No.250 イギリスに見るビッグバンの失敗(後編)

 イギリスでは、1986年にサッチャー政権の下で金融ビッグバンが始動されました。今回はそのビッグバンがイギリスにどのような影響を及ぼしたか、前回に引き続き英『オブザーバー』紙の編集長ウィル・ハットンの著書『The State We’re In』(ランダム・ハウス刊、1995年)からの引用をお送りします。ここに引用した情報によって、日本がイギリスと同様の間違いを犯し経済に破壊的打撃を与えていることに読者が気づいてくれることを期待しています。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

イギリスに見るビッグバンの失敗(後編)

ウィル・ハットン
(ランダム・ハウス刊、1995年より抜粋)

 1979年から政権を掌握した保守党のマーガレット・サッチャーは、新しい断定的な自由主義経済学者が述べる自由市場の万能薬の採用によって、イギリスの資本主義再生を目指した。彼らの主張は、イギリスはアダム・スミス時代の真実を再発見しなければならない、国家は昔を思い出さなければならない、適切な市場の見えざる手がその実体を表すことになる、というものであった。そしてあっという間に、それがインフレの抑制、競争力の増加につながるはずだった。

 サッチャー政権のこの哲学一辺倒により、国営企業はほとんどすべてが民営化され、労働組合が効果的な争議を起こすことは難しくなり、組合員数は劇的に減少した。住宅や産業への公共投資は大幅に削減され、唯一許されたインフレ削減手段として、金利は前例のないほど高く押し上げられた。金融制度からはほとんどすべての規制が取り除かれ、他の分野においても多くの規制が撤廃された。最高所得税率は83%から40%に、最高法人税は52%から33%に引き下げられた。

 サッチャーの市場主義の実験に対する評価は、悪くて否定的、良くてせいぜい否定的見方と肯定的見方が混在するものである。経済は獰猛にゆれ動き、1980年代初期の深刻な景気後退、それから持続不可能な好景気、そして次に慢性的な第二次景気後退に突入した。この激しい動きによって経済管理に対する信頼性が失われ、産業界は新しい投資に慎重になった。欠点だらけの論理モデルに基づく市場の原則が次々に適用されていったが、社会に対してまったく利益を提供しなかった。

 貸付の規制緩和により、イギリスでは未曾有の貸付ブームが生まれた。その結果、所得税減税ともあいまって個人消費が年間6%の割合で3年間連続して増加した。しかし、製造業の株式資本が縮小する一方で、貸付ブームで生まれた支出に合わせて急増したのは金融サービスや消費者関連産業への投資であった。

 自由主義市場経済学の予測の下では、最高税率を下げ、補助金を削減し、労働組合を弱体化させ、利潤を増やし、経営側を強化すれば、企業家革命につながるはずであった。しかし、革命にはいたらなかった。

 資本主義経済の鍵は、銀行や金融機関が融資や投資を行う企業に求める条件にある。企業収益が増加しただけではなく、要求される投資収益率もさらに急速に上昇した。しかし、これは偶然ではない。元々短期指向であった金融制度を規制緩和したため、短時間で高収益を求める貪欲さに拍車がかかったのは当然である。金融制度が市場中心であればあるほど、投資向けの資源の移動は非効率になる。

 イギリスの経験は他国に有益な警告を与える。どの国にも、急激な市場化にまつわる恐怖の体験談が1つはあるだろうが、イギリスには及ばないであろう。イギリスの市場化が最も広範かつ急速に行われたからである。この国の市場化に伴う欠点や失敗は詳細に吟味する価値がある。イギリスの貸付ブームによって、この時期、イギリスの個人負債の増加率は先進工業国中最も高くなり、また貧富の差の拡大も最も急速であった。中でも顕著なことは、製造業の重要性が急落した点である。経済の変動が激しくなり、民営化政策も先進国中最も積極的に推進された。福祉への攻撃はどこよりも包括的で、金融制度の規制は完全に緩和され、さらには労働市場の規制に対する攻撃も最も広範にわたっていた。最高税率の引き下げ率もイギリスが先進国中最も大きく、市場原理がますます社会の深くにまで浸透していった。20世紀、いかなる西欧諸国においても、ここまで急速で広範囲におよぶ市場化を経験した国はなかった。

