No.285 崩壊したユーゴスラビアと植民地ボスニア(前編)

 今回と次回はオタワ大学教授ミシェル・チョスドフスキーが、1995年のボスニア和平合意(デイトン合意)の直後に書いた論文を前編と後編に分けてお送りします。1980年代末以降、外国人債権者はNATOの軍事・諜報活動と合わせ、ユーゴスラビアに対して厳しいマクロ経済改革を課しました。現在NATOの空爆で問題になっているコソボの運命はその時からすでに決まっていたとチョスドフスキーは述べています。

 IMFの有害な経済の処方箋が投与された時から、ユーゴスラビア経済全体は破滅に向かい始めたのです。経済改革はコソボのアルバニア人とセルビア人を共に貧困化させ、それが民族間の緊張を高めました。市場の力の意図的な操作が、経済活動や市民生活を崩壊させ、絶望的な社会状況を生み出したのです。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

崩壊したユーゴスラビアと植民地ボスニア(前編)

ミシェル・チョスドフスキー 

 重武装の米軍およびNATO軍がボスニアに和平を確立させたことに対して、たとえそれが遅すぎたとしても、マスコミや政治家は揃って、旧ユーゴスラビアに対する西側の介入は民族浄化や人権侵害に対する立派な対応だと賞賛した。1995年11月にデイトン和平合意が結ばれると、西側諸国は南部スラブ人の救世主を装うことに余念がなく、その最後の仕上げとして、新しく誕生した主権国家の再建作業に着手したいと考えた。

 しかし、西側の国民は固定観念による誤った見方をしていた。バルカンの窮状は「攻撃的国粋主義」によるものであり、歴史に根差した民族および宗教上の根強い緊張の必然的な結果であると考えていた。経済的および社会的な紛争の原因は、これらのイメージや利己的な分析の中に埋もれ、内乱以前に端を発する根深い経済危機は忘却のかなたに追いやられた。

 また、ユーゴスラビア解体のお膳立てをしたドイツおよび米国の戦略的利益や、外国の債権者や国際金融機関の果たした役割についても、言及されなかった。世界のマスコミの目には、人口2,400万人の小国の貧窮や崩壊に、西側の大国は一切責任を負ってはいないと映っていたのである。

 しかし、ユーゴスラビア経済を崩壊させ、民族および社会紛争を勃発させたのは、国際金融制度の支配を通じて、国益および集団的戦略利益を求めた西側諸国である。

 次に国際金融制度の餌食になるのは、旧ユーゴスラビアの解体で生まれた、戦火で荒れ果てた国家である。世界が軍の動きや停戦の行方に注目している一方で、国際金融機関はユーゴスラビア解体後に生まれた国家から、旧ユーゴスラビアの対外債務を取りたてることに余念がなく、バルカンを自由企業のための安全な避難所に変えようとしている。NATOが銃口を向ける中で結ばれたボスニア和平協定で、西側は、第二次世界大戦以後の欧州では見られなかったほどの、主権をことごとく剥奪する「再建プログラム」を発表した。それは、ボスニアをNATOの軍事占領と西側管理のもととに分割することである。

新植民地、ボスニア

 デイトン合意によりボスニア憲法が作られ、米国と欧州連合はそれに基づきボスニアに和平履行評議会と称した完全な植民地管理を導入した。その上級代表として、ボスニア和平交渉の欧州連合代表であった元スウェーデン首相のカール・ビルトが任命された。ビルトはすべての民事に関する特別行使権を持ち、ボスニア連邦、スルプスカ共和国両政府の決定を却下する権利を持った。具体的にデイトン合意には、「合意の解釈について最高権力を有するのは上級代表である」と書かれている。ビルトはNATO主体の平和履行軍の軍事司令部、債権者、援助提供者と共に作業を行う。

 国連安全保障理事会はまた、上級代表のもとで国際民間警察隊を運営する委員長にアイルランドの警察幹部のピーター・フィッツジェラルドを任命した。彼はナミビア、エルサルバドル、カンボジアなどで国連治安活動の経験があり、15ヵ国からなる1,700人を超す治安部隊を統括した経験を有していた。警察隊は、ザグレブにおいて5日間の訓練プログラムのあとボスニアに派遣された。

