No.287 貧富の差のない社会を築くために

私の現在の考えを、以下のような小論にまとめました。その感想として、ニューヨーク在住のエコノミストで友人のマイケル・ハドソンからは「聖書の真髄は、社会の二極化を防ぐことにあった」というコメントが返ってきました。一度社会が二極化してしまえば、それは環境汚染と同じで、そこから発生する問題を克服するためには膨大なコストがかかるというのです。ニューヨークで暮らす彼は、私がこのOur Worldを通して皆さんに示しているアメリカ社会の現実を、日々目の当たりにしています。彼は、貧困に端を発した無教養で反社会的な下層階級が作り出されていることでアメリカ社会全体に巨額の負担がかかっているのに対し、平等な社会を築くことを目指してきた日本ではそうした富の集中化に伴う汚染浄化費用がかからない、と指摘しています。

 また、カリフォルニア州立大学リバーサイド校経済学部教授、メイソン・ガフニーからは、所得や富の分配は正規曲線に見られるような通常の分配では説明がつかず、指数関数的な格差が生じているとする指摘が返ってきました。私の意見に同意して、富の格差は能力の差に起因する物ではないとし、各人の能力は人の努力によって培われる部分が大きいが、財産は相続によって受け継がれるため、人が持つ財産は生まれながらにして不平等であるとも述べていました。

 日本人の読者の方々は、私の小論にどのような感想をお持ちになられるでしょうか。皆様からのご意見をお待ちしております。

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貧富の差のない社会を築くために
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 今日の経済問題について考え、また経済の歴史を読めば読むほど、経済的に平等な社会を築き、一握りの国民が残りの国民に比べて、多くの富や収入を手にすることのないようにすることの重要性を私は痛感せずにはいられない。
 私は、統計学のいわゆるベル型のカーブ、「正規曲線」が、社会にも当てはまると信じている。つまり能力や野心、資源などを指標に国民すべてを上から下に並べると、大部分の人々は平均的な部類に属し、最高または最低レベルに近づくにつれて、そこに位置する人々の数は少なくなるのである。
 今日の米国では、いわゆる「自由競争」の哲学が一般的であり、米国の指導者たちは日本の国民や企業がその能力、野心、資源を自由に発揮できるよう、日本にもその哲学を押し付けようとしている。当然、この哲学による受益者は、もっとも才能、野心、資源を持つ少数の国民であり、彼らは他の国民よりもはるかに多くの収入や富、権力を手に入れることができるようになる。
 このような自由競争社会は、強者が弱者を支配するジャングルとどこが違うというのだろうか。ジャングルから進歩して、社会になったのではなかったのか。多数の弱者を少数の強者の支配から守るための手段や方法が、社会というものではなかったのか。米国の哲学はジャングルへの逆行を促す原始的な誘惑ではないだろうか。
 自由競争を通じて、最も多くの才能や野心、資源を持つ少数の強者が、残りの国民を支配することが可能になれば、強者の関心や利害は、他の国民のそれから離れていきはしないだろうか。例えば、社会の公的費用を賄うための税金は、全国民が同じ金額の税金を支払うべきなのか、それとも、支払い能力や、社会から得る経済的利点に応じた税額を支払うべきであろうか。当然ながら、絶対的多数の国民が、税金の支払い能力、あるいは社会から得る経済的利点に応じた税額にすることを望むであろう。しかし、最大の税金支払い能力および経済的利点を持つ一握りの国民は、もちろん税額を全国民一律にすることを望むのである。
 少数の強者が自分達の持つ才能や野心、資源を利用した結果得た富を使って自分達の望みをかなえてくれる政治家を選挙で当選させ、その後も政治家を買収し続けようとしたとしても、完全に情報が公開され、完全な協力関係が築かれている完璧な社会であれば、残りの国民が投票によってそれを阻止することが可能になる。
 しかし、完璧な社会などこの世に存在しない。情報が完全に公開されることもなければ、完全な協力関係が築かれることもない。少数の強者が、残る大多数の弱者よりも多くの情報を手にし、またより多くの協力を勝ち得る。その結果、強者は自分達の富に物をいわせて選挙に影響を与え、自分達の利権を満たしてくれる候補者を選び、またその候補者が当選した後も、その利権が守られるよう賄賂を与え続ける。
 こうした傾向は、お金や、お金で買える物に重きを置き、肉体や精神的価値を軽視する現代のような物質社会において特に強い。
 しかしこれらの問題の大部分は、簡単な方法によって解決できると私は思う。その方法とは、貧富の差の少ない平等な社会を作るために、税の累進性を高めることである。
 所得税や、富に対するその他の税の累進性を高めることによって、天賦の、または継承によって得た才能や能力、野心、資源における格差を取り除く。生まれながらに最も多くの物を与えられた人間が、最大の負担を負うべきである。
 また累進課税は、社会全体が共通の公的利益を求めることにもつながる。所得や富の格差が低ければ低いほど、国民の利害は一致する。
 さらに、累進性が高ければ、国民は過剰な所得や富を得ようとは考えなくなる。社会の構成員が、社会から奪うのではなく、社会にもっと提供したいと考えるような方法を見つけるべきであろう。
 少数の強者だけが持つ政治献金やメディア広告、賄賂を通じた政治を腐敗させる能力は、税の累進性を高めることで奪うことができる。
 また税の累進性を高めることによって、戦後社会に貢献した世代の子孫が国家債務を積上げ、子孫に寄生して暮らすことを防ぐことができる。
 才能や野心、資源は、人間に標準的に分配されているのであって、平等に分配されているのではないことを認識しよう。そして、すべての国民がそれを最大限に活用することを奨励しよう。しかし、最も恵まれた少数の人間が他者を支配することのないよう、また公的利益がすべての人にとって共通の関心になるよう、税の累進性を高めよう。それはまた、政治腐敗を防ぎ、かつ後の世代の人々に負債を残さないことにもつながるのである。
 これこそ、プラトンやアリストテレス、孔子が奨励した社会ではなかっただろうか。日本社会の起源であった、小さな農村や漁村の暮らし方もまたそうであったはずだ。