No.237 世界が自由市場に対する関心を失ったのはこれが初めてではない

 今週は、『The Nation』誌より、自由市場主義への信奉は一時的なものであり、すぐにそうした見方が存在していたことさえ思い出せなくなるであろうとするジョン・グレイの記事をお送りします。是非お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

世界が自由市場に対する関心を失ったのは
これが初めてではない

ジョン・グレイ
『The Nation』誌(1998年10月19日号)

 世界の資本主義が深刻な問題に直面しているということがようやく認知され始めた。そうした状況になったのはつい最近のことである。今春、私の著書『False Dawn』が出版された時、酷評されるとは予想していたが果たしてその通りになった。批評家のほとんどが懐疑的で、世界市場が崩壊に向かっているという私の主張は空想の産物だと一蹴する者さえいた。しかし、出版から半年もたたないうちに、私の主張がほぼ正しかったことが立証された。自由主義に対する揺るぎない総意はそれを半永久的なものであると思わせていたがそれが崩壊し始めたのである。そしてすぐに、そうした見方が存在していたことすら思い出されなくなるであろう。今から1年もすれば、グローバルな自由市場が世界経済運営のための賢明な方法だと信じていたことを認める者はひとりもいなくなるだろう。

 『False Dawn』に対する反響から、本書の中心テーマの1つが証明されることになった。それは現代の論調は歴史的事実とユートピア的幻想を区別できないでいるということである。自由市場という1つのモデルに基づいて世界の多様な経済をすべて作り変えることは不可能であるということはわかっていたはずである。世界の文化が多様であるのと同様に、その経済も多様であるということは自明の理である。経済システムはどれも不完全であって、すべてに適用できるものなど存在しない。1つのシステムを普遍化しようとする試みは理想とはもっともかけ離れた結果をもたらす。それにもかかわらず、自由市場が全世界に適用できる、すべきだという幻想はしばらくの間、新自由主義右派だけでなく中道左派の中でも、その思想が健全かどうかを判断するリトマス試験紙となっていた。

 自由主義の記憶が薄れた20世紀末に、逆にそれを求める政治的な熱狂が高まった。ビクトリア朝中期の自由放任主義は短命だったのである(中にはそのような事実はなかったとまでいう歴史家もいる)。イギリスの自由市場はゆっくり進化したのではなく、国家権力の継続的な後押しにより急速な勃興を遂げた。囲い込み政策、救貧法の制定、穀物法の廃止によって、一部の人しか代表しない議会は土地、労働者、そして穀物を日用品に変えた。しかし、参政権の拡大につれて一般の国民のニーズが政治に反映されるようになり、民主的な政治競争の自然な働きの結果、自由市場は徐々に衰退していった。こうして第一次世界大戦が始まる頃には、経済は再びその大部分が規制されることになったのである。

 19世紀のイギリスにおける自由市場の短い歴史は重要な真実を物語っている。それは、民主主義と自由市場は拮抗するものであって、同調するものではないということである。新保守派がむなしく標榜する「民主主義的資本主義」というスローガンは、深刻な問題をはらむ関係を示唆(または隠蔽)しているのである。通常、自由市場によってもたらされるのは安定した民主的な政治ではなく、経済不安を伴う、必ずしも民主的ではない不安定な政治である。

 歴史は同様に重要な次のような事実も示している。自由市場経済には安全装置があらかじめ組込まれているわけではないということである。政府に有効な統制機能がないために、自由市場経済は好景気と不景気の循環をもたらすことになり、それによって社会的な結束と政治的安定が犠牲になる。ある意味で大恐慌は第一次世界大戦の余波であったともいえる。第一次世界大戦でロマノフ王朝とハプスブルグ家の帝国が倒れ、ヨーロッパの力の均衡が崩れたためである。また大恐慌が起きたのは、インフレさえ起きなければ経済は自己統制に任せておけるとする通説に政府が固執した結果でもあった。インフレよりもデフレ危機の方が深刻であった1930年代、この通説が大恐慌を引き起こす処方箋となった。そして、ジョン・メイナード・ケインズが経済統制のための提案を行ったのは、ちょうどこの通説によって景気低迷と政治的混乱が悪化した時であった。しかし、第二次世界大戦という破局を迎えるまで、各国政府がその提案を採用しようとすることはなかった。

 重要な点において数多くの違いはあるものの、今日の状況と2つの大戦の間の期間とには奇妙な類似点がある。今も当時も、激変する地政学の変化の影響に世界は対応できないでいる。ソ連の崩壊は当時西側の新自由主義者が考えたような民営化政策の勝利によるものではなかった。この世界的、かつ歴史的に重要な出来事が起こった時にこそ、西側からの創造的で明瞭な対応が必要であった。しかし残念ながら、1920年代だけでなく1990年代においても、世界の大国の1つが崩壊したことが未熟な教義と傲慢さを露呈する機会を提供することになったのである。

 ロシアに自由市場を押し付けることは破滅的な結果をもたらした。インフレの統制を何よりも優先させたために経済は半分に縮小し、平時にある先進国の間に初めて見られた現象をもたらした。またこれによって極度のインフレが避けられないものとなり、二度目の政権交替の可能性はますます高くなった。次のロシアの冬に出現する新政府は民主主義の姿をしていたとしても独裁主義であり、またある程度反西側であり、西側の経済的総意によってロシアに課せられた政策から逃れようとするであろう。これらはありえないことでも、また仮定でもなく、ほぼ確実に起こり得ることである。

