No.249 イギリスに見るビッグバンの失敗(前編)

 私は政府自民党がいわゆる「金融ビッグバン」を実施したのに大変驚かされました。ビッグバンは日本経済を崩壊させ、記録的な倒産、失業、経済苦が原因の自殺を招いています。自民党が日本の金融業界に対する規制のほとんどを撤廃するこの政策にサッチャーと同じ「ビッグバン」という名称をつけるのであれば、少なくともイギリスがビッグバンでどのような影響を受けたか検討するだろうと期待していました。そうすれば、ビッグバンがイギリスの産業や経済をいかに麻痺させたかに気づいたはずです。日本のマスメディアもイギリスの状況がどうなったかを国民にきちんと知らせていません。そこでOur Worldの読者のために、私がここでそれを試みようと思います。

 今回と次回のOur Worldでは、ウィル・ハットンが1995年に著した『The State We’re In』(ランダム・ハウス刊、1995年)からの引用を紹介します。1979年に政権に就いたサッチャーが、1986年にビッグバンを開始してから、イギリス経済がどのように崩壊していったかに関する事実を拾ったものです。

 株式仲買人からジャーナリストに転じたイギリス人、ウィル・ハットンは、現在、英『オブザーバー』紙の編集長を務め、ブレア政権の経済政策に影響力を持つエコノミストでもあります。『デイリー・ヨミウリ』紙(1998年2月24日付け)によればハットンは、スキャンダルにまみれた日本の大蔵省は経済界や金融界の要求を理解していないと見ており、また日本版ビッグバンによる金融市場の規制緩和については、日本の見識を疑問視するとしています。是非お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

イギリスに見るビッグバンの失敗(前編)

ウィル・ハットン
(ランダム・ハウス刊、1995年より抜粋)

 過去20年間、失業はイギリス人の生活の厳然たる事実になり、特に男性に厳しい状況を強いてきた。公式統計に示される働きたくとも働き口が見つからない人に加えて、定年前に退職したり、不十分な貯蓄や疾病手当てで食いつないでいる、社会から取り残された人々が何百万人も存在する。イギリス人男性の労働人口の4分の1は公式な失業者か、または仕事がない状態にあり、それが英国の安寧と社会の結合に無数の影響を及ぼしている。貧困者の数は恐ろしいほどのレベルにまで増加し、家庭崩壊から犯罪の増加まで様々な社会不安の兆候が日毎に増大している。

 1994年、イギリス最後の自動車会社がドイツに身売りした。かつて世界の工場であったイギリスは、経済力でドイツ、フランス、イタリアに続くヨーロッパ第4位に後退し、業種によってはスペインにも抜かれた。イギリスの子供の3人に1人は貧困である。1991年の時点で、21才のイギリス人の5人に1人は計算ができず、7人に1人は読み書きができない状態であった。また、囚人数はヨーロッパでもっとも多かった。

 イギリス人は「私たち」対「彼ら」という新しい世界で暮らしている。成功した国家に属しているという意識はほとんど消え、平均的な生活水準は向上したかもしれないが、安寧という意識は作り出されていない。あるのは膨らむ不満だけである。利益の分配が極度に偏っている。国家は分断され、傲慢なトップ層は自分が命令を下す、下の階層の人々に対してまったく無関心である。特権階級は教育、職、住宅や年金等、すべてにおいて恵まれている。逆に最下位に属する人々は、自分たちは新たな働く貧困層、または準貧困層であり、その日暮らしであることに気づき始めている。この状況から抜け出すための道は、世界がより厳しく、腐敗するにつれて閉ざされている。トップ層と最下位層の間の中間層では、恒常的な「ダウンサイジング」「コスト削減」「臨時雇い」の時世にあり、多くの人々が職が不安定で失業の恐れを抱いており、さらに多くの人はまともな暮らしが維持できるかどうかを心配している。

 1979年までの20年間、イギリスの平均成長率は2.75%であった。1994年までの20年間では、それは2%強に下がった。同時期、イギリスの国際貿易における位置づけと競争力も衰退した。1983年にイギリスの製造業の貿易は産業革命以降初めてマイナスに転じ、1990年にはヨーロッパ諸国の中で唯一の商品貿易赤字国となった。

