や十分な生計への失望を伴うものである。共産主義者は青年に訴えることを常套手段として、共産陣営の各地で大成功を収めていることに鑑み、沖縄の青年は共産主義に感化されやすい要素を多分に備えているということができる。移民計画にあるとおり、海外に広大な無償の土地を求めることは青年に新たな希望を与え、彼らの不安や共産主義の虚栄の報酬の約束に対する感化に対処することができるのである」
 ここにボリビア移住計画の最大の役割が表明されている。つまり、反米軍占領感情の高揚する50年代前半の沖縄で、住民たちの不満が共産主義と結びつくことを恐れた米国政府は不満の爆発をかわす安全弁として海外移住に注目したのである。とすると、不満分子の移住先は遠ければ遠い程都合がよかった。

移民の歩んだ道
 肥沃な土壌で風土病がなく、鉄道建設が進みいずれは交通の便がよくなるという将来性のある場所に、各世帯50ヘクタールの土地が無償で与えられ、住居も準備されているというふれこみでボリビア移住に応募した移民は第一陣が1954年8月、第二陣が9月に入植した。合計400人余り。大部分の移民は移住地に着くと「聞いていた話とは違う」と思ったという。広々とした農地を夢見ていたら実はジャングルで、うるま移住地には道路もなく、グランデ河には橋もかかっていなかった。集団住居はまだ屋根さえできていなかった。最悪なのは飲料水が近くになかったことである。野生の動物たちが飲むコーヒー色の溜り水を集めてきたり、馬車の車輪跡に溜った雨水も集めて飲んだ。手で8メートルほどの井戸を掘ったが、塩気が強くたちまち下痢をおこし、野菜にまいたら野菜が枯れるほどであった。
 それはほんの始まりであった。1954年10月~1955年4月までに、原因不明の病気が蔓延し15人が死亡、80数人が罹病した。1955年2月には大洪水にも見舞われ、ねずみの大群に襲われ、それによって病気がさらに蔓延した。実はこの移住地はグランデ河の氾濫する地域だということが後になってわかった。移住敢行前の土地調査の不十分さの代償が移民の肩に一挙にのしかかったのだ。
 移民たちは、ボリビア移住が沖縄住民をジャングルに置き去りにするための政策ではなかったかと思うようになってきた。「その疑いを決して払拭できない」とE氏は言う。C氏は「絶対にこれは間引き政策であった」と確信する。ボリビア移住は棄民政策であったという声を私は沖縄でもボリビアでも聞いた。
 沖縄移民はうるま移住地から別の場所に移ることを決意し、1955年8月に全員で移動した。しかし、1年足らずでさらに移動し、現在の地に定着してようやくオキナワ移住地の基礎ができた。そこで中断されていた移民計画が1957年に再開することになった。しかしそれも不順な降雨量、洪水、コメの不作や価格不安定等に悩まされ、1960年代後半にはオキナワ移住地からも移出者が続出したのである。
 1967年、沖縄移住地は米国の管轄を離れ海外移住事業団(後に日本国際協力事業団JICAとなる)サンタクルス支部の傘下に入り、不十分な米国政府の移民援護に代わって、日本政府の指導援助を受けることとなった。1970年代初期にオキナワ移住地はJICAの助言で、貸し付け金で農機具を購入し大規模な綿花栽培に踏み切った。それが悪天候、作物の病気、世界市場価格の暴落等の要因で大失敗に終わり、移民の流出は続いた。
 1995年現在、約800人の移民とその子弟がオキナワ移住地に、数百人がサンタクルス市に残っている。彼らは絶望しなかったわけではない。他の土地への移住を考えたこともあった。しかし、借金で身動きがとれずにいたのである。
 彼らの状況が好転したのは1980年代初期、大豆を作り始めてからであった。綿花は大失敗に終わったが、それによって沖縄移民たちは機械化を余儀なくされ、それが大豆の成功につながった。大農方式には50ヘクタールではとても足りない。皮肉なことに流出者が続出したため、移住地内で土地を安く買うことは比較的簡単であった。ボリビアに残った移民たちは、今、間違いなく、ボリビアへ移民してきたよかったと言う。