 ロシアにおける経済危機は世界的な自由放任主義が崩壊する最初の兆候であり、また東アジアは少なくともここ1年間、世界経済に極度の不安があるという信号を発してきた。西側メディアに共通した勝ち誇ったような説明や、しばしば人種差別を伴う解釈とは裏腹に、アジアの不況はアジアの資本主義の危機を表しているのではない。そうした意味では、アジア経済はそれぞれ大きく異なっている。むしろアジア危機は、世界的な資本主義が急速に破滅に向かっていることを示している。タイ、インドネシア、韓国で状況はそれぞれ異なるが、無統制の資本の流れはアジア諸国に永続的で深刻な被害を与えることになった。その影響は今や中国にまで及んでいる。こうした無節操な資本移動は、また他の地域、特に中南米を不安定にさせる危険性をもはらんでいる。アジアの経済危機は縁故資本主義というアジア固有の状況がもたらしたとする神話は、もはや米国においてすら信じられていない。

 実際、世界的な経済危機はその初期において、新興市場から優良品、つまり米国への資本逃避がウォール街の活況をもたらしたことによって、米国の好景気を長引かせるのを助けた。米国市場が少なくとも自国の脆弱性を認識し始めた今、6,500万人から7,000万人という米国の個人投資家の間では全面的なパニックが現実となる可能性が高い。[『ビジネス・ウィーク』誌によれば、71%の米国家庭は株をまったく所有せず、また所有するすべての富の価値は2,000ドル未満である。最上位25%の家庭は、株式全体の82%を所有する。]しかし、米国の政治家は現在、大統領の不倫揉み消し疑惑に気をとられている。1930年代同様、世界経済の危機は国際社会に実質的な指導者がいなくなった時に起きるのである。

 米国市場が内側に向けて破裂すれば、世界と米国の関係に歴史的な転換がもたらされるだろう。米国の自由貿易への傾倒は長くは続かない。米国の長い歴史から見れば、自由貿易の信奉は一時的な脱線に過ぎない。多くの米国民がこれまでにないほどの富を株式市場に投じているため、ウォール街が下落し続ければ未曾有の深刻な経済的影響がもたらされる。ルーズベルトの時代に生まれた社会保障制度が取り払われてしまった現在、失業率は必ず上昇する。それに伴って米国の保護主義が復活する可能性はかなり高い。

 社会保障制度が充実していない国家が経済的な困難に陥ると、保護貿易政策に走る傾向があるというのは、経済史の通説である。クリントンが福祉「改革」を実施したのは、「新パラダイム」を核とする経済学に基づいてのことだった。その新パラダイムとは、終わりなき好景気は雇用の継続的な創出を保証するというものである。社会保障を奪われた多くの人々が今にも職を失おうとし、大半の中流階級が苦境に直面している状況の中で、米国が経済面で国粋主義に戻るのはそう先のことではないはずである。

 米国が世界に押し付けようとしてきた「ワシントンの総意」を自ら捨てるだろうと予測されるのは、いかにも皮肉である。米国による帝国主義的な自由放任主義の試みは、株式市場のバブル化を地政学的に表すことになった。このバブルに風穴があいた今、米国の経済モデルを褒め称える話をこれ以上聞くことはないであろう。

 世界が不景気に突入することは、イギリスのブレア政権にとって不吉な前兆となる。今のところブレア政権は超正統派の財政・金融政策と平行して干渉主義的な労働政策をとることによって目覚しい成績を上げている。経済が上昇向にある限り、新労働党に見られる、新自由主義的マネタリズムとルーズベルト式新ニューディールの間の矛盾は大きな問題にはならない。しかし、もしイギリスの景気後退が政府予測よりも深刻かつ長引くようならば、政治的緊張は爆発するであろう。

 初めて労働党に投票した人が政府を支持し続けるかどうかは、経済面における政府の手腕を彼らがどう評価するかによって決まる。ユーロに対する懐疑心を再燃させることに忙しく、労働党よりもずっと自由市場主義に感化されているトーリー党は現在のところ深刻な脅威ではない。ただし、だからといって労働党が必ず全任期にわたり政権を維持できるということではない。

 新労働党が辿っているのは、中道左派政権が機能しない経済の通念にしがみつくことによって統制力をなくすというお決まりのパターンである。大失策を防ぐのは今からでも遅くはない。政府は英国の中央銀行の金融政策委員会が金利を決定する際に、インフレだけでなく雇用を考慮できるよう権限を改定すればよい。日本の例が示すように、低金利政策そのものは危機の解決にはならない。しかし、銀行の権限を改めれば、物事に柔軟に対応できる力を与えることになる。

 資本が自由に移動できる時代はそう長くは続かない。反動的な保護主義の台頭という悲惨な可能性に唯一とって代わるものは、新しい規制体制に向けた国際協調の動きであろう。

[『The Nation』誌(1998年10月19日号)より許可を得て翻訳転載]