今回は米国によるアフガニスタンおよびスーダンへの奇襲ミサイル攻撃に関連して、英国『インデペンデント』紙のピルジャー氏が米国のテロ行為について分析したものをお送りします。今回の米国による奇襲攻撃の大義名分は、ケニアとタンザニアのアメリカ大使館における同時爆弾テロに対する報復攻撃ということですが、ピルジャー氏は米国自体、テロリスト同然であり、こうしたやり方は今に始まったことではない、と分析しています。是非お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。
世界最悪のテロリストはワシントンに本拠を置く
ジョン・ピルジャー
人々に罪はないと知りながら、政治目的のために殺人を行うクリントン米大統領はテロリストであり、その行為を支持するイギリスのブレア首相、そして国防大臣も共犯である。彼らの行為はテロ以外の何物でもなく、それ以外の解釈は意図的にその行為をごまかそうとするプロパガンダでしかない。ここで重要なのは、正しい知識を持ってそれに対応することである。
米国のテロ、そしてそれを支持する英国政府の虚偽という構図はこれまで何度も繰り返されてきた。1986年には、“悪人”カダフィ大佐のリビアに向けて、レーガン大統領はイギリスの米軍基地から爆撃を行った。犠牲者のほとんどは女性と子供で、その中にはカダフィの16才の娘も含まれていた。
1990年には、パナマの“悪人”ノリエガ将軍が麻薬の密売容疑で米国海兵隊に連行された。ノリエガを捕えるためだけにパナマは米軍に侵攻され、少なくともパナマの最貧困層2,000人が爆撃で命を失った。米国がパナマを侵攻し爆撃した真の目的はノリエガや麻薬とは無関係で、パナマの運河と米軍基地を直接米国の支配下に置いてノリエガ以外の独裁者に支配させることであった。
同じく1990年には、“本当の悪人”のサダム・フセインも米国のテロに遭った。フセインもカダフィやノリエガと同様、ブッシュとレーガンの旧友の1人で、両政権はフセインに武器を供給し支援してきた。(当時、サッチャー首相も多くの閣僚を御用聞き、あるいは武器商人としてバグダッドに派遣している。)サダム・フセインが1980年のイラン/イラク戦争で、米英両国から提供された武器を使ってイランの“悪人”イスラム教徒たちを攻撃してもまったく問題にはならなかった。この「忘れられた」戦争で、約100万人の犠牲者が出たことに対し、米英両国の武器製造業界はまったく無関心であった。
イラン/イラク戦争の名目上の勝者サダム・フセインは、次に米英両国の石油保護国であるクウェートという間違った国を攻撃してしまった。この結果、米国にとって、サダム・フセインはまったく信頼できない人物となった。国務省のある報道官は遺憾の意よりもむしろ激怒して、フセインを「高慢な悪党」と言い放った。この1人の悪党を懲らしめるために20万人ものイラク人が亡くなったと、医療医学トラストの調査結果は報じている。軍事攻撃とその後の経済制裁による犠牲者はイラクの一般市民であったが、どれほど多くの人々が犠牲になったかが中東以外の地域で正確に認識されることはなかった。
かつての植民地時代を彷彿とさせるこの大虐殺は湾岸戦争と呼ばれた。サダム・フセインの宿敵であり、ブッシュが圧政者フセインに抵抗して立ち上がるよう呼びかけていたクルド人やシーア派イスラム教徒もこの湾岸戦争で数千人死亡した。戦争終結後かなり経ってから、『ニューヨーク・ニュースデイ』紙は、公式な情報に基づき次のように報道した。米国の第一機械化歩兵隊(ビッグ・レッド・ワン)の3旅団は除雪装置のついた戦車を使って、70マイル以上にわたる塹壕にイラク兵を生き埋めにしたというのである。ある旅団の隊長は、「ただいえることは、何千人もの人間を殺したかもしれないということだけだ」と述べている。これこそ戦争犯罪である。
