マスメディアによるプロパガンダを強く意識し始めるようになってから、米国を第三者的に捉えた、ヨーロッパのマスメディアの主張に、私は目を向けるようになりました。雑誌なら『エコノミスト』誌、新聞であれば『インディペンデント』紙というように、米国に関する記事を客観的な視点から提供している読み物を特に意識して読んでいます。
今回は米国からヨーロッパに戻ったばかりの『インディペンデント』紙の記者、ジョン・カーリンが、米国が主張する崇高な道徳的基盤はまったく虚構であると論じている記事をお送りします。是非お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。
私から見た米国、その問題点(後編)
『インディペンデント』紙
1998年5月10日
ジョン・カーリン
クリントンはレーガンを洗練させ格上げしたような人物であり、仲介役の能力や人を魅了する才能だけではなく、自分で考える能力を持っている。民主党と共和党の差異がトークショーの司会者ほどの違いもなくなった今日、クリントンがレーガンから学んだ教訓は、選挙の勝敗を決定するのは基本的に対立候補よりもいかにテレビ映りをよくするかということになる。次の2000年の大統領選を考えると、どちらの候補者がアカデミーショーの司会をうまく行えるかという質問に置き換えてみればよい。それに基づいて予想すれば、大統領選の勝者を当てられることはほぼ間違いない。
賢く先手必勝を何よりも優先させるクリントンは、ボブ・ドールに圧勝しジョージ・ブッシュの敗北を確実なものにするために、抜け目ない策略をうまく利用した。
彼はホワイトハウスの古参の民主党員の怒りを無視し、おべっか使いで身売りの好きな選挙立会人で、政治方針をまったく持たないディック・モリスのアドバイスに耳を貸した。1996年の大統領選の6ヵ月前に、哀れなボブ・ドールが自分の最後の政策課題と考えていた政策を奪うことに決めたのである。クリントンは、レーガンの後継者である共和党議員によって完全にお膳立てされた福祉改革法に調印し、貧困者、特に子供や1人で子供を育てるシングルマザーへの補助金を大幅に削減することを決めた。
モリスの予想が的中し、この動きは中流階級に好意的に受け止められた。米国の中流階級は、無限の可能性を秘めたこの土地で豊かになれないのは、その人物が敗北者であるからだという根拠のない信念を今も頑なに守っている。さらに先進国中、米国が最も貧富の差が大きいという事実に対して何も感じていないと同時に、票の力に物をいわせようと投票行動を起こすのもこの中流階級である。モリスとクリントンの計算の中には、政治献金で選挙公約の内容を大きく左右する大企業経営者の反応ももちろん含まれていた(こうした政府と企業の関係は、米国の政治制度が合法的ではあるが、世界で最も腐敗していることを示している)。結局、生産的な米国人が働いて納めた税金を労せずして手にする「盗人」からその権利を奪う福祉改革法に対して、大企業の経営者は寛容であるに違いないと考えたのである。
1992年、クリントンはジョージ・ブッシュとの対戦で、共和党によって植えつけられた「マリファナを吸う好色な自由主義者」というイメージを有権者の間から根気強く払拭する必要があった。この時もクリントンはレーガン精神に則って死刑支持の立場を示した。死刑は正義を遂行するために大半の米国人が支持している旧約聖書時代の方法だが、他の西洋諸国では廃止された国がほとんどである。クリントンは報道機関に自分が死刑支持の立場をとることを認識させるために、地元アーカンソーに戻り、精神異常者が薬物で死刑に処されるその瞬間に立ち会った。
米国人の信じられないほどの死刑への傾倒は、中米の褐色の小さな人間の生命に対する無関心と同列に位置づけられる。こうした傾向が生まれる原因は単純で子供じみた懲罰的な性向にあるとともに、それはテレビや映画などの影響で感覚が麻痺した結果であり、また見知らぬ人にも備わっている共通の人間性を把握できないことにもつながっている。特に「悪党」に分類されている人間であれば、中南米の行方不明者(特にアルゼンチンの軍事政権下で政府機関や軍によって誘拐・暗殺された者)であろうと、米国内の犯罪者であろうと同じと見なす。
ビリー・ベイリーを例にとろう。ベイリーは、酒屋に強盗に入った後で、泥酔状態のまま逆上し、老夫婦を撃ち殺した若者である。確かに彼が犯した罪は恐ろしいが、彼の人生を振り返ってみてほしい。2部屋しかないあばら屋で23人の兄弟と4度も結婚を繰り返した父親と生活していた。ベイリーの母親は彼が6ヵ月の時に亡くなった。父の後妻はベイリーを虐待し、父親が死んだ直後に10歳のベイリーを墓地に捨てた。すでに結婚していた異母兄弟が彼を引き取ったが虐待は続いた。食べるためには盗むより他なかった彼は、少年院を出たり入ったりで10代を過ごした。刑務所は彼の最初で最後の家になった。裁判所はベイリーには情状酌量の余地がまったくないとし、史上最も豊かであるはずの米国社会が、ベイリーが残忍な行為を犯す以前に何らかの援助の手を差し伸べることができなかったのか、と省みられることはなかった。そして、1996年1月25日真夜中零時、ベイリーは絞首刑になった。
