このメモは米国在住の筆者、杉田成彦氏による最新の米国事情および様々な日米比較分析をテーマとした寄稿文です。
「ビッグマックインデックス」
(杉田 成彦)
ビッグマックインデックスなるものを、ご存知であろうか? 要は、ビッグマックの値段を基に各国の物価を比較するというもので、これがアメリカで結構もてはやされている。
ビッグマックは、いうまでもなく世界最大のハンバーガーチェーン、マクドナルドの目玉商品で、アメリカのシンボルの1つともいえる存在である。だから、ビッグマックの値段での国際物価比較は、アメリカ人に、いとも簡単に受け入れられる。しかし、このビッグマックインデックス、実は、見方1つでどうにでもなるオバケのようなものなのだ。にもかかわらず「日本=高物価」というイメージ作りに、多大な貢献をしてきたのである。
英国誌『エコノミスト』(1997年4月12日号)に掲載された最新のビッグマックインデックスによると、現在アメリカのビッグマックは定価こそ1ドル90セントだが、絶えず繰り広げられる安売りのおかげで、実際は1個約1ドルである。かたや日本のビッグマックは、平均290円という。1ドル120円で計算すると、1個2ドル40セント、アメリカの2.4倍も高いということになるが、この程度なら大したことはない。円が「1ドル80円」という最高値をつけた1995年、ビッグマックは日本で平均320円、つまり4ドルポッキリになったのである。この結果“ビッグマックが4倍も高いクレイジープライスの国、日本”というのが、アメリカ人の間では常識となってしまった。
現在、日本のビッグマックの方がアメリカのビッグマックより2倍以上も高いとされる第一の理由は、すでに見たとおり「高くなった円」にある。円は、この20年間で、1ドル300円から120円へと、約2.5倍も値上がりした。実際、1ドルが300円であった1975年には、日本のビッグマックは約180円、ドルにするとわずか60セントで、当時50セントであったアメリカのビッグマックとの間に、値段の差はほとんどなかったのである。
さらに考慮すべきは、この間の日本の経済成長であろう。1975年には1人当たり約8,400ドルであった日本の国内総生産(GDP)は、1996年は3万8,120ドルへと、20年間で4.5倍にも膨らんだ。この所得の大幅な伸びに照らせば、同じ時期に180円から290円へと、1.6倍になっただけの日本のビッグマックは、実質、値下がりしたことになるのである。一方、アメリカでは、この20年間で、1人当たりのGDPは、1975年の約1万3,700ドルから1996年の約2万9,600ドルへと約2.2倍に増え、ビッグマックもそれに見合う形で、50セントから1ドルへと、約2倍になった。すなわち、このビッグマックインデックス、アメリカの国内物価の指標にはなりえても、世界の物価の判断基準とするには、あまりにもお粗末なシロモノだといわざるをえない。
しかしながら、ビッグマックインデックスの本当の罪深さは、指標のお粗末さよりも、ビッグマックというアメリカのシンボルで他を斬ろうとする傲慢な考え方にこそある。ビッグマックはアメリカの代表的な食べ物であって、日本人にとって必要な食料ではない。そもそも日本人は、ビッグマックがなくても、いやマクドナルドそのものがなくても十分やっていける。実際、日本人の外食は、どんぶり物や麺類、おにぎりやお弁当、さらに「和食化された洋食」などの“和もの”がまだまだ中心だ。
そもそもマクドナルドが、日米両国において全く同じものであると見るのも、アメリカ人の大いなる錯覚だ。店構えやメニューの大筋は似ていても、日本のマクドナルドでは、品揃えや味付け、容器などは日本人の好みに合わせたものになっているし、何よりも店員の接客態度と店の清潔さには、日米で格段の違いがある。つまり、サービス内容では上をいく日本のマクドナルドのビッグマックは、アメリカよりも高くついて当然である。
ビッグマックインデックスなるもの、いかにもうさんくさいではないか。こんなモノでアメリカが日本の物価を云々するなら、日本中どこにでもある立ち食いそばの値段を基にした「かけそばインデックス」で、アメリカの物価を論じてやろう。コンビニのおにぎりの値段に基づいた「ライスボールインデックス」なんかもいい。実際、そばもおにぎりも、アメリカの都市なら今や簡単に手に入る。しかし、これらのインデックスが、まともに用を足しそうもないということは、誰の目からも明らかなように、ビッグマックインデックスなるものも同様にバカげたシロモノであり、自国の常識で万事を決めつけたがるアメリカの世界観の象徴だといえるであろう。
確かにアパートの家賃など、アメリカに比べて際立って高いものも日本にはある。しかし、何でもかんでもアメリカと同じ値段でなければならないという風潮の裏には、このビッグマックインデックスに代表される、短絡的で意味のない背比べが、ごまんと潜んでいるにちがいない。
