No.247 米国帝国主義の恥辱である沖縄

今回は、米軍が沖縄の基地をこれまでどのように利用してきたかについての日本政策研究所所長のチャルマーズ・ジョンソンの記事をお送りします(日本政策研究所のホームページ → http://www.nmjc.org/jpri/ )。日本の主要マスメディアには登場しない情報も含まれています。沖縄問題を再検討するためにも、是非お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

米国帝国主義の恥辱である沖縄

チャルマーズ・ジョンソン

 日本領土に米軍基地がなければ、米国はアジア共産主義に対する2つの戦い、朝鮮戦争とベトナム戦争で戦うことができなかったであろう。日本の米軍基地は、米国の軍事力を展開するために重要な部隊集結地かつ兵站地であった。そこは安全な避難所でもあり、北朝鮮、中国、ベトナム、カンボジア軍のいかなる攻撃からも守られていた。多数の米軍関係者が安全かつ快適に暮らし、そこで米兵はいわゆるR&R(休息と娯楽)を享受していた。1965年、太平洋軍最高司令官のグランド・シャープ提督は次のように語った。「沖縄の米軍基地がなければ、米国はベトナム戦争で戦うことはできなかった。しかし、もし日本の領土を拠点に戦争を仕掛けてもよいか日本に許可を求めていたとしたら、日本側は拒絶したであろう」

 しかし、朝鮮戦争とベトナム戦争では、日本からそうした許可を得る必要はまったくなかった。朝鮮戦争が勃発した1950年当時、米軍はまだ日本全土を占領していた。1952年のサンフランシスコ講和条約によって日本本土の主権は回復したが、沖縄は1972年まで米軍所有の軍事植民地として占領、統治され続けた。朝鮮およびベトナム戦争によって1969年までには117の軍事施設が沖縄に建設された。そのほとんどが、いかなる国の市民権も法的保護も、その他何の権利も持たない、完全に無防備な住民から強制的に奪った土地であった。ベトナム戦争たけなわの頃、B-52、バーや売春宿、神経ガスの保管、米兵による犯罪などに対して沖縄住民が抗議を行った結果、米国は沖縄を日本へ返還せざるを得なくなった。しかし、返還後も米軍の沖縄における存在そのものにはまったく変化はなく、あえて変わったことを挙げるとすれば、米兵が自分の行動を正当化しなければならなくなったことである。米兵が1972年以降、現在にいたるまで継続してきたことは、米国の偽善、虚偽、強欲がいかに言語道断なものであるかを象徴している。

 米国のこうした行動パターンはクリントン政権のもとで不面目にも最高潮に達した。冷戦の終結によって、沖縄県民を苦しめてきた日常的な侮辱行為も終わりを告げるのではないかと思われた。しかし実際には、冷戦の終結後、米国は米軍基地の存在を必要だと思わせる新たな「脅威」を捏造し始めた。こうして日本を永久に米国の衛星国とし、米国はその帝国主義的自負によって日本国民を保護し、その保護の任務にあたっているのが米軍の若い兵士たちであるとこじつけたのである。

 一方、1998年7月17日ローマにおいて、第二次世界大戦中のナチス、カンボジアのポル・ポト、さらにイラクとその周辺国におけるサダム・フセインに匹敵する残虐行為を行った国を裁くために、国際刑事裁判所を設立することが120対7で採択された。世界の主要な民主主義国家であるイギリス、カナダ、ポーランド、フランス、日本、ドイツなどはこの「国際刑事裁判所」条約に賛成したが、リビア、アルジェリア、中国、カタール、イエメン、イスラエル、米国が反対票を投じた。なぜ米国は反対したのか、その言い分は、世界各地の紛争地域に派遣された米軍兵士が政治的動機に基づく訴追を受けることを懸念してということであった。しかし、本当の理由はおそらく、沖縄における米軍の行動の中に見い出せるであろう。

