No.211 オーウェル的論法の基礎―いくつかのやさしい教訓

OWの読者は、ジョージ・オーウェルが書いた『1984年』を読まれたことがあるでしょうか。以下の記事では、クリエイターズ・シンジケートのノーマン・ソロモンがオーウェル風の風刺を使って、今回の米国によるスーダンおよびアフガニスタンへの奇襲ミサイル攻撃について描写しています。オーウェルの風刺が人間にとって普遍的な問題を予言していたことを考えると、今回の米国の行動は彼の予言が的中したことを証明するものであるといえます。是非お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

オーウェル的論法の基礎―いくつかのやさしい教訓

ノーマン・ソロモン/クリエイターズ・シンジケート

 米国のミサイルがスーダンとアフガニスタンの拠点を攻撃した翌週、不快な気分になった米国人がいたであろう。少数派だが声高に反対を叫んだ者さえいた。しかし、やさしいオーウェル的論法を少し学んだ者たちは、いつも通り米国の行為を肯定した。

 テロリストが攻撃するとそれはテロ行為とされ、米国の攻撃は報復となる。テロリストが報復に対してさらに攻撃を加えると、それはまたテロ行為となるが、米国がまた反撃をすると、それはまた報復となる。

 人々が、米国政府によって民間人に死者が出たことを非難すると、それはプロパガンダだとされる。それとは逆に、反米グループによる爆撃で民間人に死者が出ると、その犯人は悪であり、死は悲劇となる。

 テロリストが車に爆弾を仕掛けて人を殺害すると野蛮な殺人者と呼ばれる。米国がミサイルに爆弾を搭載して人を殺害すれば、それは文明的な価値観を持つとされる。

 彼らが殺人を犯せばテロリストで、米国人が殺人を犯せば、テロに対抗していることになる。

 米国人は、誰を憎み、誰を恐れるべきかを常に知らされている。1980年代、イスラム原理主義者オサマ・ビンラーデンは米国にとって便利な男であった。なぜなら彼はアフガニスタンを占領するソビエト軍に対して、暴力で執拗に抵抗していたからである。そうした意味で米国にとってビンラーデンは、少なくとも悪人ではなかった。しかし、今、ビンラーデンは真の悪者になった。

 これまで米国の政府高官は何度も嘘をついてきたにもかかわらず、今また、彼らは信用されている。爆撃されたスーダンの首都、ハルツームにある薬品工場は神経ガスの原料生産にかかわっていたとする曖昧な証拠を高官が示すだけで、米国人に信じ込ませるには十分であった。

 力が必ずしも正しいというわけではない。しかし現実世界では、米国の力は正義である。疑わしい政治指向の者だけが、国際法についてとやかくいう。

 外国のマスコミがその国の政府を擁護した報道をすると、それはプロパガンダに過ぎないといわれる。しかし、米国のマスコミが米国政府のレトリックのための報道をすると、責任あるジャーナリズムになる。

 スーダンやアフガニスタンのような国で政府の主張を強烈に繰り返すニュースキャスターとは違って、米国のキャスターは話す内容を指示されることはない。自分たちが好きなように報道する自由がある。

 「調教師がムチを打つと、サーカスのイヌは飛び跳ねる。しかし、本当によく調教されたイヌはムチがなくても宙返りをする」とジョージ・オーウェルはいった。

 オーウェルは、「言葉が醜く、不正確になるのは、我々の考えがばかげているからだ。しかし、我々の言葉の弱さが、ばかげた考えを持つことを容易にしている」といった。彼の小説『1984年』には、「新語法(ニュースピーク)(政府役人などが世論操作のために用いる曖昧な表現)の特別な働きは、意味を表すためではなく、それを剥奪させるためである」と記されている。

 国家安全保障、西洋の価値観、国際社会、テロリズムとの戦い、付帯損傷(軍事行動によって民間人が受ける人的および物的被害)、米国の国益などがニュースピークの例である。

 オーウェル風の事実の操作と歪曲プロセスで驚くべきことは、それが普通の情景の一部にうまく溶け込んでしまう傾向にあることである。明けても暮れても、我々はそれを当たり前だと思うようになっていく。そして未知の神経回路に進もうとはしたがらなくなる。

 『1984年』でオーウェルは、条件反射についてこう書いている。「いかなる危険な思考についても、あたかもそれが本能であるかのように、その前のところで踏み留まる。または異端の方向に進む可能性のある思考の流れに対しては、うんざりするか、または不快に思う」

 オーウェルは「二重思考」をこう表現した。「不都合になった事実を喜んで忘れ、それがまた必要になれば、必要な間だけ忘却の彼方からそれを呼び起こすこと」

 そして彼の『1984年』の後書きで、エリック・フロムはこう強調した。「オーウェルの著書を理解するために欠かせない点は、いわゆる「二重思考」が単に、将来たまたま起きるものや、独裁政治下で生じるものではなく、我々の中にすでに存在しているということである」。

 42年前、オーウェルは『政治と英語』という題名の小論文を書いた。今日、彼の言葉はいつになく現実味を帯びて我々に降りかかる。「今の時代、政治演説や文章は、大部分が擁護不可能なことの弁明でしかない」

 さらにオーウェルはこういった。「鎮圧や残虐行為は実際、防衛可能である。しかし、それは論争によってのみであり、その論争は大部分の人が直面するにはあまりにも残酷で、政党が公言する目的とは一致しない。だから政治表現には、婉曲語が用いられ、追究を巧みに避け、完全に曇った曖昧語があふれているのである」

 国家安全保障、西洋の価値観、国際社会、テロリズムとの戦い。付帯損傷、米国の国益……。

[著者の許可を得て翻訳転載]