 サッチャー政策の失敗は、イギリス衰退の根本原因よりも、むしろ結果に焦点を当てたことに起因する。根本的な問題は民間分野があまりにも高い投資収益率を要求してきた点にある。その結果、労働者一人当たりのイギリスの株式資本は先進工業諸国の中で最低になった。

 イギリス経済は株式市場と、手形交換組合加盟銀行に基づく金融制度を中心として成り立っている。その金融制度は何の規制も与えられず開放的で、かつ流動性にとりつかれていたため、投資や革新へ向けた支援にはまったく不向きであった。しかし、サッチャーはこの問題点にはまったく取組もうとせず、むしろ金融の規制緩和と自由化によって事態をさらに悪化させた。イギリス衰退の主な経済的理由はここにあった。

 サッチャーは政権に就くや否や、すぐにイギリスの金融界から規制を撤廃し始めた。外国為替管理を取り除き、銀行の貸付額に対する上限を撤廃した。その後1980年末まで15年間にわたり、経済を著しく不均衡にする措置がすべて実施された。為替管理を撤廃し、ポンドの価値を過去最高に押し上げ、貸付ブームのお膳立てをすることによって、生産と消費の不均衡を招いた。これは今日もイギリス経済に苦境をもたらしてる。ポンド高によってイギリスの製造基盤が破壊され、貸付ブームによって消費額がますます押し上げられていった。1980年代半ばにはイギリスのGDPの65%が消費によって占められたが、それでもイギリスの株式資本の需要に対する割合は主な競争相手国よりも低かった。イギリス経済は市場の自由化という名の下、金融分野によって破壊されたのである。

 その結果は悲惨であった。異常に高くなったポンドのために、国内では輸入品の競争力が極めて高くなり、また輸出市場では価格面で太刀打ちできなくなり、イギリス製造業の生産量は1980年と1981年の2年間で14%減少し、利益は3分の1も落ち込んだ。GDPは合計で5%近く減少し、1983年の就業者数は、1979年よりも200万人少なくなった。個人の負債額は倍増し、家計の負債は、1980年に可処分所得100ポンド当たり57ポンドであったのに対し、1990年には114ポンドに増加した。これは西側先進工業国中、最も高い増加率であると同時に、絶対額も最高であった。1983年、産業革命以来初めてイギリスは製造品の輸入超過国となった。そして、その後もこの傾向は続き、1989年には石油を除く商品貿易の赤字はGDPの約5%にものぼった。

 イギリスの金融制度の鍵は、それをシステムとして理解することである。このシステムで最優先されるのは流動性である。換言すると、貸出しや投資の決定をくつがえし、現金が手元にある状態に戻す能力を指す。企業の株式、社債、国債の投資家がその所有権を簡単に他者に売却し、現金化させることが流動性によって可能になり、その流動性を求めること自体が株式市場を活性化する。手形交換組合加盟銀行が短期融資を好むのは流動性への執着が強いからで、貸出金を早く返済させたいと望む。

 イギリスで顕著なことは、流動性を盲目的に求めている点にあり、即座に満足感を得たいという思いを抑制する試みはほとんどなされなかった。流動性が提供できる能力は金融の健全性の証拠とされたが、コミットメントの欠如を示すものでもある。金融資産が流動的であればあるほど、その資産の所有者は基盤となる投資の長期的な健全性にコミットしなくなる。状況が困難になったり、条件が変わった時のために、投資家は前もって融資を引き上げる条項を用意している。リストラや危機管理のリスクを共有するのではなく、資産を売却したり短期融資を引き上げるためである。イギリスの金融制度にはこのコミットメントの欠如という不変の傾向があり、すべての問題がここから生じている。

 ロンドンの金融街シティでは、世界の金融センターとして、チャンスが生まれた時に最も高収益の市場に迅速に資金を還流させることで最大の利益率を上げるために、すぐに資金を用意することが不可欠である。しかし、この傾向は国内産業に破壊的な影響を及ぼす。

