国民の幸福(1)
以前にも述べたように、日本が世界の大国になろうとしても決してうまくいかないし、そうなろうとすること自体が無意味で危険なことである。しかし、国民に理解され受け入れられる明確な目標を打ち出さない限り、政治家の中には私利私欲のため、日本をその経済力に見合った大国にすると偽っては利己的な目標を国民の幸福よりも優先しようとするものが出てくるであろう。
日本は高度経済成長期の頃の指導者が説いた日本国民の幸福という目標に戻るべきである。当時は間違った提案や政策、計画、行動などはその目標に照らし合わせることで排除された。日本は当時と同じように、日本国民の幸福を目標にすべきである。
現在、日本の目標が明確でないために、いかに政府の政策が間違った方向に進んでいるか、また国民の幸福がいかにないがしろにされているかを、以下で例示する。
1. 地震や不慮の事故
1995年1月17日に起きた阪神大震災では、6,000人以上もの人々が命を失い、多くの家庭や企業が経済的な被害を受けた。現在でも仮設住宅での暮らしを余儀なくされている人の中には、震災前と同等の住居に戻れる望みがまったくない人も少なくないという。こうした窮状も次のような単純な事実を国が認識し、適切な対応をとっていたら防げたのではないかと私は考える。第一に、日本は地震国である。しかし、個人でそうした自然災害に備えることは不可能である。各個人や家庭が震災に遭う確率は低いものの、それに備えるには莫大な費用がかかる。第二に、民間の地震保険は保険料が非常に高いのと、大半の国民は楽観的であることからその必要性に対し無頓着である。したがってこれを全国民強制加入の地震保険にすれば、全国民が負担するので保険料も低く抑えられ、被災者の補償も賄えるはずである。日本国民の幸福を目標とする政府であれば、地震に備えた国民皆保険制度を作るのではないだろうか。
阪神大震災ではまた、鉄道や橋、高速道路など日本の交通網がいかに脆弱であるかが浮き彫りになった。地震がラッシュアワー時や企業の就業時間帯に起きていたならば、被害者の数はもっと増えていたはずである。日本政府が国民の幸福を目標とする政府であれば、公共インフラを補強・改造するための、日本全土にわたるプログラムを展開しても良いのではないだろうか。
地震に限らず、毎年、多くの人々が病気や事故で働けなくなる。自らの行動が原因の人もいるが、大半は不慮の事故や病気が原因である。よほど裕福な家庭でない限り、現在の日本社会においてこのような人々は金銭的にも不自由な生活を余儀なくされる。なぜなら雇用主や政府がこうした不幸な人々に与える援助はほとんどないに等しいか、あっても短期間しか提供されないからである。こうした不慮の事故や病気に対しても、強制的な国民皆保険で対応すべきではないのか。
2. 高齢化社会
日本は高齢化が進んでいる。これは日本人の寿命が延び、定年後の人生が長くなることを意味する。つまり、出産率が今よりも高く、かつ寿命が今よりも短かった時代に作られた定年制が今の時代にそぐわず、多くの日本人が働く能力も意欲もありながら、長い余生を失業状態で送らざるを得ないことを意味する。日本の目標が国民の幸福であるならば、政府は高齢化に即して、働く能力と意欲のある高齢者が生産的に社会に貢献し続けられるような措置をとってしかるべきではないだろうか。
収入のない高齢者が長い余生を送るには、次の2つの方法しかない。
1つ目は自分の貯蓄で食いつなぐ方法である。この選択肢をとらせる社会では、貯蓄が足りずに惨めな生活を送ることになろうとも、それは本人の努力や先を見越す能力が足りなかったからだと見放されるだけである。そして、そうした惨めな生活を送りたくない人々は老後に備えて貯蓄に励むことになる。しかし、人の寿命は誰にもわからない。そのために必要以上に消費を抑制し、貯蓄に回すようになる。消費が減ればその分生産量が減り、雇用も削減され、経済活動を停滞させるであろう(もちろん自己中心的な政策により余剰生産物を輸出に回せば話は別だが)。
もう1つは、高齢化社会を社会問題と捉え、高齢者が余生を快適に暮らせるよう社会全体で責任を持つ方法である。こちらの選択肢をとる社会では、老後に備えて十分な貯蓄をする能力がない人を保護すると同時に、過剰な貯蓄で経済活動を停滞させることもない。
国民の幸福を考える政府は、どちらの選択肢をとるのであろうか。