グスタバス・マイヤーズの著書『History of the Great American Fortunes』から、19世紀の米国の資本家、毛皮商人のアスターが巨万の富をいかに築き上げていったかという部分を前回に引き続き抜粋します。19世紀の米国の資本家はほとんど例外なくアスターと同様の手法で財をなしてきましたが、その中でもひときわ巨大な資産を築いたのがこのアスターでした。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。
米国の巨富の歴史(4): 米国の大富豪、アスターは
いかにして富を築いたか
グスタバス・マイヤーズ
商人や地主たちは金融業という極めて重要なビジネスの創造と支配に乗り出した。政府の助けによって、一般大衆のお金に対する銀行業務およびその操作、さらには通貨発行の制限と増加を掌握した一握りの人間は、即座に途方もない権力を獲得した。それは強制力を持つ絶対的な権力であり、多数の人間の生産物を少数の排他的な仲間の手に移す強力な手段でもあった。こうして銀行家は、支配者の中の支配者として、最終的な搾取者となった。労働者階級は完全に、商人、製造者、地主という有産階級の権力下に置かれ、銀行を所有できない有産階級自身も金融機関に翻弄された。
銀行は様々な理由にかこつけて、いかなる場合でも融資を拒否することができた。銀行は実際、誰かを破滅に追い込むことも、儲けさせることも合法的に行うことができた。銀行を所有しているのは商人や地主が多かったため、その力は競争相手つぶしに使われた。銀行家は自分たちへの融資には途方もない低金利を適用し、それ以外の融資には高金利を適用した。名目上、一定の利子基準を作るという規定があったが、様々なごまかしでそれを簡単に逃れ、高金利を課していた。
彼らの最も強大な権力は、貨幣の「製造」にあった。普通何かを製造するには、工場や資材、労働力が必要である。しかし、銀行家は何もないところから銀行券を作り出し、法律によって強制的にそれを相手に受け取らせた。ただし、法律によって支援されていない孤立した商人や地主は貨幣を作り出すことはできなかった。
ところで銀行は、貨幣発行の許可をどうやって手に入れたのか。憲法は、銀行に貨幣を発行する権利を与えることを国家に禁じていたし、憲法は民間工場による貨幣の鋳造を禁止していたはずであった。
ここでも政府を支配する階級の力がものをいった。憲法が商業目的の前に立ちはだかると、臨機応変に司法的解釈が加えられ、結局いつも支配階級の利益になるようになった。商人階級が、国家が作った銀行に貨幣を発行する権力を与えるよう要求すると、裁判所は憲法で発行が禁じられている「信用状」には銀行券は含まれないとする趣旨の判決を下した。これは驚くべき解釈であったが、裁判所の決定および判例により、それが実質上の法律と見なされ、いかなる憲法よりも拘束力を持った。
威厳ある法廷の決定が、途方もない汚職と詐欺を続ける道を開いた。銀行設立許可の請求は跡を絶たなかった。ほとんどの議員が、商人が提示する汚職の誘惑に容易に負けた。金持ちの家族が自分たちの意見を通すために議会に送った議員もいれば、賄賂で簡単に買収される議員もいた。
銀行設立の許可には必ず賄賂が関係した。実際、買収が余りにも頻繁に行われていたために、1812年にニューヨーク議会は全議員に「投票その他に対する報酬としての利益は受け取らない」と誓わせる決議を通過させた。ただし、この決議は明らかに大衆の目を欺くためであった。
長年にわたり銀行、特にニューヨーク州の銀行は、法律によって自己資本の3倍もの銀行券の発行が許可されていた。実際の正貨(金貨や銀貨)は船主の手にあり、保管されているか、紙幣が使えないアジアやヨーロッパに大量に送られていた。1819年までにニューヨークの銀行は1,250万ドルの貨幣を発行したが、そのうち名目貨幣と兌換できる正貨は総額200万ドルしかなかった。正貨で裏付けされていない銀行券は無責任な支払いの約束でしかなかった。では何に使われたかといえば、労働の代価として労働者に支払われた。銀行券の価値は下がり続けることがわかっていたが、労働者はそのままの価値を持つものとして受け取らなければならなかった。いざその紙幣で食料を買ったり家賃を払おうとすると、その銀行券の価値は額面の2分の1、あるいは3分の1になっていた。経済危機の時には、現金化さえできないことがあった。このようなプロセスを通じて銀行家は、支出をまったく行わずに国のかなりの資産を所有することができたが、一方の労働者は、銀行制度が始まる以前の2倍、3倍の生産物を要求されることになった。
1837年の恐慌は、資本家体制の混乱によって生まれた。ニューヨークの銀行は公的資金を550万ドル以上預かっていたが、そのうちの100万ドル、あるいは利息分だけでも払うよう要求されると、それを拒絶した。一般大衆はもっとひどい経験をした。大衆が換金を求めて銀行に押し寄せると、銀行は武器をもったガードマンとチンピラを多数雇って警備させ、大衆が殺到したら発砲するよう命じた。
