No.298 米国の巨富の歴史(3):アスター家の財産の起源

OWメモ『米国の巨富の歴史(1)~(2)』(No.294およびNo.295)でもご紹介した、グスタバス・マイヤーズの著書『History of Great American Fortunes』から、今回は、都市部でどのように富が築き上げられていったかを示すため毛皮商人アスターの例を取り上げます。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

米国の巨富の歴史(3):アスター家の財産の起源

グスタバス・マイヤーズ

 1800~1870年にもっとも巨額の富をもたらしたのは、都市部における土地の所有であった。様々な事業から富が形成されたが、中でも土地は卓越していた。当時のあらゆる風潮は、都市部の財産所有に基づく特権階級の確立に都合が良かった。都市といっても、村のようなもので、1.5~3km四方の住宅地区の周りは畑や果樹園、牧草地や荒れ地が広がり、わずかな金額で買い取ることができた。商業と人口の増加および移民の継続的流入により、人口密度は毎年増加していたため、地価の上昇は必至だった。

 土地の価値を高めたのは集団労働であり、地主はそれを傍観していたに過ぎず、土地の保有以外ほとんど何もしていない。当時の地主から息子、孫と世代が下がるに従い、地主がすべきことはますます減り、遺産にしがみついているだけでそれは増えていった。必要な監督者を雇うだけで巨額の富が彼らのものとなった。熱心に働いたのは労働者である。道路が敷かれ、都市が区画され、公園が作られ、その他の公共施設が充実し、さらに子供が生まれ、移民が増えて、工場や倉庫、家が建設されればされるほど、地主の富は異常なまでに増え続けた。

 土地は、巨大な富の蓄積のための、容易で永続的な手段であった。地主が独占的に所有する土地は、人間に必要不可欠なものの根幹に関わっていた。人は商売や金がなくてもなんとかなるが、ただそこに横たわるためにも土地は必要だった。複雑な産業制度で特に需要の高かったのは工業や商業の集まっている中央部の土地で、そのため人口の大部分が集中していた。こうして土地を基盤に富を拡大していく都合の良い条件ができ上がった。

 土地を基盤に生まれた富豪の中でも群を抜いていたのが、アスター家である。1908年当時、その財産は約3億ドルに達していたと推定される。1916年の米国産業関係委員会の報告書は次のように記している。

* 最上位2%の富裕者が、米国の全財産の60%を所有する。
* 中流階級に当たる次の33%の国民が、35%の財産を所有する。
* 下位65%の貧困者が5%を所有する。

 報告書は、実際の富の集中化はこの数字よりもさらに激しかったと言明している。当時、最大の私有財産は10億ドルであり、この金額は貧困層に属する250万人の財産の合計に等しかった。つまり、貧困層は1人当たり平均400ドルの財産しか所有していなかった。

アスター家の財産の起源

 アスター家の財産の創始者は、1763年にドイツのウォルドフで肉屋の息子として生まれた、ジョン・ジェイコブ・アスターである。アスターは1783年に米国に移民し、1786年にニューヨークで毛皮商を始めた。当時、アスターも他の毛皮商人同様、インディアンを騙し、ラム酒やがらくたと引き換えに、最も高価な毛皮を巻き上げていたことは確かである。そしてその毛皮をロンドンで売り、巨額の利益を手にした。アスターはその利益を元手に中間業者を排して、自ら船を所有し、海運業も開始した。インディアンやニューヨーク西部の白人猟師から1ドルで購入したビーバーの毛皮は、ロンドンで6.25ドルで売られた。そうして得た利益で、アスターは次にイギリス製品を購入し米国へ輸入した。こうして1ドルの毛皮が生み出す利益は10ドルにもなった。