増加の一途を辿る死刑囚(最新の数字で4,000人)のうち10人に9人がビリー・ベイリーと似通った幼年時代を過ごしている。そして、今世紀最大のO.J.シンプソンの裁判で裁判官がいった「リッツカールトンホテルと同様に正義は誰にでも開放されている」という言葉からいかなる教訓が与えられようとも、次の大統領選、あるいは近いうちに行われるどのような選挙においても、死刑が争点になることはないだろう。過去の選挙で向こう見ずな候補者たちが、議会であろうと、地方政府の野犬狩り担当部門の選挙であろうと敗退したことからわかるように、米国で死刑に反対することは政治的な破滅を意味するのである。
また、言葉で表現できないほど残酷な米国の刑務所制度を改革するという考えも禁物である。米国の刑務所内では、同性愛者による強姦や性的な虐待が黙認され、奨励される風潮さえあり、テレビのコメディアンのジョークのネタにもなっている。これは、グアテマラの労働組合員による拷問がレーガン政権によって黙認され、奨励されていたのと同じである。
極端に考えれば、こうした性向が老若男女169人を巻き込んだ1995年のオクラホマ連邦ビル爆破事件で、その首謀者である元陸軍曹が下した気狂いじみた決定につながるのである。彼は、敵は米国政府であると決めた。彼が爆弾を仕掛けた連邦ビルの中にいる人間はみな悪者であり、彼らは普遍的な人間性など持ち合わせていないと判断した。ゆえに、彼らや彼らの家族に対する良心の呵責や同情をみじんも抱かずに、彼らの命を奪えたのである。アイルランド共和国軍(アイルランド民族主義者の反英非合法組織、略IRA)やエタ(スペインバスク地方の過激派グループ、バスク語で「祖国バスクと自由」の意)などによる爆撃とは違って、オクラホマの爆撃には、驚くべきことに、論理も政治的な目的もまったく存在しない。悪意、愚かさ、恨みに基づく、驚くほど想像力を欠いた行動である。1998年3月にアーカンソー州ジョーンズボロで起きた2人の少年による校庭でのライフル乱射事件も同様である。米国が一般的な正統性を盲目的に崇拝し、ランボーやターミネーターに潜む考えに影響を受けたかもしれない憲法上の解釈に大人達が敬虔な愛着を持つ限り、こうした子供たちによる殺人は跡を絶たないであろう。
しかし、広大で多様性に富んだ米国にはよい点もある。私自身、よい教育と適切な資源に恵まれ、豊かな生活を送ることができた。ここで簡単に、ヨーロッパにはない米国の長所を強調しておきたい。ヨーロッパ人から見ると米国人はアイロニー(皮肉)に欠けている。つまり人生には限界があるという大人の感覚、すなわち分別に欠けているということである。しかしこれは裏返せば、米国人は思春期の若者のように可能性を信じているということであり、無限のエネルギーや楽観主義によって創造性や富の創出に駆り立てられているということでもある。その想像力たるや、世界中でかつての大帝国が滅びるのを目の当たりにしてきた厭世的なヨーロッパ人にはとても考えられないものがある。失恋したイタリア人は月に向って吠えることはあっても、月に行けるとは思いもしなかっただろう。フランスの小さな田舎町で貧困の中に育った若者は、いつかフランスの大統領になれるなどとは夢想だにしない。仕事で行き詰まったイギリス人が「不平をいうべきではない」と自分に言い聞かせたとしても、同じセリフが米国人の口から出ることはないだろう。
また、賢明で人道的な米国人はあまりいないという定義もおかしい。米国は広大な国だ。見知らぬ人の苦境に強い関心を持つ人もいる。大部分の米国人が金儲けに夢中になり、ハンバーガーをほおばってテレビを見ている一方で、ビリー・ベイリーのような不運な米国人や褐色の肌の小さな人間のために熱心に支援活動を行い、知力を注ぎ込んでいる米国人もいる。しかし、このような米国人は自国でもよそ者扱いされ、その声は、市場主導型のアメリカンドリームを創り出し利益を刈り取ろうとする収穫機械の騒音や猛威にかき消されている。
もし私が暗部には目を背け明るい部分だけを見ていたとすれば、それは私が米国自身の高慢かつ自己満足的な主張に照らし合わせて米国を評価していたからである。米国は他の国より道徳的に優れてはいない。その社会はこれまでの社会の中で最も尊く、すばらしく、品位ある社会でもない。人類にとって最後に残された最善の望みでもなく、むしろそれとはかけ離れている。米国社会は実に無慈悲である。米国では人類はみな平等だとよくいわれるが、米国は権力に情けを加味することを学んではいない。また、国家として自国の不運な人々に対しても、また見た目も話す言葉も違う米国人が発音もできない土地に住む異国人に対しても、慈しみの手を差し出すことはなかった。
政府の建物にロナルド・レーガンの名をつける式典から私が悟ったことは、今後も状況は変わらないだろうということである。少なくとも私が生きている間は期待できない。私は友人に会いに米国を再び訪れることはあっても、たとえ世界中の金をもらってもそこに住みたいとは思わない。
[許可を得て翻訳転載]