 イギリスの資本市場は賢い金融商品の発明と、それを取引きしようという意欲で評判を勝ち得た。しかし、同じ理由によって、金融制度は企業の全ライフサイクルにおいてマイナスの影響を与え、企業分野を失敗に追い込んでいる。その制度は決して短期的なリスクに限定されているわけではない。その影響は最低レベルの資本主義的活動から、最も複雑な最高レベルのものまで様々である。運転資金を確保するために家を担保にし、融資の手数料を前払いにし、金利上昇分も払わなければならない小企業の経営者もいる。あるいはベンチャー・キャピタルの支援を獲得し、その投資分返済のための株式発行に備えて、時期尚早とはいえ会社の設立を余儀なくされる個人発明家もいるかもしれない。この場合、新株発行を成功させるために株価や収益を押し上げる必要がある。

 イギリスの金融制度は大企業に対し、次々に入れ替わる株主に常に上昇する高額の配当を支払うよう要求する。企業は株主に企業を乗っ取られないよう、株主の忠誠心を勝ち取ることに腐心する。乗っ取り屋の目的は、やはり株価とマーケット・シェアの上昇により、乗っ取りに要した借金を返済することにある。

 銀行の規制緩和、短期融資偏重、経営難の企業への貸し渋りの結果、企業側はますます資金源を内部留保に頼らざるを得なくなる。このため企業は高収益の投資プロジェクトしか承認できなくなる。

 イギリスの富の所有者に世界中で最も高収益な投資対象を提供したことで、イギリスの金融制度は国内企業に最も高い標準を課すことになった。

 1992年の国際比較によれば、イギリスの中小企業に対する貸付のうち58%は短期の当座貸越であった。これに対しドイツでは14%、フランスでは31%、イタリアでは35%に過ぎなかった。

 貸付が短期になればなるほど、年間元利金支払要求額は高くなる。これは住宅ローンの融資期間が短ければ短いほど、年間返済額が多くなるのと同様である。イギリス企業が多額の借金に頼っても、キャッシュ・フローが枯渇していれば、借金の返済は容易でなくなる。金利上昇に応じて年間債務返済要求額も高くなるため、さらに苦しくなる。企業はジレンマに陥り、投資や研究開発、人員削減により現金を節約せざるを得ない。OECD諸国の中でも、イギリスは労働基準の要求レベルが最低である。そうした柔軟性が許されなければ、長期融資を受けるのが難しいイギリス企業は、競争相手よりも財務危機に陥る可能性が高くなるからである。

 イギリス企業はこのことを熟知しており、競合相手よりも融資を受けることに消極的である。イギリス企業はアイルランドを除く先進国中、自己資本に占める債務の割合が最低である。企業は危険な条件で債務を負いたくないと考え、その代わりに内部留保で運転資金を調達している。

 しかし、株式発行に比べれば、借金の方が資本としては安くつく。ほとんど借金をしないために、債務返済額、配当金、株主の利益要求、税金をすべて含めたイギリスの資本平均コストは、世界で最も高いレベルにある。他の国の企業は資本のコスト高を銀行の安い融資で埋めることができる。金利分が課税対象とならないため、銀行融資はさらに資本コストの削減につながる。それに比べて、イギリスは株式資本を低コストの銀行融資で相殺する頻度が最も少ない。1983年~1991年までの間、資本コストの割合は日本では14.7%、米国では15.1%、ドイツでは15.7%であったのに対し、イギリスでは19.9%であった。自動車や鉄、化学製品、紙などの製造業では商品は国際的に取引されており、金融構造の違いは資本コストの差につながり、このことが投資や技術革新能力、また長い操業時間や低い単位コストの持続能力の重要な決定要因となる。

