No.275 難民はコソボだけではない

今回も前回に引き続き『オーランド・センティネル』紙から、チャーリー・リースが書いたコソボに関する論評をお送りします。米国の政策を批判するものですが、新ガイドライン関連法案が国会で審議されている今、日本の行く末を考える上で有益な示唆を与えてくれるはずです。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

難民はコソボだけではない

 

『オーランド・センティネル』紙 1999年4月18日
チャーリー・リース

 私は戦争が嫌いだ。とりわけ、テレビの特別報道や対談テーマとして取り上げられるような戦争は大嫌いだ。我々は、まさにオーウェルの小説の悪夢が現実になったような国で生活をしている。米国人は、カラー映像で難民を何時間も見せられ、コソボから逃げ出した、または追い出されたアルバニア人に強い同情を感じている。実際、同情や悲哀を感じないとすれば、その心には鉛の重りがついているに違いない。しかし、我々の感情は操作されているということを覚えておかなければならない。

 今この時、世界中には何百万人もの難民がいて、その多くはもう何十年も汚い避難所で過ごし、やせ衰えているのだ。しかし、我々は彼らの存在に気づいてはいない。なぜなら、そんな彼らにカメラを向け、彼らが直面している恐怖を扱ったニュースを毎日我々に提供しようとするメディアは1社もないからだ。

 それゆえ安っぽい政治家たちは、大きな嘘をつき通せるのである。これは人道主義にとっての大惨事だ、人口1千万人の小さな国の大統領は悪魔だ、だからこの戦争は必要なのだ、と。

 よく聞いて欲しい。中国はチベットを侵略し、その文化や歴史的な文化遺産を滅ぼしただけでなく、人口の約80%を殺害した。ではなぜ米国は、その人道主義の大惨事に対して中国に最後通牒を突き付け、爆弾を落とさなかったのか。

 答えは簡単だ。中国は人口10億人以上の国家で、核兵器やミサイルも保有している。米国の指導者たちはシニカルで臆病なのだ。彼らは小国いじめを好む一方で、抵抗する術を持った国に介入することは恐れている。彼らは、人類の中で最も嫌悪を覚える人間であり、理論だけの書斎の戦士、つまり他人の戦争を高みの見物と決め込む批評家なのである。

 中国がかつて分割されて弱く貧しかった頃には、米国やヨーロッパも中国人を威嚇していた。それは事実として認めよう。共産主義者は残酷かつ残忍ではあったが、中国を西洋人が威嚇できないような、また搾取できないような強い国へと作り上げた。

 書斎の戦士にとって好都合なことに、米軍はすべて志願兵で組織されるので、彼らの息子や娘が間違った政策決定によって戦争に巻込まれることはない。米国人兵士の多くは、政府が提示する貧困線以下の給料しか得ていない。これらの志願兵が死のうが、不具になろうが、金持ちでひ弱な理論家たちにとって知ったことではないのである。

 ニュース・メディアによって誘導された狂気のもう1つの徴候は、意味のない言葉がやたら好んで使われる点である。人々は、どのように感じているかを口に出すことが大好きなのである。彼らは自分がいかに難民に同情を寄せているかを、それがあたかも難民の口を一滴の水で潤すかのように、あるいは難民のお腹を一片のパンで満たすかのように語っている。「私は軍隊を支援する」。今、人々は好んでそう語る。しかし、議会が軍隊への約束を破った時にも人々は軍隊に味方をしただろうか。政府が軍隊を降格させ、士気をくじき始めたとき、人々は軍隊の側についただろうか。今回の「支援」も、自分たちは家や会社という安全地帯に居ながら、ただ口先だけの支援を唱えているに過ぎない。

 まるで無防備な小国を爆撃し、攻撃することは(米国は過去10ヵ月間で4つの異なる主権国家を爆撃した)、世界の多くの人々に米国に対する敵意を抱かせることに他ならない。腐敗した無能な政治家によるこの無謀なそして違法な行動は、いつか米国民にはね返り牙をむくだろう。

 戦争が米国の国土で行われるようになった時、この理論家戦士たちがどれほど勇敢かを見るのは興味深いものがある。現在の米国政府の行動を考えると、いずれその時が訪れるに違いない。

 そうなったら恐らく、テレビのアナウンサーたちは米国の難民をインタビューするのだろう。いや、自分たちが難民になっているかもしれない。いかなる戦争であっても、あたかもそれがスポーツの試合やゲーム、あるいはテレビ番組であるかのように取り上げられてはならない。戦争は悲劇であり人類に対する犯罪であって、それ以外の何ものでもないのである。

[著者の許可を得て翻訳・転載]