わたしの会社では、来年度の新卒から喫煙者は採用しないことに決定致しました。ここまで徹底して禁煙を唱えるのは、70才定年を保証する弊社が社員が70才まで働けるよう、社員の健康を守りたい、ひいては周りのお客様や家族の健康を守りたいと考えるからにほかなりません。
煙い日本
杉田 成彦
週末にお手伝いをさせていただいている日本語学校で、日本へ旅行に出かけたアメリカ人の生徒さんに「日本はどうだった?」と聞くと、決まって「煙かった」という答えが返ってくる。この感想には、たまに里帰りする私も、大いに同感である。「煙い日本」の原因は、いたる所に立ちこめる「タバコの煙」に他ならない。日本の春の霞も、タバコの煙と一緒にされるようでは、いかにも興ざめである。
アメリカはどうかというと、それが「アメリカは煙くない」のである。これは「タバコは毒物」という考え方と、徹底した分煙のルールが、人々の間に浸透しているからだ。サンフランシスコでは、公共の場やオフィスビル内は言うに及ばず、レストランやカフェなどの飲食店内も、すべて禁煙である。アパートの中でさえ、家主が喫煙を許す場合を除いて、紫煙をくゆらせることは許されない。現在、屋内で唯一、喫煙が認められているバーやダンスクラブについても、禁煙にする方向で検討が進められている。かといって、喫煙者がコソコソと隠れてタバコを吸っているわけではない。戸外における成年者の喫煙は自由であるため、タバコを吸いたい人は、カフェの屋外席や公園、道ばたなどで、堂々と吸っている。
注目すべきは、この分煙のルールが、年齢や男女の別、あるいは人種や職種などの違いを問わず、あらゆる人々の間で、実によく守られているという点であろう。くわえタバコでスケートボードをあやつる毛糸帽子のヒッピーも、仕事の合間に一服するビジネスマンやOLも、はてまた日がな一日煙りを吐き出す年季の入ったご老人も、タバコを吸う場所をしっかりとわきまえ、分煙のルールをきちんと守っている。働く場所、飲食をする場所、そして、くつろぐ場所の空気が清浄であるということ─。これほど人々の生活にとって当たり前のことが、日本ではなかなか得難いというのは、実に残念なことだ。
アメリカでは現在“反タバコ・キャンペーン”が、大詰めを迎えている。一昨年、議会に勢揃いしたアメリカのタバコメーカーの社長たちは、口々に「喫煙には習慣性と害はない」と証言していた。それが昨年、メーカー最大手のフィリップ・モリス社の会長ジェフリー・バイブル氏が「当社の製品によって10万人のアメリカ人が死亡したかもしれない(『ニューヨークタイムズ』、1997年8月27日)」と初めて煙害を認めたことで、全米で総額約42兆円にものぼるタバコ訴訟の和解へ第一歩を踏み出した。
目下、アメリカのテレビでは、消費者団体や政府による手厳しい「反タバコ」のコマーシャルが流されている。例えば、生徒が集う小学校の校庭にタバコの雨が降ってきて「金儲けのために、タバコ会社は子供を狙う(How low will they go to make a profit? They have to sell them to kids)」というコピーが語られるものから、隣りでタバコを吸う父親に、煙で涙目になった幼児が「タバコは周りの人も殺す(Second-hand smoke, kills)」と、アルファベットの積み木で床に並べて見せるものなどがある。極め付きは、喉頭ガンの治療で首に穴をあけた中年女性が「喫煙は中毒にならないと説明してきたタバコ会社はウソつきだ」と言って、その首の穴からタバコをふかして見せるというショッキングなものであろう。
ひるがえって日本では、いまだに喫煙が「ファッショナブル」で「さわやか」なものとして、あらゆるメディアに登場している。分煙の動きは非常に鈍く、飲食店などの禁煙席は、依然として喫煙者の煙りに巻かれたままだ。日本の対米貿易黒字の削減という文脈の中で、80年代以降アメリカで締め出されつつある米国産タバコは、日本で大手を振って売りさばかれているが、このアメリカの有害製品の野放し状態を取り締まるためにも、まず日本は、徹底した分煙を始めなければならない。
日本人が他人の喫煙にあまく「煙い日本」に耐えているのは、あらゆる人の立場と利害を同時に調和させようという日本の素晴らしい文化があるからに他ならない。しかし、この日本の強味である情の通い合いは、協力精神に基づいた強固な人間活動を可能にする一方で、けじめをつけるべきルールを「なあなあ」にしてしまうという弱点がある。今こそ、この弱点の克服に目を向けるべきであろう。私たちは、思いやりでお互いが手を携えればよいのであって、タバコの煙に一体感を取り持ってもらう必要はない。分煙の確立による「煙い日本」の解消は、私たちが時に是々非々でコトに臨むことができるかどうかということにかかっており、「なあなあさ」から生じる「癒着」という名の現代病を、日本文化の良い面を守りながら治せるか、という問いに対する答えにもつながっていく。