今回も前回に引き続き、エコノミストの飯田 経夫氏による、“資本主義・市場経済に潜む狂気”をテーマにした論文の後編をお送りします。是非お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。
狂った「資本主義」
(後編)
飯田 経夫
完璧なシステムなどありえない
日本が、世界に冠たる平等社会を維持したままで、途方もない「豊かさ」を実現したということは、貧乏人をなくしたということに他ならない。そして、貧乏人をなくするということは、もとはといえば経済の目標であり、経済学の目標であった。もちろん、大筋では貧乏をなくしたといっても、現代日本にも未解決な点はいくつかある。しかし、貧乏人がいなくなったということは、考えてみれば本当に偉大なことである。
目標が達成されるとは、言い換えれば理想が実現されるということに他ならず、本来は大変結構なことのはずであり、心から慶賀すべきことのはずである。ところがそれが、必ずしも素直には喜べない。いったいそれはなぜなのか。明らかに、満腹で「もう食べたくない」といっている消費者の口を力ずくでこじ開けて、「もっと食え、もっと食え」とばかりに無理に食べ物を押し込むような馬鹿げたこと、おかしなことでもしなければ、企業はもたず、資本主義・市場経済はもたないからである。
この点に一例を見るとおり、もともと資本主義・市場経済とは、それほど優れたシステムではなく、いわんや完璧なシステムなどでは、決してない。そのことは、マルクス経済学を代表格として、経済学史に資本主義・市場経済批判の連綿たる流れが厳存することからも、ただちにわかる。
ただし、1989年に起きたベルリンの壁の崩壊は、共産主義・計画経済の無効性を、遺憾なく明らかにした。本稿の冒頭で引き合いに出した本誌編集長の言葉どおり、共産主義なり社会主義なりが「国民の経済を破綻させ」たことが、そのとき、完膚なきまでに明らかになった。おそらくマルクス主義は、人間の心なり、そのモーティベーションなりに対して、おそろしく鈍感だったように思われる。こうして、マルクス主義の権威は地に墜ちた。こうなると、残るは資本主義・市場経済しかない。
こうして、資本主義・市場経済の「株」は異常に上がり、その異常な「株高」は、あたかも資本主義・市場経済が完璧無比なシステムででもあるかの錯覚を、広範い人びとの心に植えつけて、現在にいたっている。
だが、上述のとおりマルクス主義が、人間の心なり、そのモーティベーションなりに対しておそろしく鈍感だった分だけ、はたして資本主義・市場経済が、それらに対して十分に敏感だったかといえば、それははなはだあやしい。
資本主義とはたかが金儲け
なぜなら、資本主義・市場経済を心置きなく擁護するためには、私たちは、先に使った言葉を再び用いると、どうみても馬鹿げたこと、おかしなことをも、心ならずも擁護しなければならなくなってしまうからである。その一例はすでに挙げたが、他にもいろいろある。
たとえば資本主義が過酷な優勝劣敗・弱肉強食のシステムであり、放置すれば社会の恐るべき分裂を招きかねないことは、よく知られている。また、住むに快適な都市計画・街づくりは、いまや多くの住民の強い関心事だが、それが市場をほしいままに放任しておいてうまくいくとは、誰も考えないだろう。
また、地球環境問題への対応は、いまや焦眉の急だが、それへの適切な対応が、資本主義・市場経済で、十分にできるはずがない。むしろ資本主義・市場経済は、これまで、ほしいままの環境破壊の主犯だったというべきだろう。
くどいようだが、前に挙げた例をもう一度使うと、満腹で「もう食べたくない」といっている消費者の口を力ずくでこじ開けて、「もっと食え、もっと食え」とばかりに無理に食べ物を押し込むような馬鹿げたこと、おかしなことを、「内需拡大」の美名のもとに行うことによって、私たちは、どうでもいい経済成長を実現し、余分な環境破壊を招いているだけのことかもしれないのである。
このように数え上げてくると、新しい「公共性」のために、私たちが今後やらなければならないことは、まことに多いことに気づかざるを得ない。何しろ、資本主義・市場経済とは、たかが金儲けのことにすぎないのである。
この世の難題のすべてが、たかがカネ儲けで解決できるはずがないというのは、実ははじめからわかり切った自明の理にすぎないのではないだろうか。
アダム・スミスが着目したとおり、カネ儲けはたしかに偉大なポテンシャリティを持ちはするけれども、それは「公共性」に代置できるほどのものでは、とうていありえないだろう。ところが、世の「規制緩和」論、「民営化」論、「小さな政府」論のなかには、そういう錯覚がしばしば見て取れる。
本節冒頭の議論に戻れば、どう見ても馬鹿げたこと、おかしなことをも、意に反して擁護するというのは、もともと無理な話であり、そういう無理を重ねているうちに、人びとの精神は非常に疲れて、やがては正常を失するのかもしれない。ここでも本誌編集長を引き合いに出せば、彼が資本主義は「国民の精神を破壊した」というのは、あるいはそういう意味なのではないだろうか。
乗り越えられない「行き詰まり」
