No.248 日本的“談合”を守ろう

とかく批判の多い日本の“談合”というシステム。アメリカの新聞や雑誌、テレビの経済番組などでも“Dango”という言葉はしばしば登場するようになりました。私自身は日本の談合が決して悪いとは思っていません。談合以外にも日本古来の良い制度は数多くあります。欧米型のシステムを導入したがために数々の弊害がもたらされている日本社会。失業問題をはじめとする多くの問題を抱えた欧米のいいなりになっていたのでは、私の大好きな日本はこのまま欧米社会と同じ悲惨な運命をたどることになってしまうでしょう。今こそ日本古来の良い制度を見直すべき時なのではないかと私は考えています。今回は、現在の日本に対する私の考え方について触れた、『Venture Link』誌(1999年2月号)への掲載記事をご紹介します。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

日本的“談合”を守ろう
『Venture Link』誌(1999年2月号)より

日本人は農耕民族である。だからもともと「競争」という観念はなく、皆が同じ場所で生活し、農作物を育て、暮らしの技術を育んできたのである。

こうした社会にあっては、「自分の方が強いから取り分を多くしろ」などという、弱肉強食の発想は生まれてこない。ともに働いて収穫を分け合うことが原則である。

一方、狩猟民族である白人は農作物を育てず、獲物を捕って生活していた。だから同じ場所に定住し、同じ仲間と長い間生活するということもあまりなかった。

時代の変化とともに彼らもある定まった場所に住居を構え、生活を営むようになる。しかし彼らはもともとが狩猟民族なので、より豊かな生活をするためにはよそのテリトリーに進出し、略奪した方が手っ取り早いと考えた。

そして白人はモノを奪う手段を正当化する、実に都合の良いシステム、資本主義をつくり上げた。海賊となって略奪を繰り返し多くの財を築いてきた彼らは、自分たちの金を効果的に使うために、今度は資本家となって他人の土地を占領しその土地の人々を搾取した。その結果、それまでは皆で共有していた土地がひとりのものになってしまった。つまり大地主の誕生である。

彼らは土地を、「神様が皆のためにくれた大地」とは考えず、「ここは自分のもの、そこはお前のもの」と各人の所有物にし、売買の対象とした。土地を売買するようになると、資本家はやがて人間や水まで売買の対象とし、なんでも市場に任せ、すべてを競争の結果で決めるようにしてしまった。

こうした考え方が非常に強いのが、資本主義発祥の地であるイギリスと、現代の資本主義を象徴する国であるアメリカである。
もちろん彼らもいまでは人間を売買したりはしないが、競争こそ正義、とこだわり続けていることには変わりがない。

自由競争のデメリット

しかし農耕民族であった日本も、資本主義が入ってきてからは徐々にイギリスやアメリカに近づいてきている。この点に、私は大きな気がかりを感じている。

日本人はもともと農耕民族で、お互いに助け合って一緒にやってきたのだから、競争ですべてを処理しようなどと考えずに、皆の仕事を皆でカバーすればいいのである。皆で役割を分担し、つくったものを皆が納得できるように配分すればいいのだ。

そのひとつのやり方が、談合だと私は考えている。

意外に感じる人もいるかもしれないが、私は談合を悪いどころか、弱者を救うとても良い制度だと思っている。

その分野に強い会社が自分たちで役割分担を決め、自分たちの納得のいく形で売上げを分配するのが談合というシステムだ。

たしかに受注は独占的になり、受注価格も自由競争で発注するより若干高くなるかもしれない。しかし、いくらか値段が上がっても、最強の1社にすべてを発注するのではなく、相談のうえで弱い会社にも仕事を回すのが、日本的な考え方だと感じるのである。

やや受注価格が上がってしまうのは、競争力のない会社を守り、雇用を維持するためのコストだと考えれば、それほど不合理なことではないと私は思う。

しかし世間では、この談合のマイナス面ばかりが取り沙汰されている。

例えば、「談合のグループに入れればいいが、入ること自体が難しい。ほかの業者のチャンスを奪っているのはけしからん」という批判がある。だがよく考えてみればそんなことは当然である。