インドネシアとの関係

 1998年5月13日から15日の3日間で1,200人近くが殺害されたジャカルタの暴動が原因で、米国の加護を受けるインドネシアの暴君、スハルト将軍が辞任に追いやられた。暴動では、少なくとも168人の中国系の婦女子が最大10人の男からなる複数の組織集団に強姦され、そのうち20人は強姦中あるいはその後に死亡したことが明らかになっている(『ニューヨーク・タイムズ』紙、1998年7月20日)。さらに、男達は車に乗ってジャカルタ市内を移動し、民衆を暴動に駆り立てたという。多くのインドネシア人はこれら一連の行動が、軍隊とその秘密治安部隊(レッドベレーとして知られる4,800人の強力なゲリラ隊KOPASSUS)によるものとみなし、彼らに非難の矛先を向けた。暴動の数週間前に特殊部隊が反政府活動家の失踪に関与していることを公に認めたことから、国民が彼らと暴動とを結び付けたのであった。

 ABRIと呼ばれるインドネシア軍は、人口世界第四位のインドネシアにおいて米国が望む反共産主義政権を支持するために、長年米国の外交政策の手先となってきた。1965年、スハルト将軍が政権に就くまでの過程で50万人もの人々を虐殺した時、米国は共産主義者のリストを提供することでABRIに協力している。さらに、1975年12月7日に行われた東ティモールへのABRIの侵略およびその後の20万人の東ティモール人の殺害について、米国務省は1996年の人権報告書に「司法権の及ばない殺人」と記し、ABRIの行為を容認した。そして、1997年の経済危機がインドネシアに波及し、IMFの救済策によって、76才のスハルトが米国にとって用をなさないことが明らかになると、米国はABRIの支持・強化によりインドネシア内部の支配を維持する政策をとり続けた。

沖縄との関係

 インドネシアは国外に敵がいない。インドネシア軍はほとんど国内の安全保障にだけ終始している。スハルトが政権に就いていた大部分の期間、米国は積極的にABRIの特殊部隊を訓練し、高度な狙撃作戦や白兵戦、牽制デモ、心理戦など、ありとあらゆる強力な戦術を教えた。CIAと国防情報局は長い間、ABRIと緊密な関係を維持してきた。ABRIは拷問、国家テロリズム、暗殺などにも多く関与してきた。1991年11月12日に東ティモールの首都、ディリでABRIが271人を殺害した後、米議会は「訓練」に対する資金援助を打ち切ることを決めたが、インドネシアへの武器輸出は続けている。

 ABRIの訓練に対する国としての資金援助は米議会が中止の決定を下したにもかかわらず、国防総省は共同訓練(JCET)として知られる、忘れられた軍事援助プログラムと称して、訓練をさらに拡張させ、継続した(詳しくは『ネーション』誌、1998年3月30日、4月6日、6月15日の各号を参照のこと)。1995年以降、その共同訓練では少なくとも36の演習が行われ、完全武装した米戦闘兵(グリーンベレー部隊、空軍ゲリラ隊、沖縄からインドネシアに派遣される海兵隊)が加わった。

 1998年5月22日、日本の衆議院外交委員会の会議で、議員の1人が外務省の高野紀元・北米局長に対して、沖縄に米軍を駐留させ続けていることへの新たな言い訳について追求した。その議員は、米軍が本国へ戻らないようにするために日本政府はインドネシアの混乱を利用しているとし、さらに民主主義の呼びかけのもと自国民を威嚇、抑圧するインドネシア軍を訓練したのは、沖縄のトリイ基地に駐留する第一特殊部隊群であるとも指摘した。それに対する高野局長の答弁は、「米軍はアジア太平洋地域の平和と安定に貢献している。米軍が様々な国の軍隊と交流することはあり得る」というものであった。

 沖縄に貯蔵されていたサリン神経ガス(米国防総省はラオスで神経ガスが使われたことを否定した時、1971年まで沖縄に神経ガスが貯蔵されていたことを認めた)や、中国系の女性に対する威嚇手段として強姦を行うインドネシアの特殊部隊の訓練などに対して、戦争犯罪に関する国際刑事裁判でいつか訴追されるのではないかと米国が危惧するのはもっともである。東アジアにおいて唯一、真の平和主義文化の歴史を持つ沖縄県民にとっては、こうした活動が自分達の領土で計画され実行されているという事実そのものが、道義的な苦痛を感じさせる原因となっている。日本国民全体にとっても、それを容認し続けなければならないことは恥辱であろう。

[Social Science Japan” 誌(November