 労働者一人当たりの株式資本があまりにも低いために、将来的には赤字はさらに拡大する見込みである。1980年代、イギリス民間企業の研究開発費がGDP(国内総生産)に占める割合は減少した。研究開発費の世界上位200社に登場したイギリス企業はわずか13社だけであった。さらに、研究開発費が売上に占める割合の世界平均が4.85%であったのに対し、このイギリス企業13社の平均はわずか2.29%であった。

 イギリス企業において圧倒的に優先されるのは金融面である。例えば、1980年代の製造業の年間投資増加率2%、収益増加率6%に対し、同時期の配当金増加率はなんと12%にも上った。世界の上位200社の平均では研究開発費が配当金の3倍なのに対し、イギリス企業に限ると研究開発費は配当金のわずか3分の2であった。

 イギリスの製造設備の25%は外資が所有し、イギリスの労働人口の16%を雇用している。イギリス企業は縮小や、余剰労働者の解雇、合理化ばかり行っている。

 製造業の株式資本が縮小する一方で、金融サービス、消費者関連産業への投資は急増した。イギリスでは生産、輸出が減少しているのに対し輸入は増加しており、貿易赤字が示すように製造が減少する中で消費が増加している。

 高収益を求める株主の要求を満たそうと、企業は労働市場の規制緩和を利用して、臨時雇いやパートタイマー、その他柔軟な労働形態の採用をますます増やし、需要の変化に応じたコスト調整能力を高めている。正社員または安定した自営業者は労働人口の約40%に過ぎない。30%は不安定な自営業か、不本意なパートタイマーあるいは臨時雇いである。さらに残り30%は、社会から取り残され、無職か、貧困賃金を余儀なくされている。

 1980年代に先進工業国の中で製造品の生産量の伸びがイギリスより低かったのはフランス、ギリシャ、ノルウェーだけであった。GDPに占める製造投資の割合は1980年代に継続して減少した。これは1960年以降認められる傾向だが、激しさを増している。1960年以降、先進工業国の中で製造業における雇用者の減少が最も大きいのはイギリスで、1980年代には特に雇用の減少が激化した。

 1979年から1993年の間に製造投資が1979年のレベルにまで上がったのはわずか2年だけであった。1993年の製造業の生産高は1979年よりわずか5%多いだけであり、株式資本の減少を考えると大幅に上昇する見込みは将来的にもほとんどない。労働者の生産性を上げるであろう機械、建物、技法といったものを見ても主要競争相手国のどこよりも古く、また小規模である。例えば1989年、労働時間当たりで、ドイツの製造業ではイギリスよりも約30%多く機械を利用していた。1970年には、その数字は15%であった。またドイツの熟練労働者の数はイギリスの2倍である。換言すれば、イギリスの業績について投資の低さを考慮しない説明は明らかに不適当である。

 労働に対する新しい経済性偏重主義は、高い給与への期待のみが高い生産性をもたらすと信じて、給与と業績を執拗に結びつけることになる。しかし実際は、労働力調査研究所の調べによれば、給与と業績を結びつけるとモラルが低下し、労働者のコミットメントを弱め離職率増加をもたらすという結果が出ている。同研究所が示した3つの企業における1,000人以上の労働者を対象とした調査では、成功の鍵は、労働者が自分たちの給与の元となる業績評価を行う管理者をどの程度信頼しているかにかかっているという。労働者が業績評価方法の設計に関わる度合いが高ければ高いほど、また上司に対する信頼が高ければ高いほど、社員の業績は向上した。したがって、給与を業績に連動させるということはそもそも労働者を部品と見なすことから始まるが、この制度の成功の鍵は、労働者に作業過程にまで十分関与させられるかにかかっているという矛盾が存在する。信頼や関わり合い、そして公平さがあってこそ、業績ベースの制度が成功するのであって、経済的な価値観が先行すれば失敗に終わる。

 社会は我々の眼前で分断し、労働者の中に新しい社会の亀裂が生じている。不利な立場にある労働人口30%の中には失業手当をもらえなかったり、職探しを諦めたために政府の統計に入っていない400万人以上の失業者が含まれていた。この30%の失業者の子供たちは食物も十分に与えられず、家族はストレスにさらされ、文化的な設備を利用することができない。これらの人々は絶対的に不利な立場にある。

