No.227 企業の目的は利益追求ではない

日本経済と社会は現在、深刻な状況に直面しています。この社会における現役の人々は、次の3世代に分けられます。

(1)私と同世代の50歳以上の人々。高度経済成長期に現役だった人の息子、娘の世代。親が築いた社会、経済をそのまま継承した、現在の指導者的存在。

(2)私の世代の子供たちで25~49才の人々。この世代を教育してきたのは、上記(1)の世代。

(3)私の孫の世代で1~24才までの人々。上記(2)の世代が教育しなければならない世代。

今回は、上記の各世代が行ってきたこと、また現在行っていること、さらには将来受けると思われる影響を分析してみたいと思います。是非お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

企業の目的は利益追求ではない

高度経済成長期のリーダーであった松下幸之助、土光敏夫、本田宗一郎を始めとする経営者達は日本を戦後の廃虚から世界一豊かな国へと復興させた。日本製品の評判を「安かろう悪かろう」から「価格に見合った高品質の製品」へと押し上げ、技術力についても単なる「コピー屋」から「先端的なイノベーター」へと格上げさせたのも彼らである。また「低賃金を売り物にする国」から「高賃金、高生産性の労働者が武器の国」へと、さらには「貧しく飢えた国」から「贅沢で豊かな国」へと生活水準を高めたのも高度経済成長期の指導者たちの功績であった。そして日本は先進国中で名実ともに最も平等な国となり、国民1人当たりの所得は世界一に、貧富の差は世界で最も少ない国になったのである。

その高度経済成長時代を継承した我々の世代は、父親たちが築いてきた事業を引継ぎ、それを倒産に追い込んでいる。我々の業績は惨澹たるものである。高度成長期の両親から受け継いだ社会や経済に対して、自分たちはほとんど何も貢献していない。それどころか、当時よりも社会や経済を悪化させたといってよい。例えば、増加した公的債務を見て欲しい。高度経済成長の時代、公的債務はGDPのわずか5%とほとんどないに等しかったのが、今は当時の200倍に増加した。その間、日本のGDPは14倍にしか増えていない。現在、日本の公的債務のGDP比は100%を超えようとしている。これを世界と比較すると、日本の公的債務のGDP比は高度経済成長期には他のG7諸国平均の5分の1、OECD諸国平均の3分の1未満であったのが、今では他のG7諸国平均を30%、OECD諸国平均を50%上回っている。国家が公的債務を増やす理由はただ一つ、歳出が歳入を上回るためである。つまり、我々の世代が税収入をはるかに超える支出を政府に許したがために、これだけ負債が膨らんだのである。そればかりではない。借金のつけを子孫に転嫁しているということは、子孫の金を盗んでいるに等しい。代金を支払わずに欲しいものを手に入れるのは、まさに泥棒行為ではないだろうか。事実、我々は応分の負担なしに公的サービスを好きなだけ享受し、その支払いは子孫に負担させようとしている。それとも子孫にこの状況を説明し、我々が積み上げた負債の支払いを彼らが承諾したとでもいうのだろうか。かつて日本の高度経済成長期を「奇跡的な経済成長」と呼んだ諸外国が、今の日本を「悲惨」「無能」「腐敗」「縁故主義」といった言葉で形容するのも、むしろ当然かもしれない。高度経済成長期の「成功、繁栄、幸福」に比べて、現代の「失敗、不況、不安」がこれほど対照的であるのは、主に価値観の喪失に起因していると私は考える。それとも、千年前から日本に根づいてきた価値観を捨て去り、もはや米国にさえ当てはまらなくなった価値観を取り入れたからであろうか。例えば、高度経済成長期には社会的義務が重視されたのに対し、現代は個人の自由が強調されている。

松下幸之助や高度経済成長期の指導者達は社会の目標は国民の幸福であると考えていた。企業の役割や義務は、国民の幸福に貢献する製品やサービスを提供すること、それらを国民が購入できるよう雇用を提供することであると考えていた。また、利益は悪いものであり、企業の存続のための設備投資や研究開発費に必要な分だけしか利益を取ってはならないとしていた。そして、それ以上の利益が得られるのなら、商品やサービスの価格を引き下げるか、社員の給与あるいは手当てを増加させるべきだと考えていた。

高度経済成長期の世代は金融バブルなど起こさなかった。なぜならばバブルは利益の追求によって起こるものだからである。企業の経営者たちは、利益の追求ではなく国民の幸福につながる製品やサービス、雇用の提供を目標としていた。そして、土地や株、為替で博打を行わなかったため、金融バブルを作ることはなかった。その後、経営者が海賊になり、利益の追求こそが企業の目標だと考えるようになるとすぐに、商品やサービス、雇用を提供するよりも博打の方が手っ取り早く儲けることができると気づいた。そして彼らは金融バブルを作ると同時に、製品やサービス、また雇用の創出能力をも弱めたのである。

また、高度経済成長期においては、利益に課せられた法人税の減税を経営者が政府に特別要求したりすることはなかった。さらには、所得減税も求めたりはしなかった。自分達が高額所得を得られるのは恵まれているからだと考え、恵まれていない人々よりも多くの税金を社会に還元するのは当然の義務だと考えていた。そして高い税金を支払っていることに誇りを感じていたのである。

現代の人々は社会の目標に対する確固としたビジョンを持っていない。そんなことはないと思うのであれば、日本の目標を自分で書き出してみて欲しい。あるいは日本の指導者達が日本の目標について語っていれば、それを書き留めてみて欲しい。現代の人々は、企業の目標は社会からできるだけ早く利益を吸い上げることだと考えている。日本の国民の幸福につながる製品やサービスを提供しようと努力するよりも、消費者に物を買わせるために巨額の広告費を費やしている。それも、製品やサービスに関する正しい情報を伝える広告ではなく、物やサービスを買わせるために消費者を惑わせる誇大広告なのである。大企業4,039社は1997年の広告費として3兆7,336億円を投じた。社員に良い雇用、賃金、手当てを提供する代わりに、終身雇用を廃止し、賃金や手当てを削減し、長年働いてきた社員を簡単に首にし、工場を賃金の低い海外へと移転させている。また、社員のことを人材と呼んでは、資材と同様に扱っている。

社会の義務ではなく個人の自由を強調することは、19世紀の米国西部地方では確かに意味があったかもしれない。自分で自分の身を守らなければならない荒野では個人の自由や努力が重要である。しかし、個人の功績よりもチームワークから力や安全が得られるような人口過密地域では、社会的義務の方が個人の自由よりも重要になる。人口が密集してない地域であれば個人の自由も許されるが、住民同士が互いに隣り合い、各人の行動が他者に影響を及ぼしやすい場所では、社会的義務が重要である。事実、ほとんどの人間が都市部に住むようになった現代の米国では、昔流の個人主義の価値感が原因で多くの社会問題が起きている。そして、日本の伝統的価値観を捨て去ろうとしている日本は、米国にさえ合わなくなったその価値観を取り入れようとしているのである。これが愚行でなくてなんであろう。

米国を衰退させた価値観を模倣するのをやめ、日本を千年以上にわたり支え続け高度経済成長期の基盤となった価値観に立ち返らない限り、日本が過去15年間に失った活力や健全性を取り戻すことは不可能であると私は思う