 当時の重大な犯罪は、インディアンに酒を提供することだった。酒がインディアンを堕落させ、破滅的な影響をもたらすことを知った米国政府は、厳格な法律と刑罰を制定していた。しかし、アスターの会社はこの法律に限らず、自社の利益に合わない法律はすべて破った。大量のウィスキーを密輸してインディアンを酔わせ、土地と毛皮を騙し取る商人の古典的策略が、空前の規模で行われた。インディアンに対するウィスキーの販売だけでも巨額の利益を生んだ。ある上院議員の報告によれば、ミズーリー川のインディアンに対するウィスキーの販売(1ガロン当たり25~50ドル)から、年間5万ドルもの利益が生まれていたという。

 アスターが富を増やすために使った手段は酒だけではなかった。アスターの会社、アメリカ毛皮会社はインディアンに対して、もう1つ狡猾な手を使った。それは毛皮の代金を現金ではなく、イギリスやアメリカの低賃金労働者(幼年労働者を含む)が生産した毛織物等の商品で支払う物々交換だった。運賃などの経費すべてを取り除いて1ドル相当になるこれらの商品と引き換えに、アスターは1.25~1.5ドルの毛皮を手にした。

 法律上、インディアンは一定の権利を有していたが、アスターの会社はその権利を無視したばかりか、侮辱した。それに対してインディアンが苦情を訴えると、米国政府、特に裁判所が迅速かつ寛大に最大限の保護と自由を与えたのは、インディアンではなく、アスターの会社に対してであった。その上、耐え難いほどの略奪や不正行為に対してインディアンが憤慨すると、有無をいわさず殺害された。そしてインディアンが反逆すると、緊急の使いがワシントンに遣わされ、すぐに兵隊が現地に派遣されてインディアンたちは虐殺された。これに対してインディアンは原始的な武器で対抗し、白人の使用人や商人を待ち伏せして略奪した。その商人の多くはアスターに雇われた者たちだった。

 インディアンを酔わせて騙し取り、挙げ句の果てにインディアンに襲われ殺されるかもしれない仕事に従事させるために、アスターが与えた報酬はどれくらいかといえば、10~11ヵ月でわずか130ドルであった。しかも支払は現金ではなく、法外な値段をつけた物品で提供された。すべて必要なものはアスターの店で買わなければならなかったため、1年分の必需品を購入した後には彼らの手元には一銭も残らないどころか、アスターに借金をしなければならないほどであった。

アスターの富の拡大

 法律を犯して毛皮取引を行っていたアスターは、東部においては自己に有利になるよううまく法律を利用した。西部では十数のインディアン部族の所有物を略奪することは合法であったが、公共の財産とされた東部で、アスターはそれを自分の財源に転用し、船会社の資本として利用した。

 商人や地主階級にとって、法律は柔軟性に富み、都合に合わせて利用できるものであった。この階級は事実上、政府の暗黙の許可または黙認によって、法の違反者であると同時に、監視委員の役目も果たしていた。自分の利権に合わない法律は一貫して破る一方で、自社の計画の優遇や利益拡大につながる法律を制定し、施行するよう要求した。インディアンの公正な扱いや人命の維持に最低限不可欠な法律でさえ、他の邪魔物同様、見境なく取り除いていった。アスターのような地主・商人階級が、事実上、どの法律を守り、どの法律を破るかを選ぶ絶対的な権力を持った。そしてその選択の犠牲者となるのは、いつも労働者階級であった。神聖であるべき法律が法律たり得たのは、有産階級に適用される時だけであった。法律は貧困者をいたるところで規制し、それに背けばすぐに簡易裁判にかけられ、刑務所に入れられた。貧困というだけで、従うべき法律と従わなくてもよい法律の選択に関する発言権はまったく与えられず、貧困者にとっての選択肢は、法律に従うか、刑務所に行くかのいずれかしかなかった。

 アスターの例に、当時の政府が商業利益に支配されていたことが端的に表れている。西部では略奪、詐欺、強盗、さらには虐殺に近いことまでをアスターに許し、東部では同じ政府が、アスターや他の船主に、国民の税収を自由に使わせた。当時から、税負担は常に労働者に重かった。米国の建国から1837年までの間に、大きな経済危機が9度も起こり、賃金労働者に辛い試練を与えたが、それでも政府が介入し、労働者を助けることはなかった。それどころか、同時期、政府は海運業者に公的資金を融資するのに余念がなく、返済の滞りにも極めて寛容であった。1779~1823年に、米国政府は2億5,000万円の税金を失ったが、それらすべてが海運業者の債務不履行による損失であった。しかし、それが刑事裁判に問われることはなかったのである。

