マスメディアによるプロパガンダを強く意識し始めるようになってから、米国を第三者的に捉えた、ヨーロッパのマスメディアの主張に、私は目を向けるようになりました。雑誌なら『エコノミスト』誌、新聞であれば『インディペンデント』紙というように、米国に関する記事を客観的な視点から提供している読み物を特に意識して読んでいます。
今回は米国からヨーロッパに戻ったばかりの『インディペンデント』紙の記者、ジョン・カーリンが、米国が主張する崇高な道徳的基盤はまったく虚構であると論じている記事をお送りします。是非お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。
私から見た米国、その問題点(前編)
『インディペンデント』紙
1998年5月10日
ジョン・カーリン
1998年5月上旬、米国でめずらしく民主党、共和党の党を越えた式典が執り行われた。この式典のために両党は休戦協定を結び、モニカ・ルインスキーやポーラ・ジョーンズ、ケネス・スター検察官、ホワイト・ウォーター疑惑に絡むヒラリーの1982年の弁護料請求書など、両党が対立する様々な問題はひとまず置かれ、なごやかな時間が流れた。それは、ホワイトハウスからほど近いペンシルバニア通りにある米国政府所有の大きな建物が、「ロナルド・レーガン」と命名される式典であった。まるで全議員が参加したかのような盛況ぶりで、その日だけは共和党も民主党もなかった。ナンシー・レーガンも、はりのある顔で目を大きく見開いて熱心に凝視していた。ボブ・ドールも同じであった。
ビル・クリントンの姿も見られた。その日ばかりは、共和党から毎日のように拷問を受ける屈辱から開放されて、すでに神聖なる地位を手にしたレーガン大統領を他の出席者とともに思い出し(または思い出すことがないことを)賞賛した。
こうしたお祭り騒ぎに天賦の才を持つクリントンは、最大のお世辞でレーガンを誉めそやした。郷愁を漂わせ、下唇をかみしめ、大判の星条旗の映画スクリーンの前で愛国者の役割を演じるクリントンは、頭の中身を除けばレーガンうりふたつである。
映画俳優時代のレーガンをきどったクリントンいわく、「我々は彼の存在の本質を感じることと思う。彼のたゆみない楽観主義、誇り高い愛国心、そして米国民への臆面のない信念である」
式典出席者は歓声をあげ、その振動で大きな星条旗がはためいた。その時彼らが共有したアメリカ人であることの誇りは、「独立記念日」や同名の映画に対して感じる気持ちとまったく同じであったろう。ダニエル・パトリック・モイニハン議員でさえその歓喜の中にいた。私はかつてモイニハン議員を、知識、機知、そして道徳的指針を兼ね備えた数少ない上院議員の1人であると思っていた。しかし、彼こそがニカラグア右派のゲリラコントラを「合衆国憲法制定者と道徳的に等しい」と呼んだレーガン大統領の名を、このペンシルバニア通りの大きな空きビルにつけるという法案を最初に提案した議員であったのだ。
「この大きな建物にレーガン元大統領にちなんだ名前をつけることは当然である。彼が米国にもたらした多くの恩恵の1つが、世界平和というビジョンであった」とモイニハンは興奮して述べた。
私はやりきれない気持ちになった。まったくばかげている。議会とホワイトハウス両方の法的承認を得て、ワシントン・ナショナル空港が「ロナルド・レーガン・ナショナル空港」に改名されるというニュースが2ヵ月前に報じられたが、それよりもばかげている。ワシントン・ナショナル空港は私が利用する空港で、過去3年半ずっと利用してきたが、これからは決して利用したくないと思っている。
私が米国についてやりきれないと思うことはいくつもある。愚かな確信、盲目的な迎合、貧困者に対する軽蔑、安っぽい愛想、これみよがしの信仰心、冷淡な法律、銃好き、ハリウッド的感覚、物質的成功への執着、政治の見世物的空虚さ、流行のがらくたの寄せ集め、幼稚な写実傾向などなど。そして米国がこの世で道徳的に最も卓越しているという信念。このことは、米国流の生活様式が人類史上最善だとして選挙運動中に政治家が必ず1回は引用するリンカーンの言葉、“人類に残された最高の望みが米国である”ということを99.9%の米国人が信じていることからも明らかである。
これがクリントンのいうレーガン主義の本質である。レーガン、または彼に代わって政策を立てた者たちが見つけ、純化し、この快適な国家、米国に残したこともいくつかある。しかし、私に関していうと、なぜワシントンに来たかという点から述べたい。それは、帝国ともいえる力を持つ米国が地球上の不運な人々に与えた苦難に対して、米国人がまったく無頓着であるということに興味を持ったからであった。
