No.294 米国の巨富の歴史(1)

米国政府は長年にわたって日本政府に対して規制緩和、民営化、グローバル化などを迫り、日本の経済や社会を米国に似せて作り変えようとしてきました。日本の多くの政治家や識者達は過去も現在もその圧力に屈し、中には日本独自のやり方を捨て米国式をとり入れた方が日本の利益になると信じているような指導者もいます。しかし、日本の米国式制度がどう機能しているのか、またそれがほとんど例外なく米国人のために機能してきたという事実を、完全にかつ正しく理解している日本人はいったいどれほどいるのでしょうか。また米国の経済史を学んだ日本の政治指導者や識者が何人いるでしょう。非常に少ないと私は思います。

経済や社会をどのように運営していくか、これ以上米国の圧力や説得に屈服する前に、グスタバス・マイヤーズが書いた『History of Great American Fortunes』(初版1907年)を読むべきです。出版元のランダムハウスは、1937年のモダンライブラリー版に次のように記しています。「マイヤーズのこの本は米国史を記録した文書として、四半世紀以上にわたって攻撃されることはなかった。出典としても、この本は第一級の多くの作家に資料と名声を提供した。事実にはすべて出典が付され、実際の公式記録から直接引用されている。マイヤーズの作品に記された事実に異議を申し立てた者はいまだかつていない。すべての発言が確認・立証済みの証拠で裏付けられている。マイヤーズの関心は、巨額の富がいかなる手段で獲得されたか、またその富がどのような目的のために利用されたかということであり、結論を導くのは読者に委ねられている」  以下は、『History of Great American Fortunes』の序文と、植民地時代から独立革命期の米国経済を取り上げた章から、私が重要と思う箇所を抜き出して編集したものです。私もここではあえて結論は加えず、読者にそれを委ねることにします。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

米国の巨富の歴史(1)

グスタバス・マイヤーズ

序文でマイヤーズは次のように述べている。

米国の巨額の富は、その制度がもたらした自然な不可避の成果であり、その当然の結果として一握りの人間の利益のために、その他大勢の人間が徹底的な搾取を受けることになった。こうしてできた米国の富裕階級は、当然の結果をいやおうなしに作り出すプロセスから生まれた、必然的なものの1つに過ぎない。その結果として、巨額の富の加速度的集中化とならんで、財産を奪われ、搾取された多数の無産階級が生まれた。

富裕と貧困は本質的に同じ原因から生じる。どちらとも一方的に非難されるべきではなく、重要なことは、なぜ富裕と貧困が存在するのか、そしてどうすればそうした不条理な差をなくすことができるのかを見定めることである。

以下は、「開拓および植民地時代の状況」の章から拾ったメモである。

開拓および植民地時代の主な私有財産は、土地の所有および商業収益からもたらされ、その両方に農業を伴うことが多かった。植民地中に点在する地主は広大な領土の所有権を持ち、専制統治を行ったり、領土によっては封建統治を行っていた。

ほとんどの植民地には、純粋な商業目的で組織された特許会社(貿易振興のため国王の特許状によって設立された会社)が作られ、その成功は主にその植民地への移住の促進にかかっていた。特許会社には巨大な力と特権が与えられ、事実上、それによってその会社は主権を有する支配者的存在となった。

土地と気候に恵まれたバージニアの特許会社の1つであるロンドン会社は、労働力不足になるとまずイギリスから白人召使を買い入れ、最高値を付けた入札者にバージニアで再販した。これだけではまだ足りないと、今度はさらに貧しい階級のイギリス人を何らかの理由を付けて、可能な限りたくさん集めて米国に送り、無賃労働者として働かせた。当時法律で厳しく定められていた数多くの刑罰のいずれかによって逮捕され、有罪になった無一文かつ身分の低いイギリス人は、犯罪者として送られるか、または一定期間奴隷として植民地に売られていった。イギリスの裁判所はバージニアのプランテーション向けの人材をせっせと作り出した。そこでは商業目的が最重要視され、くずと見なされている人間の処理プロセスは必要かつ正当と判断された。

イギリスの裁判所がどんなに早く作業を進めても、労働力の供給は追いつかなかった。そのため1619年、プランテーション所有者が労働者の供給を確保するための新しい方法を発見した時には、歓声が起こったほどであった。アフリカから黒人を乗せたオランダ船が到着した時のことである。黒人は良い値でたちまち植民者に売られていった。これ以降、労働力の問題は十分解決されたと考えられた。奴隷はタバコ栽培や収穫に必要不可欠なものだと、当然のこととして受け入れられ、支配的な利権および規範を有する農園主によって継承された。