 イギリス企業は、資本が高いため、その返済のために高い収益を上げられるよう価格を高く設定せざるを得なくなる。それに比べて、競争相手は金融構造が低コストの資本の提供を可能とし、それによって価格を低く設定できるため、イギリス企業は競争相手にマーケット・シェアを奪われることになる。海外の競争相手は生産高が増えれば投資も増加できるという好循環を上りつめることができるが、イギリス企業は生産高がほとんど変わらず、投資が減少するという悪循環に陥る。そこで、イギリス企業は大量生産と高い固定費を要する国際製造業から撤退せざるを得なくなった。イギリス企業は高価格および高収益を獲得するチャンスのある隙間戦略を採用することが多かった。

 株式市場がより自由で支配的になればなるほど、銀行はより高い収益を上げることを要求する。米国の銀行は11.9%の収益率を要求された。イギリスの銀行と同様に、米国の民間銀行は即座に利益を得ることを強調し、短期貸付を行う。しかし、米国企業にはイギリスの企業とは異なり、他の金融選択肢が豊富にある。結局、米国はつい最近まで州銀行に他の州への貸付を禁止していた。その結果、企業は専属の金融機関を持ち、たとえ株式資本が高価であったとしても、その金融機関に魅力的な条件を提供することを強制した。イギリスにはこうした逃げ道さえない。イギリスは寡頭制の18世紀の国家同様、中央集権的なままなのである。

 資本の総体コスト削減による救済のために、安い融資が提供される可能性は低い。方向はむしろ逆で、個々の銀行と企業の間は疎遠になり、巨額の長期債務を可能とする情報の流れが少なくなっている。銀行は企業との関係を弱め、融資のための新しい市場を開拓した。その市場では、銀行債務が株式と同様に売り買いできる。こうした銀行債務の証券化はもちろん、ロンドンの金融機関が流動性と融資引上げに執着していることの表れである。

 サッチャーの外国為替規制の撤廃は、新しい世界的な資本市場の開拓において、ロンドンに先駆的な役割を果たさせることになった。国際通貨としては、ポンドはドルや円、マルク、フランには及ばないかもしれないが、世界で最も規制の少ない金融市場としてロンドンは世界金融の中心としての地位を享受している。ロンドンは国際債券ディーラーの数が世界で最も多く、また国際銀行融資でも世界第一位である。さらに、外国株の取引きに関しても、米国を大きく引き離し、世界第一位を誇る。

 こうした国際的な立場は、イギリス企業が金融支援を受けたいと考えるのであれば、世界最大の収益を上げなければならないことを意味する。イギリスの年金基金と保険会社は、先進工業国の中で、ポートフォリオに占める外国株の割合が最も高い。イギリス企業は年金基金や保険会社に匹敵する収益率を提供しなければならないのである。1994年までの15年間、年金基金はイギリスの株式において10%の配当金伸び率を示し、合計で22%の収益率を達成した。

 イギリスの上位200社は自由市場へ移行した金融機関に対抗しなければならない。こうした企業の株式、債券、銀行債務がかなり活発に取引きされている。その利点は、高価格で資本や債券による資金調達ができることであり、短所は、資本や債券の所有者に気違いじみた高金利を後々支払わなければならないことである。

 しかし、中小企業は資金繰りを有利な条件で行うことはできない。リスクに弱い金融制度に依存していれば、株式を上場する企業はどこでも大企業と同レベルの配当金を提供しなければならないのである。中小企業にはそれを提供するだけの余力はない。未上場の企業であっても、特に株式の発行を準備する企業であれば、同じ条件を満たさなければならない。中小企業にとって、一般に金融支援は企業の所有者の資本や貸越し融資からなる。これはほとんど拡張不可能な高価な組合せといえる。

 イギリスの産業および商業構造は金融環境の副産物であり、それが雇用から住宅まで、様々なものに多大な経済の非効率や社会的苦悩といった影響を与えている。現在のイギリスで見られる家庭生活の崩壊や公的領域の縮小は、ロンドンの金融市場から遠く切り離されているかのようであるが、地震において遠隔地の振動も震源地から来るのと同様、そうした問題も金融市場とつながっているのである。

[『The State We’re In』(ランダム・ハウス刊、1995年)より抜粋翻訳]