もし私が80年代を南米で過ごさなければ、米国に対して違った見方を持ったかもしれない。米国に来ることもなかっただろう。しかし、近年米国は世界のいたるところに傷痕を残してきた。それで北米の巨人を自分の目で見てみたい欲望にかられたのである。
最初私はアルゼンチンにいた。アルゼンチンという国は、サダム・フセインをわずかに洗練させた邪悪な大将たちが、フォークランド紛争の時にホワイトハウスの仲間がサッチャーに寝返ったことに驚かされたという経験を持つ国だった。それから6年間、中米の地峡にある流血に染まった小国を取材して歩いた。ジャーナリストとして私はその地でレーガン政権が民主主義の名のもとに、容認するだけでなく奨励してきた蛮行に驚き、夢中になり、そして惹きつけられていったのである。
1995年1月に私が米国に移住した時、実際にはまったく違うのではないかと期待した。その理由の1つはおそらく、南米滞在中に数多くのすばらしい米国の友人ができたためであろう。そしてすばらしいクリントン政権であれば、米国がエルサルバドル、ニカラグア、ホンデュラス、グアテマラの何百人もの人々に、歴史上もっとも悲惨な仕打ちを与えたことに対して何らかの償いがなされるのではないかと私は無邪気にも期待した。少なくとも中南米におけるレーガンの恐ろしい「自由の戦死たち」の伝説は嫌悪されているだろうと考えたのである。
これほど真実から遠ざかったことはなかっただろう。なぜなら米国が中南米で犯したことはすべて公の歴史から抹消されていたのである。事実、今日の米国では、恥ずかしげもなく両政党が手に手を取ってレーガンを称賛する乱痴気騒ぎに舞い上がり、レーガンが死ぬ前から、米国の偉人を祭った殿堂(マウント・ラッシュモア国定公園)にワシントン、リンカーン、ルーズベルトの横に彼を祭る準備をしているのだ。
私にとってレーガン大統領は、南アフリカの大半の人々がP.W.ボタを見るようなものである。その違いは、人権無視の規模からいってもボタはレーガンの足元にも及ばないということである。『インディペンデント』紙の特派員として南アフリカで6年間過ごしているからいえることだが、ボタが行った残虐行為を数量化することは不可能である。しかし、殺人や大量虐殺、その他の残虐行為すべてを見ても、ボタが犯した罪は米国政府の費用でレーガンが暗殺用の傭兵を使って行った行為には及ばない。
多くの統計からいえることは、南アフリカの暗殺部隊は80年代に60人、多く見積もっても100人の活動家を殺している。しかしエルサルバドルでは80~81年の2年間だけでも、毎月1,000人が殺害された。エルサルバドルの人口が南アフリカの10分の1であることを考え合わせると、これはかなり深刻な規模である。
また、エルサルバドルでは暗殺部隊のリーダーである大将や大佐、マイアミのコントラ設立者はイスラエルの次に多くの援助(訓練、拷問、さらにはホワイトハウスからの賞賛)を世界最高の民主主義国家から得ていた。それを考えると犠牲者の数があまりに多すぎるのではないかと読者は思われるかもしれない。私もそう思う。しかし、そうした考え方はここワシントンでは通用しない。なぜならここでは米国の力の暗部からあえて目をそらし、すべてが政治的な計算とイデオロギー的な抽象概念から成り立っているからである。また中米で何十万人もの人々が殺されたという情報が国家的な意識の中に刻み込まれることがあれば、それはシュワルツェネッガーの映画に出てくるような外国の悪党や共産党員、アラブ人風の人間の仕業としてなのである。あるいは、1984年にエルサルバドルで起こった身の毛もよだつような殺害について追求された米軍のチーフ・アドバイザーが発した名セリフ、「結局、彼らは褐色の小人にすぎない」という言葉に言い尽くされるであろう。
しかし、小さかろうが褐色であろうが彼らが生身の人間であることに変わりはない。命を奪われたサルバドル人、ホンジュラス人、ニカラグア人だけでなく、その孤児や未亡人となった人々、さらにはレーガンの自由市場経済を擁護する暗殺部隊によってどん底の貧困を経験させられた無数の難民がいたのである。私は彼らに会い、損傷した遺体や切断された手足も見た。彼らはオハイオ州トレドに住む典型的な米国人夫婦や、コンピュータを操る彼らのかわいい子供たちと同じ、実在する人間なのである。しかし米国政府、また米国全体にとって彼らの命は何の意味も持たず、いかに残忍な殺され方をしようがまったく痛みを感じなかった。そうでなければ、空港や建物にロナルド・レーガンの名前をつけたりするはずがないし、それどころかレーガンの罪を裁くために彼を法廷に引っ張り出していたであろう。
しかし、レーガンが何1つ思い出せなくなった今は、それも単なる見せ掛けにしかすぎないであろう。アルツハイマーにかかる以前の意識がはっきりしていた時でさえ、レーガンは感情が未発達の10歳児同然の愚直な人間だったが、クリントンには同じ言い訳は許されない。
[許可を得て翻訳転載]