これはどの州でも同様であった。1837年5月、米国の800以上の銀行が支払いを停止し、政府の預金3,000万ドルにも、一般大衆の1億2,000万ドル相当の銀行券に対しても、1ドルの払い戻しにも応じなかった。正貨はまったく流通しなくなった。
嵐が始まった。あらゆる所に貧困が蔓延し、破産と乞食であふれた。ニューヨーク上院委員会は「米国の幾千の製造業者、商人、その他の営利団体は、この危機によって崩壊または麻痺した。このすばらしい都市で、長期の事業を通じて能力を獲得した無数の個人が、家族とともに赤貧となった」と報告している。ニューヨーク市に住む肉体労働者の3分の1は、完全にまたは実質的に失業した。1万人以上がひどい貧困に陥り、隣人の慈悲なしには冬を乗り越えることすらできなかった。私設救貧院や公共あるいは慈善施設は人々であふれたが、それでも収容できない受難者が1万人いた。
議会の報告書が指摘するように、当時の体制は国家を必然的に乞食や浮浪者、犯罪者であふれさせるよう計算されたようなものだった。1830年から1907年に有罪となった犯罪者の大部分が財産に対する犯罪者だった(91.29%が財産、8.66%が人に対する、または道徳に背く犯罪であった)。
当時の体制は、貧困者をたびたび窃盗や物乞いに追い込んだ。それは財産権のために制定された、驚くほど厳しく残酷な法律が厳格に施行されたためであった。窃盗で有罪になった者は大抵、終身刑となった。住居侵入罪の刑期もわずかな差こそあれ同じだった。文書偽造や重窃盗罪は5年から7年だった。多少の差はあったものの合衆国全土でほとんど同じであった。しかし、これが適用されたのは白人だけであった。黒人奴隷犯罪者が法律において優位な立場にあったのは、白人は「自由民」の労働者だったが、黒人は「所有物」であり、奴隷を刑務所に送ることが損だったからである。
乞食や浮浪者に対する法律も同様に厳しく、6ヵ月または1年の刑務所か、労役所送りとなった。戦争や恐慌の後必ずそうであるように、1837年の恐慌の後、犯罪、乞食、浮浪者、売春などが急増した。銀行階級が大きな詐欺行為を働いていることは間違いなかったが、その階級で刑務所に行く者は1人もいなかった。
アスターは1836~37年の金融危機の時、米国の株式、債券、抵当権などを購入してさらに富を増やした。彼は困窮する抵当保有者から、額面以下の金額で抵当権を買い取った。そして支払期限がくると抵当流れ処分にし、極めて低価格で担保物件を購入した。恐慌は富裕者に、簡単な方法で一般の生産や財産の所有を増大させることを可能にした。小規模な地主は1837年の恐慌でますます縮小し、自営業者の数は大幅に減少した。両階級の大半は賃金労働者になり下がった。
一度土地を手にしたアスターは、それを決して売らなかった。そして一定期間、大抵21年間リースで土地を貸す方法を最初から採用し、その方法が子孫によって受け継がれた。アスターは、都市部が広がって周囲の地価が上がるまで、中心部をまったく開発しなかった。土地や建物に対する周りの圧力があっても開発を拒んだ。その土地の必要性が高まり、彼の条件を周りが呑むまで待ち続ける策略であった。かなり長い間、誰も彼の土地に興味を示さなかったが、人口やビジネスが増大すると土地は必要不可欠になり、定期貸借権でその土地が借りられていった。
アスターの定期貸借権に対する条件は極めて厳しいものであった。借地人は住居や事業用地の経費を自己負担しなければならなかった。21年間リースの間、地価の5~6%の賃借料をアスターに払うだけでなく、すべての租税や修繕費などを払わなければならなかった。借地権の期限が切れると、建物はアスターの所有になった。アスターの土地を借りている仲介の地主、投機的な借地人や商売のテナントは、借家や建物を建ててアスターから取立てられる金を捻出しなければならなかった。そのためには労働者に高い家賃を課すか、商品に法外な値段をつける必要があった。いずれにしても生産者や労働者が最終的な負担を強いられた。
しかし、建前上は民主主義と普通参政権を標榜する政府が、なぜ有産階級に政府機能を管理させることになったのか。有産階級はどうやって選挙に影響を与え、法律の制定や回避を可能にしたのか。
貴族政治を優れたものだとする古い英国の価値観が米国人の思想、習慣、法律に深い影響を与えていた。一般大衆は、かつて国王を尊敬するよう教え込まれたように、財産の不可侵性を尊重することを様々な方法で熱心に教え込まれた。教会はすべての者に布教しているように見えて、実際は資産家の寄付に主に依存していた。また、影響力のある聖職者自身が資産家であった。大学の教えや政治経済学者の教義は潜在的に、商人の利害と一致していた。新聞は資産家の広告によって支えられていた。立法府は大半が、司法府は完全に、弁護士階級で構成されていた。弁護士自身は金持ちを依頼人としており、貧乏人の弁護に熱心な弁護士はほとんどいなかった。何百年もの間どの政府も、財産の不可侵性は人命よりも重く、資産家は社会に対し犯罪や危険をもたらすことはほとんどないという、一貫した原則に基づいて進んできた。
