今回は『新潮45』(1998年5月)に掲載された、飯田 経夫氏の論文を2回に分けてご紹介します。飯田 経夫氏はエコノミストの立場から、消費低迷が現代日本の豊かさに起因していると提言し、政府の「減税による内需拡大策」を疑問視しています。また昨年末の金融機関の相次ぐ「大型倒産」により、日本における「金融のシステム不安」が内外に露呈されましたが、飯田氏はこうした金融危機が“資本主義・市場経済に潜む狂気”によるものであると定義付け、“資本主義・市場経済のこわさ”についても触れています。是非お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。
狂った「資本主義」
(前編)
飯田 経夫
いま喧しい景気対策は、満腹の人間の口をあけさせ「もっと食え」というに等しい。
これは実におかしなことだ。
やってられない最近の経済論議
「社会主義は国民の経済を破綻させ、資本主義は国民の精神を破壊したというのが、どうも20世紀の総括のような気がしてならない」と、本誌編集長から私宛ての私信にあった。本当にうまいことをいうものだ--と、私は心から感じ入った。
私事にわたって恐縮だが、実は私は、この春に定年退官を迎え、長年にわたる国立大学および国立研究機関の勤務にピリオドを打った。私の仕事は経済学の研究と教育とであったが、この期におよんだいま、私の心中を占めるのは、率直にいって、いったい経済学とは何なのか--というどうしようもない空虚感である。
私の勤務先は、退官記念の最終講義をする機会を与えてくれた。大学のように学部学生やゼミナール卒業生がいるわけではないため、この講義は、一般市民をも対象とする「学術講演会」として催されたが、有り難いことに満堂の聴衆が集まってくれた。もっともそれは、いささか奇をてらったかに見えなくもない講演のタイトルのためも、いくぶんはあったかもしれない。タイトルは「経済学の終わり」であった。
しかし、もちろん私は、奇をてらったわけではない。私は、昨年10月に、まったく同タイトルの本を世に問うた(『経済学の終わり』PHP新書)が、そこでも述べたとおり、私が最終講義で語りたかったのは、経済学について私がいま感じざるを得ないどうしようもない空虚感である。幸いにも、この最終講義のことは一部マスコミも取り上げてくれ、その限りでは、いちおう世の話題にもなった。
もちろん、一経済学者としての私のキャリアーがこれで終わったわけではなく、世の慣例に従って、私はある私立大学にお世話になることにした。再就職先で今後の抱負を尋ねられた私は、「経済学の意味を、ゆっくりと考えてみたい」という趣旨の答えをした。
最近の経済論議を聞いていて、「これでは経済学者やエコノミストなど、とうていやってられないな」とつくづく感じる典型的な一例は、「内需拡大」論である。
その議論は、以前からもあったが、昨年11月、三洋証券、山一證券、北海道拓殖銀行など、金融機関の「大型倒産」が相次いで、「金融のシステム不安」が一挙に表面化して以降、にわかに燃え上がった。
よくいわれるように、カネは人体にたとえれば血液の流れのようなものだから、それがスムーズに流れなくなれば、それこそ一命にかかわる。ところが「金融のシステム不安」とは、とりもなおさず、まさにこのおそれが現実のものとなった(あるいは少なくとも、現実のものに著しく近づいた)ということに他ならない。
それを防止するために、とりあえずの応急措置としてなされたのが、銀行に対する公的資金の投入である。周知のとおりそれはなされ、おそらくはその結果として、たとえば喧伝された「三月危機」の到来は、何とか避けられた。つまり、経済は一息ついた。しかし、それは一息ついたというだけのことで、それ以上のものでは決してない。
「金融のシステム不安」が生じ、経済にカネがスムーズに流れなくなるような事態が、一度は生じかねなかったということは、人々を震え上がらせ、消費や投資など、その経済行動をひどく萎縮させてしまった。その結果、たとえば各方面から発表される平成10年度の景気見通しは、どれも非常に悪い。
