No.175 参院選について思うこと(9)

参院選について思うこと(9)

私は“人材”という言葉が嫌いである。なぜならば、資材、木材、石材などと同様に、人間を材料と見なしているように思えるからである。ある人は、“人材”とは人を人的資産、つまり会社の資産として捉えているのであって、材料の意ではないと理屈をこねる。しかし材料であろうが、資産であろうが、他者の意のままに扱われるものであることに変わりはない。

最近の企業経営を見ていると、なおさら“人材”は“材料”に過ぎないということを強く感じる。そして、日本人が“人材”という言葉を何気なく使うのを聞くにつけ、敗戦後の焼け野原から日本を復興させ高度成長期を築いた偉大な先達の哲学から、今の日本の経営者の意識がいかにかけ離れてしまったかを思わずにはいられない。先祖がゼロから築いた資産を当然のごとく継承してきた彼らは、今、それを食い潰しているのである。

高度経済成長期の経営者達は、人に仕えることが企業の義務であるとして、人を資材や資産として使う権利があるなどとは考えなかった。社会の目標は国民の幸福であり、その中で企業の果たす役割は国民の幸福につながる商品やサービスを提供し、国民が商品やサービスを購入するための収入が得られるよう、国民に雇用を提供することだと当時の経営者は考えていた。企業の最終目標が利益の追求であったことはなく、企業が取ってよい利益は研究開発や設備投資に必要な分だけで、それ以上の利益を取るくらいなら、その分消費者のために値下げをするか、社員の賃金や手当てを増やすべきであると信じていた。この考え方は、「利益追求を企業の目標とすることは社会の崩壊につながり、不道徳であるため禁止すべきだ」とした、古代の聖書から近代のジョン・メイナード・ケインズにいたる西洋の偉大な哲学者の考えとも一致している。西洋の哲学者が特に軽蔑していたのはお金からお金を生む商売で、これは歴史的には高利貸しと呼ばれ、つい最近では財テクなどともてはやされた金融業界のことである。

経営者たちが国民に仕えることを義務と信じて、利益追求のために国民を“材料”として搾取することが企業の権利だなどとは考えていなかった高度経済成長期は失業率も低かった。現に、経営者たちが社員の残業代や賞与を削減し、昇給を抑え、終身雇用制を止めて、安い人材を求めて海外に製造基盤を移し始めたのは、経営者達の哲学・価値観が変わって国民を“材料”として搾取するようになってからである。

高度経済成長期にも通商摩擦はあったが、今ほど深刻な問題にはならなかった。天然資源に乏しい日本は石油や鉄鉱石その他を輸入するために輸出も行っていたが、日本企業はまず国内市場を重視し、自国民の幸福につながる製品やサービス、雇用の提供に注力していたからである。通商摩擦が深刻化したのは、経営者達が輸入に必要な分のみ輸出に頼るという従来の考え方を捨て、利益拡大のために盲目的に輸出を開始したためである。

こうした海外市場での貪欲な利益追求が、「日本株式会社」に対する批判を生み出した。“エコノミック・アニマル”の日本人は、自国市場は閉鎖しておきながら、海外では私利私欲を求め搾取に走る、というイメージを植え付けたのである。さらに、これらが原因となって米国政府は日本に対し、アメリカ米の輸入や米国製半導体、自動車などの輸入数値目標など、言語道断とも言うべき要求を開始したのである。この後、規制緩和や金融ビッグバンを行い、グローバル(つまりアメリカの)スタンダードを導入するようにとの米国政府からの内政干渉をも招いた。これは消費者や零細企業に対する日本政府の保護をすべて取り除き、日本の大企業が米国や海外で行っている貪欲な利益追求と同様に、米国企業が日本で自由に活動できるようにしようというものである。

日本の経営者たちが偉大な先人たちの掲げた国民の幸福という目標を捨て、利益追求のために自国の国民を材料として搾取するようなことをしなかったならば、日本が今直面している不良債権の問題も生まれなかったであろう。高度成長期には不良債権の問題など起こり得なかった。なぜなら当時の経営者にとって企業の義務とは国民の幸福につながる製品やサービス、雇用の創出であり、株、為替、土地といった博打に資金を浪費することなど頭になかったからである。今の世代の経営者が“財テク”と呼んで博打を正当化し、金融バブルを拡大させることになったのは、彼らが企業の目標を国民の幸福ではなく、利益追求であると取り違えたためである。そして今、この博打の結果生まれた巨額の借金のつけを我々国民に転嫁しようとしている。

さらに、経営者が国民の幸福に貢献することが企業の目標であると認識していた高度経済成長期には、日本の税制は今より公平であった。当時の経営者達は、国民が運命共同体であると感じられる社会が最も幸福であると考え、人々は繁栄を分かち合い、苦難を共にしていると信じていた。また、経営者達は社会には他者より力が強く、幸運な人もいるが、これは個人の努力によるものではなく、社会全体の財産や利益に負うところが大きいと考えていた。だからこそ、社会から最も利益を得ている幸運な人々に対する税率を最も高くし、逆に少ない利益しか得られない不運な人々の税率を低くすることで、社会の平等および幸福を維持したのである。しかし、現代では、利益の追求が正当な企業の目標であると考える経営者達は、成功は自分の実力であり、努力の賜物だと考えている。税金は、自分達が途方もない利益を得ている社会の財源となるにもかかわらず、私利私欲のためにその税負担を社会の弱者、人材、消費財として自分達が搾取している国民に転嫁しようとしているのである。

国民一人ひとりには、企業の経営者の考えや経営理念を変えさせる力はない。しかし、7月12日の参院選に投票することで、国民全体の利益よりも、一部の貪欲な企業や富裕者の利益を優先させている政党を落選させることはできるのである。