しかし、民衆からの要求が高まった結果、1840年頃までに、ほとんどの州が白人に限った成人男性に参政権を与えた。資産階級は、全米に拡大する参政権にどのように対抗したか。投票に対する組織だった買収が始まった。銀行、鉄道、保険会社、その他の特権を支持する投票を行うよう特定の議員を買収する政策が、地方政治のレベルにまで浸透し、投票者を腐敗させた。詐欺の商売や土地に対する強制取立て金の一部で、資産家は選挙における票の買収を行った。
買収できない有権者階級には新聞や政治討論など、多くの方法で影響が及んだ。政治団体は、間接的に資産家によって支配され、事実上、富による検閲が行われていた。既得権益集団が認めない問題を新聞が提起すれば、即座に広告を取り下げるなどの抵抗にあった。こうして政党は富の支配の下に入っていった。
米国一の金持ちとなったアスターの財産は、1847年、推定総額2,000万ドルとなり、2位の200万ドルを大きく引き離していた。1844年の統計では米国の製造業の投資額は総額3億719万6,844ドルであった。当時のアスターの財産は、合衆国全体の綿、羊毛、皮、亜麻、鉄、ガラス、砂糖、家具、帽子、絹、船、紙、石けん、ろうそく、荷馬車等、米国が文明化に不可欠なあらゆるものに投資した金額の15分の1に及んだ。
1848年にアスターが死んだ時、約2,000万ドル分の財産の大半は当時56歳であった息子ウィリアム・B・アスターに残された。大手新聞社ニューヨーク・ヘラルドは、その社説で、「アスターの財産の半分は、本当はニューヨーク市民のものである。なぜなら過去50年間にニューヨークの知識、産業、企業、商業の集積によって、彼の土地の価値が2倍に増えたのだから」と記した。彼が40年、20年、10年、5年前に買った農地や土地は、ニューヨーク市民の産業によって価値が上がったのである。
彼が死んだ時、ニューヨークでは居住者の125人に1人が乞食で、人口の83人に1人は生活保護を必要とした。
地主、商人、銀行家階級は、自分たちの富をさらに増やすための永久的な権利、営業権、特権、控除などを獲得するために堕落した政府を歓迎した。それによってさらに大きな富を蓄積することができただけでなく、法的にも大衆とは一線を画した特権階級を築いていった。
社会は不条理なほど逆転していった。社会に奉仕しているのは身分の低い者たちで、略奪され、差別された。彼らは服、靴、帽子、シャツ、下着、道具、その他生活に必要なものを作る人々であった。彼らは土地を耕し、食べ物を作った。しかし、これら生活に不可欠なことをしている人々は、社会によって非難され、最も貧しく、厳しい暮らしを余儀なくされ、不安定な生活を送らされた。病んだり、不具になったり、老齢になると、資本階級によって廃棄物のように捨てられ、細々と惨めな生活に追いやられ、餓死するか、刑務所に入れられた。米国では浮浪者は罪とされ、働くことのできる失業者やホームレスは浮浪者と見なされ労役所や刑務所に入れられた。立法機関が少数の特権階級の人々に残りの国民から財産を取り上げる権利を与え、この略奪のプロセスによってますます多くの国民が奈落の底に落ちていった。まるで強盗の被害者が、強盗されたことによって逮捕され、刑務所に入れられるようなものであった。
おもに都市部の土地しか持っていなかった地主は、鉄道、電信、至急便など、全米を網羅するものの一部所有者になった。それとともに、彼らの所有権や富の創出に対する意欲も増大していった。刑務所は囚人であふれ、そのほとんどが財産に対して犯した犯罪であった。しかし、コミュニティから土地や鉄道を強奪した者たち、いくつもの方法で詐欺行為を行った者たちは、道徳的には有罪でも、強奪品を持ち続けることは許された。彼らにとってそれがもっとも大事なことなのである。この強奪は、宮殿を建造しようとする貴族政治のための基盤となった。そして資産家が所有または影響力を持つ新聞や雑誌は、民衆に対して、どのように考え行動すべきかを教えた。財産に対して行われる犯罪と財産のために行う犯罪はまったく違うものであった。それが財産が支配するシステムの勅令だった。
ウィリアム・B・アスターは1875年に83歳で死亡し、1億ドルの価値を持つ不動産のほとんどは、息子のジョン・ジェイコブ2世とウィリアムに残された。またジョン・ジェイコブ・アスター2世は、1億5千万ドルの富を1890年に息子のウィリアム・ウォルドフ・アスターに残した。ウィリアム・アスターは、1892年に7,500万ドルの大部分をその息子ジョン・ジェイコブ・アスターに残した。