 政府の地主および商人階級への優遇はそれだけでは終わらなかった。組合のストライキに対する法律は厳しく、裁判では謀反罪の判決が出ることが多かった。また、独占は法律によって禁じられてはいたが、その法律も施行されない限り効力を持たないため、有産階級の利権が優先されて法律が施行されない状況では、独占が存在した。また有産階級の買収は行政機能にも立法機能にも及んだ。事実、アスターは独占から多くの利益を手にし、西部での毛皮の独占が他の独占の基盤となった。ある時など市場で木材を扱う商人は彼1人だけになり、価格の決定が自由にできた。

 しかし、こうした商売のやり方、土地の取得方法は、アスターだけに限ったことではなく、米国経済においては彼と似たり寄ったりのやり方がいたる所で見られた。南部の綿花農園も政府の土地を盗み、そこで得た利益で黒人奴隷を買い、優雅な貴族社会に身を置き、派手な生活と名誉をひけらかした。またアラバマ、ジョージアなどにおける土地の獲得についても、インディアン部族の居留地を収用するにあたって、アスターと同様の手口が使われた。インディアンをウィスキーで酔わせ、その土地を奪った後に、政府を使ってインディアンを強制的に西へ移動させた。

 アスターはインディアンを利用した毛皮取引で巨額の利益を上げると同時に、さらに別の不正行為により、ニューヨークの州政府や地方政府の力を利用して、ただ同然で、広大な土地や他の特権を手にし、富を増やしていった。

 市の役人が市の土地を自分のものにしたり、後援者や仲間に提供する場合、2つの方法がとられた。水面下の土地を譲渡する方法と、市の不動産を譲渡する方法の2つだった。当時、マンハッタン島には、池や小川、沼が点在し、ハドソン川やイーストリバーが今よりも内陸まで伸びていた。個人がいわゆる水の贈与を受けるということは、浅瀬の水の下にある土地を譲り受けることを意味し、防水壁などで水を遮り埋め立て地を作る権利を与えられた。こうした水の贈与に端を発した土地が、現在は、途方もない資産になっている。

 近視眼的かつ不正に、水の権利や市の土地を譲渡した市の役人の主ないい訳は、市の財源を確保するためというものであった。これは事実だった。つねに腐敗していた市の役人が資金を浪費したため、市は常に借金を抱えていた。土地を処分するもっともらしい理由として、借金が利用されたという見方もある。水の贈与と土地を不正行為によって手に入れた者たちは、次に何を行ったのであろうか。自分の資金ではなく、公的資金を使って土地の埋め立てを行った。水底の土地は埋め立てられ、下水道や道路が整備されたが、地主はその費用をほんの一部しか負担しなかった。市当局との詐欺的共謀により、地主は開発費用の大半を納税者に押しつけた。

 アスターはこうして19世紀初頭の10年間に、マンハッタン島の土地を買い漁り続けたが、それはその土地を使用するためではなく、保有していれば将来、それが何千倍もの価値を持つ見込みがあったからである。

 有り余る財産を積み上げたアスターは、すぐに自分よりも豊かでない人々の弱みにつけ込み、彼らの財産まで自分のものにするようになった。アスターは担保と引き換えに巨額の金を融資に回した。アスターは金融や産業の混乱に乗じて、債権者がぎりぎりのところまで追い込まれ、もはや返済が継続できなくなったところで登場し、相場より安く、広大な土地を自分のものにしていった。土地という安全な担保をもとに金を借りようとした者は誰もが、アスターが極めて融通のきく人物であると感じた。しかし、法律で保証されている要求のほんのわずかでも義務を果たせなくなれば、哀れな債務者は土地を没収されたのである。