もし今後、実際に景気の先行きが悪ければ、それは憂慮すべきさまざまな悪影響を生むだろう。その結果、株価がさらに下がれば、それは銀行の含み益をさらに減らして、一度は回避された「金融のシステム不安」を再発させかねないだろう。
もうひとつ不気味なのは、アジア諸国の経済危機の悪影響である。それは、消費、投資など国内需要だけでなく、輸出の見通しも決して明るくはないことを意味し、景気に対してさらにマイナスであるだけでなく、アジア向け貸付の不良債権化も増えるだろうから、金融システムの安定にとってもいいことではない。
欲しくてたまらぬ商品などない
以上のように、いわば八方塞がりの景気状況に対して、それをただちに解決するための「救いの神」として、政界、財界やマスコミなど各方面から(さらに外国からまでも)、その必要性が異口同音に強調されているのが、大型の「内需拡大」策の発動に他ならない。
どうやら、公共投資の増加もさることながら、所得税の大幅減税がもっとも評判がいいようである。そして、実をいうと、私が経済学に対して感じるどうしようもない空虚感の最大のポイントは、まさにそこにある。
最大の疑問は、減税で可処分所得を増やして、いったい消費者に、これ以上何を買わせようというのであろうか、ということである。それは現代日本の「豊かさ」にかかわる。現代日本では、人びとは本当に豊かになってしまった。すなわち人びとは、欲しいものはすべてすでに買ってしまい、新たに買いたいものはほとんどない。いわば彼らは、おなかがいっぱいの満腹状態で、「もうこれ以上食べたくない」といっているのである。
ところが、減税という「内需拡大」策はそういう消費者の口を力ずくでこじ開けて、「もっと食え、もっと食え」と無理に食べ物を口に押し込もうとするようなものではないだろうか。
こむずかしい議論はいろいろできるけれども、そういう議論はいっさい排して、ごく常識的に考えただけでも、それは非常に馬鹿げたこと、おかしなことではないだろうか。不況対策として、他になかなか手はないとはいうものの、少なくともそれは、一エコノミストとして、口角泡を飛ばして、力説するに値するたぐいの事柄ではないだろう。先に私が、「これでは経済学者やエコノミストなど、とうていやってられないな」と感じる--といったのは、主としてそういう意味である。
ところが経済学者やエコノミストの論理では、そういう事情はいっさい考慮されず、「いや、豊かだというが、人びとには“豊かさ”の実感はない」という一語でかたづけられてしまう。そして、消費がいっこうに振るわないのは、もっぱら「金融のシステム不安」とそれに対する政府の無策とのため、人びとが前途に対する不安感を抱いているためだ--ということになっている。
前途に対する不安感はたしかにあるけれども、仮にそれがないと仮定しても、ほしくてほしくてたまらないけれども、まだ買ってない商品が山のようにあった何年か前(戦後間もない時期?)の状況とは、いまはまったく違うということは、空しいタテマエ論は別として、胸に手を当てて静かに考えれば、誰もが同意せざるを得ないはずである。
もちろんそれは、日本が世界に冠たる平等社会で、金持ちも貧乏人もそのライフスタイルにさしたる差がない、という事実と密接に関連する。そして私は、日本が世界に冠たる平等社会だという事実を、基本的にいいことだと考え、日本が諸外国に誇るべき特長だと考えている。
もちろん、人間の物欲には限りのない側面があるから、平等よりも不平等の方がいいと考え、自分こそがその不平等の恩恵に与りたいし、また与るに値すると自ら信じる人びとも、何人かいるだろう。しかも、そういう人びとは、最近にわかに増えているようである。しかし日本の社会は、少なくともこれまでの日本社会は、そういう価値観が表面化するのを抑えるだけの「規律」を維持することに、成功したように思われる。それが、日本社会の「コミュニティ」性だろう。
『新潮45』(1998年5月)より、著者の許可を得て転載
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