国会にしても、選挙で当選しなければ議員にはなれないし、新人よりも現職の方が当選しやすい。商売に関しても、新参よりはなじみの業者から製品を買う人が圧倒的に多いはずだ。談合だろうが自由競争だろうが、実績や信用がなければ大変なことに変わりはないのである。

だから談合に批判的な人たちは、すべてが自由競争になった場合のデメリットを考えてみると良い。

イギリスやアメリカのように完全競争にしてしまうと、昨今のような不景気ではあちこちの会社がつぶれてしまいかねない。強い会社が仕事を取れるだけ取ってしまう一方、まったく仕事が取れない会社も出てきてしまうからだ。

その点、談合では強い会社でも仕事をむやみに取り過ぎることはしない。自分たちが全部の仕事をこなす力があっても、仕事の一部を弱い会社に回すのが談合だから、一緒にやっている人たちは長期的に円満な関係を保つことができるのである。

中央集権型行政の無駄

「談合の最たるものは公共工事であり、談合で値段を決めるからいくぶん割高になり税金を余分に使うことになる。国民の税金を一部の業者のためにたくさん使うのはおかしいではないか」という人もいる。

しかし私は、より問題が大きいのは談合ではなく、税金を使う仕組みそのものだと考えている。仕組みがおかしいため、「税金は本当は誰のものなのか」が役人にわからなくなっているのだ。

税金を都道府県単位で集め都道府県単位で使えば、使う役人も「自分たちの金を使っているのだ」という認識を多少なりとも持つだろう。

しかし現在は、全国から税金を集めておいて、その使い道を決めるのは霞ヶ関の役人たちという形になっているため、国民との距離が離れすぎてしまい、「国民の金を使っているのだ」という認識が限りなく薄らいでしまっている。発注サイドの税金に対する感覚がマヒしているため、その使い方がどんぶり勘定になってしまい、多少高い値段でも「まあ、いいか」ということになっているのだ。これは別に、談合のせいではない。

日本は中央集権型でここまでやってきたが、必要のないところまで集中管理している。そこを変えれば公共工事の値段も少しは安くなるのでないかと私は思う。

こうした霞ヶ関による集中管理の弊害のひとつが「天下り」である。この弊害をあたかも談合という制度によるものだという向きもあるようだが、談合のない、自由競争社会のアメリカにおいても、天下りはある。

例えば、陸海軍などのお偉い方の中には、軍をやめた後、軍用機をつくっている会社に再就職する人たちが少なくない。また、天下りではないが「回転扉」というものもある。ウォールストリートの人間が内閣に入り、またウォールストリートに戻っていくのだ。その結果、例えば、IMFなどがウォールストリートの道具に成り下がってしまっている面を否定することはできない。

一見、談合によるマイナス面と思えるものでも、そうではないことが多い。談合、談合という前に、その悪弊を招いているシステムを変えることが先決だといえるだろう。

「良い社会」に目を覚ませ

優秀な人は自力でやっていけるのだから、彼らの生活は基本的に心配しなくていい。国民の幸福を目指す社会の責任とは、いかに弱者を保護するかなのだ。

アメリカでは3,900万人もの人たちが貧困にあえいでいる。自由競争によって、多くの人たちが落ちこぼれ、苦しんでいるのだ。

そこへいくと、日本は談合や社内失業の容認などで、弱い立場の人間を保護し、能力が平均以下の人でも幸せに暮らせる社会をつくり上げてきた。しかも、生産性はアメリカの1.3倍であり、技術力は高く、寿命は世界一長く、乳児死亡率も非常に低い。日本はどの基準をとってみても、「良い社会」なのである。

であるのに、なぜ他国からいわれたことにすぐ反応してしまうのか。規制緩和にしろ、談合にしろ、日本はこれでうまくいっている。

談合している人たちも、悪いと思っていればやっていないはずだ。内心で良いことだと思ってやっているのだろうから、もっと堂々と主張すればいいのである。

日本のやり方を学ぼうともせず、自分たちだけが正しいと思っているアメリカのいいなりにばかりにならずに、戦うことも大切だと私は思う。

[『Venture Link』誌(1999年2月号)より許可を得て転載]