沖縄とのつながり
 移民一世たちは毎日NHKの短波放送を聞き、沖縄をめぐる政治状況に関心を寄せ、沖縄県民の米軍基地の縮小には同感であった。また、彼らのほとんどが故郷に帰ったことがあり、その変貌ぶりに驚いている。と同時に、日常生活に対する米軍基地の影響にも気づかずにはいられなかったとも言う。
 私がオキナワ移住地を訪れていた時、最高裁が大田知事の代理署名拒否に関する訴訟判決を下した。誰も大田知事が勝訴するとは期待していなかったので、判決結果には驚かなかった。代理署名拒否を巡る意見はいろいろ分かれても、知事が沖縄県民の声を代表して国を相手取って立ち上がったという点では、移民一世のほとんどが大田知事を評価していた。
 私は県民投票の前にボリビアを離れたので、離れる前に移民たちに対して「もし沖縄に住んでいたとしたらどう投票するか」と質問してみた。調査結果は沖縄とほぼ同じであった。112人のうち73人(65.2%)は賛成、10人(8.9%)は反対、24人(21.5%)がわからないで、5人(4.5%)は無回答であった。
 米軍基地の役割についてさまざまな意見があるが、米軍基地の負担が沖縄だけに大きくのしかかっていることを是正してもらいたいというのが大多数の意見であった。結局、私たちは同じ戦争に負けたのだから、沖縄にすべてを押し付けるのではなく、本土も負担を受け持つべきだ」とL氏は言う。ここに、戦中と戦後における本土と沖縄の体験の違いが鮮やかに映し出されている。
 沖縄と同じ戦争に負けたという認識が、本土から出陣した、あるいは本土で戦中を過ごした日本人にあるであろうか。いや、戦後50年以上を経た現在、戦争に負けたということすら意識から消えてしまっている。戦後生まれの私には、敗戦は過去の歴史であって、体験ではなかった。しかし、米軍が居座り続ける沖縄出身者にとっては、敗戦による故郷の軍事占領は今も終わっていないのである。「50年なんてあまりにも長すぎる」と、ボリビアの沖縄移民たちのほとんどが言う。
 だからといって、沖縄移民が沖縄の住民たちと同じ歩調で戦後を歩んできたわけではない。沖縄から遠く離れて、移民たちは1950年代の見方や考え方をタイムカプセルに入れたままにしていることも多い。例えば1972年の沖縄本土返還前には日章旗は公の場では禁じられ、沖縄の人にとってそれは米軍の沖縄占領に対する抗議の意味を持っていた。しかし、返還後、そうした日の丸の象徴はなくなってしまった。一方のボリビア移民にとっては日の丸は今も昔も沖縄を含めた日本の象徴に他ならない。
 またボリビアの移民にとって日本政府は、琉球政府や米国政府以上の援助をしてくれた強力な援護者である。本来ならボリビア政府がすべきことまでしてくれていると、沖縄移民は日本政府を高く評価している。
 その日本政府の援助がいつまで続くかは誰にもわからないが、ボリビアの沖縄移民は将来的には楽観的だ。といっても、移民社会に問題がないというのではない。南米自由貿易協定の提携による安い農産物流入の可能性、様々な土地問題、教育やその他の課題をめぐる沖縄移民内部の緊張関係、居住地内のボリビアの現地人をめぐる意見の対立など、重大な問題が目の前に控えている。
 しかしそれでも、彼らの人生で初めて、沖縄移民は自分たちの運命を自分たちの手で決められるだけの手段をやっと手中におさめたのである。ここに至る道のりは長かった。他へ移住した人たち、そして面子をなくすことを覚悟で沖縄に戻った人たち、また本土へ行った人たちはどうなったのだろう、そして沖縄の戦後史をどう思っているのだろうと考えずにはいられない。私のボリビアの沖縄移民の研究はまだ始ったばかりである。

* 雨宮和子: カリフォルニア大学サンディエゴ校で博士号を取得。日本の人口統制政策の権威でもある。

[Japan Policy Research Instituteの研究レポートより著者の許可を得て抜粋翻訳転載]