今回は、第一次世界大戦中、プロパガンダがいかに効果的に使用され、ウィルソン大統領が米国を参戦させてこの戦争を長引かせ、ヨーロッパ、ひいては世界にどれほど壊滅的な打撃を与えたかについてフェルディナンド・ランドバーグが書いた『The Natural Depravityof Mankind』からの抜粋をお届けします。歴史は勝者によって作られると言われますが、その端的な例がここに表れています。是非お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。
第一次世界大戦に 見る初期のプロパガンダとウィルソンの戦争責任
戦争責任
第一次世界大戦終了後、戦争責任が問題になった時、当時は動員が開戦を意味したにもかかわらず、戦争責任を問われたのは最初に動員令を発動したロシアではなく、宣戦布告を行ったドイツであった。
1914年6月28日に勃発したサラエボでのオーストリア皇太子暗殺事件によって国際間の緊張は極度に高まった。ドイツの全面的支援を確信したオーストリア・ハンガリー帝国は7月28日にセルビアに対して宣戦を布告し、局地戦争は直ちに全面戦争に発展した。最初にロシアがセルビアを助けて7月30日に総動員令を出し、ドイツはロシアに対して8月1日に宣戦布告を行った。ドイツに対抗して、次にフランスも動員した。イギリスはフランスが加わるまで一時躊躇したもののすぐに動員に踏み切っている。これで両陣営が決まり、フランス、イギリス、イタリア、ロシア勢に、ドイツ、オーストリア・ハンガリーとトルコが対抗することになった。戦後、誰がヨーロッパ大陸を破滅的な戦争へ追い込んだか、その責任の所在が議論の的になったが、現実にはどの政府も同様に有罪であったことになる。
米国の参戦が戦争を延長
1916年秋までにロシアが東部戦線を崩したが、西部戦線は膠着状態であることは明らかであった。ドイツは膠着状態のまま戦争を終えてもいいと考えていたが、フランス、イギリスはドイツを敗北させるまでは戦争を終結させたくないと考えて休戦を受入れなかった。その理由は米国にあった。1914年8月以降、駐英米国大使のウォルター・ハインズ・ページが、米国が参戦するかもしれないと両国に期待を持たせていたからである。英仏は虚偽のプロパガンダをばらまくことで、米国の世論に影響を与えようと必死になっていた。
プロパガンダの例
例えば、ドイツは民間の貨物船に対して潜水艦で無差別攻撃を行ったと非難されたが、これは真っ赤な嘘であった。ドイツが潜水艦で攻撃したのは、密輸貨物の軍需品を積んだ武装した商船であったことが、後の捜査で明らかになっている。イギリスは当時、ドイツの潜水艦撃沈のために商船や漁船にみせかけた「おとり船(Qボート)」を使っていた。これに対してドイツがその疑いのある船舶すべてを魚雷で攻撃していたに過ぎなかった。
米国世論が最も怒りを露わにしたのは、米国人が乗っていたイギリス客船、ルシタニア号がドイツ潜水艦に沈められた時であった。この軍需品を積む客船には乗らないようにとドイツが全面広告で警告していたにもかかわらず、米国人がその船に乗り合わせていたのである。この客船に軍需品が積まれていたというドイツ側の主張はイギリスの軍人予審裁判所で後に確認されている。また、ベルギーへ向かうドイツ軍が子供を串刺しにして担いでいたという話など、ドイツ軍の行為に関する虚偽の中傷も数多くあった。
プロパガンダの威力が顕在化したのは、第一次世界大戦後である。嘘は大きければ大きいほどより説得力があるという考え方もこの時生まれた。戦争中のプロパガンダやプロパガンダ技術については以来何十冊もの本が書かれている。ヒトラーの宣伝相、ジョセフ・ポール・ゲッベルスは、第二次世界大戦前と戦中にありとあらゆるプロパガンダを使用した。
ウィルソンの病
イギリスへの同情を誘って米国を参戦させるという策略によって、ウィルソンは1人で、米国、ヨーロッパ、西欧文明に最大の被害をもたらした張本人となったのである。ウィルソンは大統領の権力を利用して悲惨な結果をもたらした。彼は、ジョージ・ワシントン以来米国がずっと守ってきた政策、複雑な同盟関係に決して関与しないという政策を捨てた。ウィルソンはそれまでの大統領の中で最も教養の高い大統領であったにもかかわらず、なぜこうした悲惨な結果を招いたのであろうか。
ウィルソンがこの戦争に関して誤った判断を下したことは、国民にはまったく伏せられていたが、そこには重大な理由があった。ウィルソンは長い間持病で苦しんでいたのである。彼は1890年代から脳血管を患っていたことを隠し続けていた。1906年、ウィルソンはこの病気がもとで左目を失明している。また大統領在任中、脳へ送られる血液の不足が原因で奇妙な行動をとったことが何度かあり、1919年には発作を起こし実務を行えなくなったが、このことも世間には公表されなかった。こうしたウィルソンの病気のすべてが公表されたのは、ニューヨーク私立大学、マウントサイナイ医学部神経学の教授エドワード・W・ウェインスタインが1970年9月号の“Journal of American History”に長文の論文を発表した時である。ウィルソンの主治医はずっとフィラデルフィアのフランシス・X・ダーカムであった。ダーカムの死後、通常は保存される診療記録がすべて破棄されている。これは米国史上、最も重大な証拠隠滅である。
参戦の真の理由
戦争そのものは米国産業界に戦争特需という、ウィルソン政権にとって政治的な利益をもたらした。これは何百万人もの雇用の創出とともに戦争への加担を意味した。戦争の勃発時、米国は循環型の不景気に突入しようとしていた。景気が完全に停滞すればウィルソンの再選は果たせない。そこで戦争特需が歓迎されたのである。
戦争初期の頃、イギリスとフランスはウォール街の銀行から巨額の信用貸し付けを受けた。英仏が負ければ債務が返済されなくなると考えた米国は、両国を支援することにしたのである。ドイツも戦争貸し付けを要請できたが、プライドからそれをしなかった。これがドイツにとって外交上の失策となった。戦時中のドイツの政策は、国際経験豊かなイギリスやフランスと比べていかにも幼稚であったのだ。
ドイツの降伏後、講和会議で作成されたベルサイユ条約はドイツに非常に厳しい内容になった。ドイツからすべての植民地を没収し、イギリスとフランスに譲渡するというものだった。またドイツがとても支払えない規模の賠償金や物資が要求された。その背景には、第一次世界大戦を開始したドイツを罰するという考えがあった。戦時中の検閲が解かれて戦争犠牲者の総数が公表された当時、ドイツが戦争を開始したのだとする考え方が一般的であった。というのも山のように積み上げられた若者の死体や、犠牲者の総数に人々はぞっとさせられていたため、連合国の政治家は戦争責任のいかなる責めをも他者に転嫁したいと考えていたからである。
戦時中の検閲は、表面上は重要な情報が敵に漏れないようにするためだとされた。しかし本当の狙いは、自国の国民に政府の大失策や莫大な犠牲者の数を知らせないことにあったのである。
[フェルディナンド・ランドバーグ著
『The Natural Depravity of Mankind』 (Barricade Books, 1994)より抜粋翻訳]