今週は、日本在住の経済ジャーナリスト、エーモン・フィングルトン氏がホテルオークラの昼食会で行った講演内容をお送りします。同氏は、『ビジネス・ウィーク』誌のベストセラーにもノミネートされた、『見えない繁栄システム:それでも日本が2000年までに米国を追い越すのはなぜか』(早川書房)の著者であり、この講演では脱工業化と製造業を比較しています。是非お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。
毒の盛られた聖餐杯: 脱工業化の偽りの約束
エーモン・フィングルトン (ホテルオークラにおけるエグゼクティブ・ランチョン・ミーティングより)
近頃米国では脱工業化経済は、製造基盤の経済よりも繁栄するという点でファッショナブルだとされている。脱工業化経済はコンピュータソフト、映画、テレビ番組、金融やその他の高度サービスを提供する経済を意味する。
私は、米国が脱工業化へ移行したのは大きな間違いであると思っている。しかしこの主張を決して大袈裟に受け取ってはいけないとも付け加えておこう。これはどこを強調するかの問題であり、国家が一方だけに集中するという問題ではないからである。たいていの現代社会は脱工業化のサービスを必要としている。しかし、世界経済をリードしたいならば、それ以上に製造業が必要なのである。
製造業の定義
個人が脱工業化時代のサービスで金儲けができるということを否定しているのではない。もちろんビル・ゲイツの例を見れば明らかなように金儲けはできる。私が分析しているのは個人ではなく、国家にとって何が良いのか、ということなのである。ここでは、製造業において世界最強の日本と、脱工業化時代の超大国、米国とを比較するという観点から話を進める。
米国で脱工業化のサービスが経済の繁栄を生み出すと主張する人々は、製造業を誤って定義することで我々を間違った方向へ導いている。彼らは、製造業とは、テレビの組み立てのように、消費財の単なる最終組み立て作業だと思っているが、製造業ははるかにそれを上回る。最終組み立てに到達するまでには、いくつもの段階があり、その多くは極めて資本集約型かつ知識集約型である。これらの段階はハイテク資材、ハイテク部品、ハイテク製造設備の製造と言い換えることもできる。一般的にこれらの活動は極めて経済的価値がある。
例を挙げよう。製造工程にはいくつもの段階がある。例えば携帯電話。最終組み立ては1つの段階に過ぎない。プラスチック加工やボタン製造などもあるが、こうした段階には高度なレベルは要求されない。しかし、それ以外にいくつもの非常に感動的とも言える作業がある。携帯電話用のチップ製造などは極めて資本集約型かつ知識集約型であり、そのチップで使われる部品製造はそれ以上に高度なものがある。
携帯電話を作る別の工程に、部品製造用の機械を作る作業もある。その1つに「ステッパー」と呼ばれる機械がある。これはとても高度な石版機械で、ウェーハー・チップ上に線を焼き付けるものである。チップが世代交代するたびに、より微細な回路を焼き付けるための、より高度なステッパーが必要になる。次世代のステッパーは1,500万ドルかかり、大きさは2倍になるであろう。このマシンを作るのはとても難しく、世界でこれを製造できるのはわずか3社に過ぎない。
脱工業化は輸出向きではない
製造業の経済について基本事項を3つ指摘しておきたい。1つは、製造業が生み出す幅広い雇用である。製造業は様々な職を広範囲に生み出す。その職の多くは、平均的な人向きのものである。一方、脱工業化サービスが生み出す職は一般に偏っており、最も優秀な頭脳を持つ10%の人間のためのものであり、残り90%の人たちにもたらされる職はほとんどない。
第二に製造業では輸出が生み出される。製造品は、最終顧客の文化にあまり左右されないため、全世界に通用する。ところが脱工業化サービスはたいてい文化に特化している。例えば、コンピュータ・プログラムは、ユーザーの文化に合わせて作り直さなければならないことが多い。ワープロソフトは、各国の言語に適合させるために作り直す必要がある。
しかし、これを製造分野で見ると、ワープロソフトを表示する液晶ディスプレーは世界共通で利用できる。漢字、ローマ字を問わず、インドやアラブ、ロシアの文字も表示する。このことは輸出の業績にも表れている。日本は製造する全液晶ディスプレーの85%を海外に輸出している。しかし、米国の何千ものソフトウェア開発者の大半は、開発するソフトウェア製品の5%未満しか輸出していない。マイクロソフトでさえ輸出比率は低く25%に過ぎない。
製造業の見返り
第三に賃金である。例えば、一国の輸出が参入の難しい分野のものであれば、その輸出産業の賃金レベルは高くなる。反対にその輸出産業が参入の容易なものであれば、賃金は低くなるであろう。参入が困難か容易かということを語るとき、私は特に2つのことを問題にしている。すなわち、労働者1人当たりの資本投資と、特許や企業機密といった、その事業に必要な専有の情報量である。