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「プレッシャークッカー」
サンフランシスコの近郊には、サクランボやピーチなどの美しい果樹園が広がっている。しかし、いざ摘み取りが始まると、それらの果樹園は、しばし難民キャンプさながらの非人間的な場所と化すのであった。園内には労働者がテントを張り、ゴミや糞尿が散乱する木々の下を、はだしの子供たちも摘み取り用のバケツを片手に行き交う。労働者には、寝床も、水も、食料も、トイレすらも与えられていない。果実の摘み取りに対してのみ、5ドルに満たない時給をあてがう、それがすべてである。
あるいは、北カリフォルニアの鬱蒼とした森林の中で木材を伐採するために、ノルマを与えられた人びとが、森の中、深くに放たれる。ここでも、飲み水や食料、風呂やトイレなどは、一切なし。どうやって生き延びるかは、労働者が自分の責任で考えることだ。木を切り出すことだけに対して、5ドルに満たない時給を支給する、それがすべてである。
テレビのニュースで流された、この信じ難く恥ずべき労働環境は、何も例外としてアメリカに存在しているわけではない。サンフランシスコから一歩外へ出ると、広大な農地が連綿と広がっているが、どの時期であろうと、古びたボンネット型のバスが畑の中のあちこちに乗りつけ、果樹園や森林と同じパターンの労働をする作業者たちが、大量に運ばれてくるのを目にすることができる。非人間的な環境で、徹底的に安く叩かれた労働にどっぷり依存する。これが、今日のアメリカ農業の基本形なのである。
不当に安価な労働への依存は、農業だけに限らない。衣料品の製造では、時給2ドルで労働者を監禁し、休みも与えずこき使っていた工場がロサンゼルスで摘発されたが、これらスウェットショップと呼ばれる「タコ部屋労働」が、一流衣料メーカーのブランド品の生産をも支えている。また、ニューヨークでは、耳と口が不自由な人びとを強制的に連行し、電気ショックや手錠での監禁など、罰則付きで物売りをさせていたケースも明るみに出ている(『ニューヨークタイムズ』、1997年7月18日、21日)。
最近では、世界最大の宅配会社、UPS(ユナイテッド・パーセルサービス)で、15日間に及ぶストが起きた。コスト削減のために、18万5千人もの宅配ドライバーを契約社員に置き換えてきたが、長期間、低賃金にあえいできたドライバーたちが、ついに声を上げたのであった。「教科書どおりに効率化を進めた先端企業で起きたこのストライキは、重要な意味を持つ。不当な低賃金で人を使えば、その企業の将来が危ういということだ」とエコノミック・インスティテュートの経済学者ジョン・シュミット氏は語っている(『ニューヨークタイムズ』、1997年8月5日)。これらはすべて、アメリカが推し進めてきた徹底的な効率主義に基づく市場経済の当然の帰結として、現代アメリカのいびつな社会現象を象徴する一例に過ぎない。
アメリカは今、4.8%という四半世紀ぶりの低失業率を記録し、1990年以来、一貫してインフレなき経済成長を続けている。しかし、私には、現在のアメリカは、酷使し過ぎてヒビの入ったプレッシャークッカー(圧力鍋)のように見える。強引にフタをして蒸気を抑えつけつつ、一握りの企業家や投資家のために、無理して豪華な料理を作り続けているように思える。企業の増益と株価の高騰とは裏腹に、貧富の差は、第二次世界大戦後、一貫して拡大し続け、昨年も過去最高を更新した。ケタ違いの年俸を得る企業幹部や資本家たちが懐を暖める一方で、アメリカの労働者の昨年の実質所得は、1989年の水準よりも目減りしているのが現実なのだ(『ビジネスウィーク』、1997年9月1日号)。鍋の中には、人びとの不満が充満している。
しかし今のところ、このプレッシャークッカーが爆発する気配はない。なぜか。それは「失業への恐怖」のためだと言われている。高失業率の時代を経て、人びとの頭の中には「仕事がありさえすればよく、待遇面など二の次だ」という物悲しい自己防衛本能が、確立されてしまったのである。
日本では、こんなアメリカをまぶしがり、アメリカと同じしくみを持つための変革が叫ばれている。「自己責任」という聞こえのいい掛け声が日本中を席巻し、今までの働き方は甘すぎたのだと人びとを責めたてて、はばからない。しかしながら、この傾向の行き着く先に何があるかは、今日のアメリカを見れば、一目瞭然であろう。不当な労働慣行と史上例を見ない極端な貧富の差を蔓延させ、人びとの不安を逆手に取った効率化を当り前とする経済システム……。これは強者のための不平等社会に他ならず、日本の価値観と倫理観、そして何よりも人間の正義観と相容れるものではない。