 新憲法によって経済政策の手綱は、ブレトンウッズ機関とロンドンに本拠を置く欧州復興開発銀行(EBRD)に渡った。IMFによってボスニア中央銀行の最初の総裁が任命され、上級代表と同じく、総裁はボスニア・ヘルツェゴビナまたは近隣諸国の住民であってはならないとされた。

 IMF統治のもとでは、中央銀行が中央銀行としての機能を果たすことは許されない。「最初の6年間は、貨幣の創造により融資を行うことはできない。つまりその間、通貨当局としてのみ機能する」。ボスニアはまた自国の通貨を持つことは許されず(外貨で完全に支えられている場合に限って紙幣を発行できる)、国内資源を動員することも許されない。独立した通貨政策により、再建のための資金調達を行う能力は初めから奪われていた。

 中央銀行がIMFの保護下に置かれる一方、欧州復興開発銀行は国営企業委員会を作り、エネルギー、水道、郵便、電気通信、輸送といったすべての国営企業を監督させた。欧州復興開発銀行の総裁が委員長を任命し、国営部門の再建を指揮させた。再建とは、公的資産の売却と長期投資資金の調達を意味した。西側債権者が欧州復興開発銀行を設立したのは、貸付に政治的側面を持たせるためなのは明らかであった。

 西側が民主主義を支援するということは、実際の政治権力がボスニアという国家の手に渡ることを意味した。しかし、執行権を握るのはボスニア国民ではない。西側の債権者は、急いで自分たちの利益をボスニア憲法に盛り込ませた。彼らは国会も開催せず、またボスニア市民の組織に事前に確認することもなくそれを実施し、またこの憲法の中に修正方法を加えることもなかった。ボスニア再建という彼らの計画は、ボスニア人の基本的要求を満たすよりも、債権者を満足させることに主眼が置かれているように見えた。

 それを行わない手はなかった。ボスニアの新植民地化こそ、ユーゴスラビアの市場社会主義と労働者による自己管理という実験をやめさせ、その代わりに自由市場を導入するという、西側の長年の努力の賜物であった。

これからやってくるもの

 多民族からなる社会主義国ユーゴスラビアは、かつてその地域の産業大国であり、経済的な成功を収めていた。1980年以前の20年間、GDPの年間成長率は平均6.1%で、医療費は無料、識字率は約91%、平均寿命は72歳であった。しかし、西側経済の援助を受けて10年、国家の解体、戦争、不買運動、経済封鎖などで5年たってから、旧ユーゴスラビア諸国の経済は衰退し、産業は崩壊した。

 ユーゴスラビア内部からの崩壊は、その一部は米国の陰謀によるものである。ユーゴスラビアの非同盟主義やECや米国との広範な貿易関係にもかかわらず、レーガン政権は、「米国の対ユーゴスラビア政策」を扱った極秘文書である、1984年の国家安全保障決定方針(NSDD 133)でユーゴスラビア経済を標的にした。また、1990年に検閲後公開された、1982年発行の東欧に関する機密文書NSDD 54は、東欧諸国を市場経済に組込んでいく一方で、共産政権と共産党を転覆させるために、静かな革命を推進する努力を拡大することを訴えた。

 米国はすでに1980年、チトー大統領死去の直前にも、ユーゴスラビアに第一次マクロ経済改革を課す海外の債権者に加わっている。それ以降のIMF支援策は一貫して、産業分野を崩壊させ、ユーゴスラビアの社会保障制度を骨抜きにしていった。債務削減協定は対外債務を逆に増加させ、また強制的通貨切下げによってユーゴスラビアの生活水準は大きく低下した。

 第一次リストラがその後の改革の雛型となり、1980年代を通じて、IMFはさらに苦い経済の処方箋をユーゴスラビアに定期的に投じ、ユーゴ経済を徐々に昏睡状態へ導いた。工業生産量の成長率は1990年にはマイナス10%に落ち込み、予想されていた社会的な悪影響がすべて顕在化した。