 次の30%の人々は社会から取り残された不安定な人々である。このグループは収入によってよりも、むしろ労働市場との関係によって特徴づけられる。年金や有給といった福利厚生や、職の安定が保証された正社員ではない人々である。この範疇の人々は不安定で保護が薄く、福利厚生がほとんどない。イギリスの企業や工場に吹き荒れる変化の嵐にさらされ、最も大きな影響を受けているのがこの範疇の労働者であり、増大し続けるパートタイマーや臨時雇いがここに入る。現在500万人以上がパートタイマーとして働き、200万人は労働時間が1週間に16時間以下で、正式な雇用の保証はまったくない。例えば、不当解雇に対して訴える権利を持たない。そして新しいパートタイムの職の70%が週16時間以内の労働となっており、労働人口全体に対する保証はますます減少している。

 最後のグループは恵まれた人々であり、1979年以降、この労働人口の40%をわずかに上回る人々の市場における影響力が増大してきた。2年以上職に就いている正社員および自営業者であるが、このグループもまた富裕者と貧困者に分けられる。正社員労働者の35%は中間賃金の80%に満たないが、給与が安定しているということで、生活水準が低くても比較的恵まれている人として定義される。しかし正社員の数は年々減少し、新たな労働市場は、これら恵まれた人々の上にも暗い影を落としている。1975年には成人人口の55%が正社員で終身雇用の職に就いていたが、1993年にその割合は35%に減少している。週40時間働く正社員はもはや少数派となった。

 こうした労働市場の分裂こそ、イギリス社会の新たな醜い部分を形作っている。失業者に新たに提供される職の3分の2はパートタイムか臨時雇いであり、不安定な30%の労働者のうち、正社員に移行できるのはわずか10%である。そして50~60%の人は再び失業する。

 イギリスの全労働者人口の半分以上が貧困レベルの所得で暮らしているか、または恒常的にストレスを抱えた不安定な状態で生活しているという事実は、社会全般に悪影響を及ぼしている。これらの状況下では、まともな賃金を得るために労働時間が増える一方なので、子供の世話どころか結婚生活を続けることも難しくなっている。イギリスの離婚率は欧州一高く、労働市場は最も規制緩和が進んでいる。この2つの要因は密接に関連している。

 1990年半ばには、規制緩和された米国労働市場の最悪の特徴をイギリスがすべて取り入れたことが明白になった。サッチャーのプログラムは社会に対して多大の負担を課し、目に見える利益をほとんど生み出すことなく民主主義を弱体化させた。

 GDPに占める株式の配当金の割合は1980年代に倍になり、1990年~92年の景気後退期においても上がり続けた。1989年から1993年の5年間で、配当金は実質合計で7%増加し、設備投資は14%減少した。1994年の利潤はGDPの約17%と戦後最高になったが、GDPそのものが不況以前の水準に戻ったに過ぎない。

 1995年、もっとも貧しい10%のイギリス人は、総収入の約20%を間接税に奪われ、その一方で富める10%の国民が間接税として支払う割合は総収入の8%に過ぎない。

 政府は公共部門への資本投資を削減し続け、今では蓄積されてきた公共投資が食いつぶされるのをかろうじて止めているに過ぎない。国民一人当たりの鉄道への投資額はヨーロッパ平均の3分の1、道路への投資額はヨーロッパ平均の70%である。1995年までに公共部門の純資産は戦後最低となるだろう。

 社会保障費は1979年のGDPの9.5%から1992年には12.2%に増加した。社会保障費の驚くべき増加は、社会保障が厚くなったためではなく、貧困の中で生活する人々の数が急増し、社会保障受給者が劇的に増加したためである。1979年には700万人だった社会保障による所得援助の請求者は、1993年には1,100万人となった。

 日本、フランス、ドイツが売上の1~2%を社員教育に費やしているのに、イギリス企業のその割合はわずか0.15%である。

 男性の正社員数は1977年以降、20%減少している。

 1979年以降、ホームレスの数が減少した年は1年もない。1994年のその数は20万人で、1979年の3倍である。ホームレスの3分の2は子持ちである。

 1980年代、所得格差が広がるにつれて、平均寿命は低下した。所得配分がより公平な他のヨーロッパ諸国はイギリスよりも平均寿命が2年長い。

[『The State We’re In』(ランダム・ハウス刊、1995年)より抜粋翻訳]