18世紀後半のイギリスに産業革命が起こって以来、物質文明の発展はまことに急速だった。人類のなかには、まだその恩恵に浴していない人びとも少なくないとはいえ(あるいは全地球上では、半数をさえ超えるかもしれない)、われわれ日本人を含めて、その恩恵に浴した部分についていえば、生活が快適になり、便利になり、楽しくなった度合いとそのスピードとには、まさに驚くべきものがあった。
従来のこのスピードが、今後もこれまでどおりに続くかに想定するのは、明らかに非現実的だろう。そこには、環境の制約があり、食料やエネルギーの制約があろう。本稿では--とくにその議論の主要な流れとしては、そういう「こむずかしい」問題はいちおう考慮の外に置いて、ただ一つの問題だけに焦点をしぼってきた。それは「飽和」の問題であり、本当にほしいものはすでにすべて手に入れてしまい、新たに買いたいものがなくなってしまった、という事実に他ならない。それはある種の「行き詰まり」だが、従来はこうした「行き詰まり」を、人類は技術革新によって乗り越えてきた。つまり、新技術が新産業を生み、新産業がいくつかの魅力ある新製品群を生んで、それらが消費者の心をとらえて新しいライフスタイルを生めば、仮に従来型の製品については「飽和」現象が起こっても、経済は新たな成長経路を探り当てることができる--というわけである。今回も、ハイテク論議という形で新産業をめぐる議論が賑やかに行われ、新製品探しがなされた。
私の印象では、それはなかなか成果を生まなかったが、最近は、たとえば携帯電話・PHSのたぐい、カーナビゲーション、パソコン(さらには「たまごっち」)など、いくつかのヒット商品群が見られる。しかし細かい理由はここでは省くが、私のきわめて大胆かつ反時代的(!)な直感によれば、それらは、あたらしいライフスタイルを生もうとしているというにしては、いささかパンチ力不足なのではないだろうか。
角度を変えて、アメリカで有望な新産業といわれる情報通信、ハリウッドなどエンターテイメント、金融などを見ても、同じ指摘ができそうである。まず情報通信については、経済・社会のこれほどのコンピュータ化にもかかわらず、それが生産性の上昇にはつながっていないという有名な指摘があり、論争があるし、金融も、たとえばデリバティブすなわち相場の当てっこは、率直にいって金融の王道ではなく、邪道だろう。また、映画は所詮映画にすぎない。
このように見てくると、今回の「行き詰まり」は以外に本物なのかもしれない。もしそうだとすると、近年における日本経済の停滞は、意外にも時代を先取りしていることになるかもしれない。もちろん、日本経済の「停滞」を説明するには、バブル崩壊の後遺症の重さと、そのいたずらな先送りという、きちんとした(?)独立の要因がありはするのだが……。
自覚すべき「資本主義の狂気」
私はかつて、「資本主義の狂気」という言葉を使ったことがある。それは、先に触れたような資本主義・市場経済のいくつかの欠陥(優勝劣敗・弱肉強食--等々)とはやや別の切り口から、その問題点に迫ろうとしたものである。
その言葉で私がいおうとしたのは、資本主義・市場経済にはどこか気違いじみたものが潜んでいて、何かの拍子でそれが表面に出てくると、途方もないことが起こる、ということであった。 その「途方もない」ことの一例は、先年日本経済を襲ったバブルである。その後遺症に、いまなお私たちはヒーヒーと悲鳴を上げているのだが、後遺症のもととなった私たち自身のさまざまな愚行は、いったいなぜ自分があのときあれほどバカな行動をしたのか、さっぱり説明がつかない--というのが、正直なところだろう。それを私は、「資本主義の狂気」に犯され、それに突き動かされていたのだ--などといってみたいのである。
他の例としては、昨年以来、アジア諸国を襲っている経済危機がある。アジア諸国を「成長センター」とおだて上げ、それに乗って嵐のようにアジアに集まったカネは、やがて、同じく嵐のように、あっという間にどこかへ逃げてしまった。アジア諸国の人たち自身にとって、いったい何が起こったのか、さっぱりわけがわからなかったのではないだろうか。
このように、カネとは--そしてカネに突き動かされる資本主義・市場経済とは、本当にこわいものである。そういう「狂った資本主義」のこわさに対して、まったく無感覚な議論は、もっとも控えめにいっても、非現実的であり、非倫理的であるとしか、いいようがない。
世は「スピードの時代」だという議論が、大流行している。ともかく、意思決定には迅速さが必要不可欠であり、それを欠いては、現代に生きる資格はまったくない、といわんばかりである。たしかに、かつての日本経済のバブル時とか、昨年来のアジアには、そうとしかいいようのない雰囲気はあった。しかし、そういう雰囲気は、時代の必然だというよりは、むしろ「資本主義の狂気」の現れにすぎないのではないだろうか。
「熟慮断行」という言葉が、昔からある。いたずらに意思決定を遅らせるのは、もちろんいいことではないが、しかし逆に、意思決定は速ければ速いほどいい、というものでもないだろう。本当に、いやな世の中になったものではないか。重要なことには、その重要性にふさわしい時間を割くだけのゆとりは、是非とも失いたくないものである。
『新潮45』(1998年5月)より、著者の許可を得て転載