バージニアには2種類の階級の人間しかいなかった。恵まれた土地、無賃労働者や奴隷を所有する裕福な大農園主と、貧しい白人である。中産階級はまったく存在しなかった。

オランダはニューネザーランド(現在のニューヨーク)を開拓し、その資源を利用するという強固な目的を掲げて、植民地建設推進者に特別な条件を提供した。15才以上の人間50人で構成される植民地の開拓に成功した者は、すぐに統治権を持つ地主にするとされ、海岸沿いまたは航行可能な河の片側16マイル、あるいは片側の川沿いを所有することが許され、「居住者の状況が許す限り」奥地に入り込むことも認められた。地主の土地財産所有権は永久に認められ、毛皮と生皮を除き、領土にある資源すべての独占が与えられた。ただし、いかなる地主や植民地開拓者であろうと、羊毛や麻、綿、その他禁じられている材質で布を作れば流刑に処せられた。このような制約はすべて、独裁的といえるほどの権力を持つ企業、オランダ西インド会社の利権のためである。この会社は政策として、入植には寛容な褒美を与えるが、同社が扱う様々な製品との競合を禁止した。このこと自体、その後1~2世紀に顕著であった富の集中化の基本的な性質を大いに特徴付けている。地場産業が禁じられたり、あるいはその生産物がオランダ西インド会社だけでなく植民地の他の企業によって独占されていれば、必然的に土地所有そのものが巨額の私有財産をもたらす鍵となり、農業はそれに付随する要因となった。

地主の権力には比類がなく、文書による許可証なしに領土の周囲7~8マイル以内に近づくことはできなかった。その領土はまさに主権を持つ公国のようであった。大陸だけでなく、港や川、島があればそれもすべて含め、永久の権利が与えられた。法の施行は地主の特権であり、地主本人だけが即決裁判権を有し、無情にあるいは気まぐれにその権利を行使した。法律違反に対する判決を下すだけでなく、その法律自体を制定した。しかし、その法律は常に地主の利権と一致していた。役人や判事のすべての任命権に加え、立法権をも有していた。最後に領土を警備する権利や、植民地の財産と武器を利用する権利も握っていた。そしてこれらすべてを、「自分の意志と好みに応じて」行使することができた。またこうした絶対的権利は子孫および譲り請け人に引継がれることになっていた。

このように開拓当初に、川堤や海岸沿いさらには奥地にまで土地を持った貴族、あるいは塹壕内に打ち立てた独裁君主の一団の法律および慣習の中に米国の基盤が敷かれた。地主やその子孫から何世代にもわたって広大な土地を持つ一族が生まれ、彼らは富と権力を理由に米国経済史および政治史上、強大な影響力を持った。一番最初の広大な土地の保有による不幸な影響が米国の社会構造全体に染み渡り、それが独立革命の前後には特に顕著になった。それどころか、その影響は現在にも見られる。

労働者は意図的に最も低い地位に落とされ、様々な点において、社会構造の極めて低い位置に属していることを実感させられていた。労働者からずっと離れた高いところに個人的にも法的にも絶大な権力を持つ地主が存在し、一方の労働者は公共の事柄に関する小さな発言権という通常の市民権さえ与えられていなかった。市民権は完全に財力に左右された。これは貧しい多数の移民から公民権を剥奪し抑圧する容易な方法であった。市民権を手に入れる唯一の方法はそれを買うことであった。労働者をできる限り小さな隔離された階級に押しやるために、市民権には法外な値段が付けられた。労働者の階級を低くし市民権を奪う意図的な政策は、激しい怒りと憎しみを掻き立て、その影響は永続した。

ニューネザーランドで土地の押収が続く一方で、ニューイングランドでは北東地域の開拓企業の中で最も強力なプリマス会社によって、大胆かつ勝手に土地が没収された。ニューイングランドの植民地はいくつかの巨大な私有地に分割され、広大な土地は突然一握りの人間の手に渡った。その大きさは現在の州に匹敵するものもあり、明らかに汚職や共謀、詐欺、縁故などによって彼らの手に渡ることも多かった。この土地の分割に参加した一部の人間は横暴にも、土地に対する権利を主張し続け、それをありとあらゆる手段を使って強化した。状況変化を装った茶番が繰り広げられ、見せかけの民主主義の導入が図られたが、実質的な変化はまったく伴わなかった。

下層階級は真の民主主義政府であると思い込んでいた。イギリスは代議制議会を確立したのであろうか。代議制議会とは国民の投票に依存するはずのものである。しかし、投票権は完全に財産に基づくと限定することにより、少数の強力な大地主層は政府の権限を狡猾に剥奪し、自分達の利益になるように仕向けた。まず最初に土地を強奪し、次にそれを合法的に非課税にすると宣言した。

これによって必然的にある状況が生まれた。いたるところで地主がますます裕福かつ傲慢になる一方で、膨大な資源を持つこの新しい地において貧困が根づき、増加していったのである。税金はすべて農民およびその他の労働者階級に負わされた。商人も名目上課税対象となったが、間接的に商売をすることにより、税負担を農民と労働者に簡単に押し付けた。高利の融資と抵当がいたるところで行われた。

バージニアの大農園主、ロバート・カーターは祖父から財産を受け継いだ(祖父の土地と財産はあまりに莫大であったため、キング・カーターと呼ばれていた)。ロバート・カーターは、生産性の点で奴隷は白人労働者に太刀打ちできないと考えた少数派の1人であった。彼は、白人労働者を使った方がより多くの金が稼げると考えていた。白人労働者は住居や衣服、食料、見張りの必要がないのに比べて、黒人奴隷は病気や死亡、能力の低さから直接の金銭的負担となるからである。カーターは死ぬ前に自分の奴隷を多数解放した。しかし、こうした話は、南部の裕福な大農園主におもねって書かれたものだといえる。