1991年、ブッシュは「人道的な理由による介入」と称してソマリアを侵攻した。ブッシュは大統領再選の選挙運動の真っ只中であった。ブッシュの言葉を借りれば、海兵隊は神の仕事を行い、何千人もの罪のない人々を救ったとされた。湾岸戦争についての彼の道義的な解釈同様、このソマリア侵攻に関する米国側の説明も、わずかな例を除いてイギリスのマスコミはほぼそのまま報じた。
米国のテレビ局は米海兵隊がアフリカの美しい夜明け前に上陸するのを待ち受けていた。この時間は米国のプライムタイム(午後7~11時)に相当する。ソマリア側の報道は、「混沌」、「種族的優越意識」、「軍閥」といった暗い側面を常に描写していた。しかし、米軍がソマリアでの軍事的野望を完了し、その模様が米国内で報道される時にはそうした暗い部分はまったく消えていた。CIAの推定によれば、海兵隊が去った後に残されたソマリア人犠牲者の数は7,000~1万人に上る。しかし、これもニュースとして取り上げられることはなかった。
クリントンは1992年の大統領就任後すぐ、巡航ミサイル23機でバグダッドを攻撃した。この爆撃では住宅地が攻撃され、また女性や子供が犠牲になった。その中には、イラクで最も有名な芸術家、レイラ・アルアターも含まれていた。
ヒラリー夫人と共に教会に向う途中、クリントン大統領はインタビューの質問に対し、「私はこれを悪いことだとは思っていない。米国民も同様だと思う」と答えている。米国側はこのイラク攻撃の口実を、ブッシュのクウェート訪問時にイラクが暗殺計画を企てていたためと説明したが、この暗殺計画を裏付ける確かな証拠はなく、今では米国の捏造であったとされている。
1996年、米国はイラクを再度攻撃した。米国は、クルド人をサダム・フセインから守るためであり、フセインに代償を払わせることが目的であると説明した。この時も代償を払ったのはフセインではなく、テレビでは人間扱いさえされない非戦闘員である一般市民だった。
1998年初めには、クリントンが再びイラクを攻撃する寸前のところまでいった。米国防省の提供により、夜明けの光に輝くミサイルの映像が、イギリスのテレビで放映された。何がクリントンを思いとどまらせたのか。
自然発火のごとく世界中の世論が反対を唱えた。カメラはイラクの無言のホロコーストをも映し出した。便宜上いつものように国連の名が使われているものの、実際は米英両国の主張により課せられている経済制裁はイラクの一般国民、特に子供たちを苦しめ、その結果がホロコーストを再現させたのである。
ブレア首相はアイルランドのオーマでテロにあった子供たちのために涙を流すことはあっても、主に英国政府とその主要同盟国である米国の行為がもたらした、20世紀末最悪のテロ行為によってイラクの子供達が殺されても涙を流すことはない。
国連の食料農業機関(FAO)と世界保健機関(WHO)によれば、50万人以上の子供たちが経済制裁の結果、死亡したという。その数字を100万人以上だとする情報筋もある。ベビーフードや粉ミルク、さらには医療機器なども経済制裁で禁輸されている。
クリントンのスーダンとアフガニスタンへの攻撃は、超現実主義に基づく、いつもの手口の集大成といえる。星条旗を燃やし、米大使館を攻撃するひげを生やした乱暴なイスラム教徒こそ、未来の敵であると米国政府は主張する。そして、テロの犠牲者のうちイスラム教徒が原因のものはごくわずかであり、むしろ最近ではイスラム教徒がテロの最大の犠牲者であることについては、まったく無視している。スーダンやアフガニスタンの瓦礫に埋もれた手足はイスラム教徒のものである。また、テレビにわずかに映し出されるひどい火傷も彼らのものである。
米国の過激なやり方を冷笑している場合ではない。真実を見極め、こうした言語道断な行動に抵抗すべく反対を唱えるべきである。
〔著者の許可を得て翻訳転載〕