マルコビッチ首相、ワシントンへ行く

 1989年秋、ベルリンの壁の崩壊直前にユーゴスラビア連邦首相アンテ・マルコビッチは、新しい金融援助パッケージの最終交渉のためにワシントンでブッシュ大統領と会談した。ユーゴスラビアは援助の見返りとして、新たな通貨切下げや賃金凍結、財政支出の大幅削減、公営企業の売却など、より包括的な経済改革に合意した。ユーゴスラビアの特権階級は、西側アドバイザーから助言を受け、外国投資規制の大幅な自由化を含む、必要な改革の多くをあらかじめ実施し、首相の任務達成のためのお膳立てを行った。

 「ショック療法」は1990年1月に始まった。収益がインフレに食われたにもかかわらず、IMFは賃金を1989年11月半ばの水準で凍結するよう命じた。一方で、物価は上昇し続け、1990年上半期に実質賃金は41%も低下した。

 IMFはユーゴスラビアの中央銀行もうまく統制した。中央銀行の金融引き締め政策により、経済、社会政策に対する政府の資金調達能力をさらに奪った。国家から共和国や地方へ支払われるはずの歳入の一部は、主要先進国の債権者に対する利払いに回されたため、共和国は自給自足を強いられた。

 この一撃で、改革者たちはユーゴスラビアの連邦金融構造の完全な崩壊を企み、その政治体制に致命傷を負わせた。改革はユーゴスラビア連邦と共和国間の資金の流れを止めることにより、民族問題だけでなく経済的要因によって、分離主義的傾向に拍車をかけ、共和国の事実上の分離を確実にした。IMFが引き起こした予算危機によって経済的独立が既成事実となり、それが1991年のクロアチアとスロベニアの連邦からの分離への道を作った。

見えざる手によって崩壊

 ユーゴスラビアの債権者が要求した改革はまた、国が所有し、労働者が管理する企業制度の根幹にも打撃を与えた。ある識者は「その目的は、ユーゴスラビア経済を大々的な民営化と公共部門の解体に晒すことであった。共産党官僚、中でも軍事および諜報部門が特にこきおろされ、彼らは、ユーゴスラビア労働者の社会保障をすべて廃止するという条件のもと、経済および政治的支援を提供された」と述べている。

 これは瀕死のユーゴスラビアにとって、拒否することのできない申し入れであった。西側弁護士やコンサルタントの助言を受けたマルコビッチ政権は、支払不能の企業を強制的に倒産または清算させるという金融法案を成立させた。この新しい法律のもとで、企業は支払いを30日以内に済ませるか、あるいは45日のうち30日以内にできなければ残りの15日間で政府が破産手続きを始めるというものである。

 社会主義経済への攻撃として、国営の「組合銀行」を清算させるきっかけとなった新銀行法も制定された。こうして2年以内にユーゴスラビアの銀行の半分以上が消滅し、新しく「独立系利益志向の金融機関」に置き換わった。

 法律に基づいて行われたこうした変更に加え、IMFの産業界に対する金融引き締め策および市場開放政策は、ユーゴスラビアの産業の衰退に拍車をかけた。1989年から1990年9月に1,000社以上が倒産し、1990年にはGDPの年間成長率はマイナス7.5%に下落した。1991年、GDPはさらに15%落ち込み、一方で産業の産出量は21%も縮小した。

 IMFのこうしたやり方がユーゴスラビアの発達した重工業の大半の崩壊を加速させたことはいうまでもない。国営企業は労働者に給料を払わないため、生き残った。50万人以上の労働者が国営企業に残っているが、1990年末には給与の遅配を経験している。しかし、彼らはましなほうである。1990年9月までに、すでに約60万人のユーゴスラビア人が失業したが、これは始まりにすぎなかった。世界銀行によると、ユーゴスラビアの大手企業数社を含む2,435社が清算の候補に挙げられ、その労働者130万人は、残っている企業労働者全体の約半分に相当するという。

 1991年になって実質賃金は急落し、社会制度は崩壊し、失業者があふれた。産業経済の崩壊はその規模と残酷さにおいて、息を呑むほどであった。その社会的および政治的影響は容易に数量化することはできないが、極めて深刻であった。

 ユーゴスラビアの大統領はこう述べた。「改革は社会状況全体に、明らかに望ましくない影響を及ぼしている。国民は国家やその制度への信頼を失い、深まる経済危機や社会の緊張が政治的安定を奪うという致命的な結果をもたらした」

[著者の許可を得て翻訳・転載]