97年10月に私が訪れた和歌山の製鉄工場が、この市場参入の難しさを端的に表している。製鉄というとあまり高度なビジネスではないと思うかもしれないが、この工場では、石油業界特有の圧力や腐食に強い世界で最も高度なパイプを製造している。長さ800メートル、幅100メートル、高さ26メートルのこの広大な工場には作業現場に1人、コントロール室に5人の従業員しかおらず、彼らはみな高卒である。この工場にかかった総設備費用は約7億ドルで、コントロール室の5人を約1,500人が支援している。したがって、この工場は労働者1人当たりに50万ドルの資本投資をしていることになる。
またこの工場は、知識集約型でもあり、開発に約30年かけた新しく非常に効率の良いプロセスを使用している。この種の工場の運営には巨額の資本と知識が必要であることを考えると、和歌山の労働者たちは近い将来自分たちの職がメキシコに奪われることを心配する必要はないと言える。
参入が容易なソフトウェア
一方、ソフトウェア業界はどうか。ソフトウェアは極めて高度な産業とされる。本当にそうだろうか。参入の容易さから見れば高度とは言えない。労働者1人当たり1万ドルの投資で、インド人はこの業界に参入している。これを労働者1人当たり50万ドルの資本投資を必要とする和歌山の製鉄工場と比べて欲しい。
ソフトウェアは知識集約型だと言われているが、ソフトウェアの生産知識は専有ではないため、そうとは言えない。むしろ、インターネットや本で広く提供されている。競合製品も参考にできる。したがって、この先、ソフトウェア業界では賃金削減競争が世界的な規模で加速化するであろうと予想できる。
製造業には経済だけでなく、地政学的な要素も働く。基本的に世界で最も優れた製造業を擁する国は、世界が欲しているものを提供する力を享受する。世界人口の約9割が非常に貧しいことを忘れてはならない。彼らは何を欲しているのであろう。Webサイトで楽しみたいと思っているのであろうか。それとも株価をデータベースで見たいと思っているのであろうか。もっと訴訟を起こしたいと思っているのであろうか。もちろんそうではない。彼らが欲しているのは物的製品である。
世界ではそうした製品を供給する能力の重要性が高まっている。21世紀の先進工業国は、世界の力構造の頂点に立つことができ、その製造ノウハウや資本を好きな国に与えることができる。産業革命が始まって以来、製造業というものは基本的に、いかに少ない材料でより多くのものを作り出すかということであった。そうすることで世界のより多くの人々を消費社会に引きずり込んでいったのである。
コンパクト・ディスクがこの点を例証している。CDはレコードの8分の1のプラスチックしか必要としない。したがって石油1バレルから世界は8倍も多くの音楽を楽しめるため、発展途上国でもCDは多く消費されている。
製造業の将来には課題も多いのは明らかである。人々はオートバイ、自動車、冷蔵庫、エアコン、洗濯機、テレビを入手したいと思っている。また食糧を求めているところも多く、それが農薬などの化学製品や農業機械の製造メーカーの課題となる。世界はより良いインフラを求めている。さらに良い道路、空港、港湾、飛行機、電車、電話交換機、発電設備を望んでいる。世界の製造業はこうした需要を満たさなければならない。そして環境にやさしい方法でそれを行うことが課題である。
日本の隠れた強み
これらのことを考えた時、思いつくのが日本である。なぜなら日本は明らかに世界の製造業の雄であるからだ。人々は1990年代の日本はひどいという。確かに、銀行や証券会社は問題を抱えている。しかしそれが日本のすべてではない。1980年代、日本が経済の怪物と呼ばれたのは2つの理由があった。1つは世界の中で日本の国民所得のランクが急速に上昇したためであり、もう1つは日本の輸出が急増したためであった。そこで過去7年間を振り返って、1990年代、これらの指標で日本がどうであったかを見てみることは参考になるはずである。
その答えは、日本は驚くほどうまくやってきた。日本の1人当たりのGDPは為替相場調整済みで、1990年代の最初の7年で56%の伸びを示し、3万6,500ドルまで上昇した。一方米国は24%増で2万8,500ドルでしかない。
日本の輸出はどうか。数年前、マスコミは日本は賃金が高すぎるため、日本の輸出業界は空洞化すると報道していた。しかし、日本の輸出業者が日本の工場をすべて閉鎖したというわけではない。その結果、日本の経常収支の黒字額は1990年代の最初の7年間で総額6,550億ドルになった。それと比較して1980年代の最初の7年間の経常収支黒字は総額1,920億ドルである。言い換えると、1990年代の黒字は1980年代の3.5倍になったと言える。
なぜこうしたことが重要なのか。それは力関係を意味するからである。日本が経常収支で稼ぐ1ドルは、海外で投資された別の1ドルを意味するからである。したがって、経常収支の黒字を直接反映して、日本の対外投資は1990年代に約50%も増加した。
結論として、私は将来が楽しみである。米国の貿易赤字は明らかに持続不可能であり、何らかの手を打たなければならない。その手段とはドルにある。1985年以来、ドルは円に対して半分の価値に下がった。再びそうした状況になるであろう。1990年代末には1ドル70円になると確信している。そしてそうなれば、日本が米国を追い越し、世界最大の経済国になったことを意味することになる。
[ホテルオークラ刊、Tokyo Report”、1998年1月号より許可を得て翻訳・転載]”