No.304 「貧富の差のない社会を築くために」に対する読者からのご意見と回答

今回は、「貧富の差のない社会を築くために」(NO.287)に対して、読者からお寄せいただいた感想と、それに対する私の返事をご紹介します。

「貧富の差のない社会を築くために」
に対する読者からのご意見と回答

読者: 今回のテーマは非常に興味深いものでしたので感想を送らせていただきました。貧富の差のない社会においては緊張が少なく、社会的なコストが低く、そのような社会を目指すべきであるという考え方に関してはまったく賛成です。このことは日本で経済移民を認めるべきかの議論や、北方領土をロシア人の住民を引き取ってまで積極的に行うべきかといった日本の進路の選択肢に密接に絡み合う基本原理であると思います。この原理そのものに意義をはさむ余地は少ないので、相違点だけを述べさせて下さい。相違点を挙げると、以下の2点になります。

<<その1>> 社会的二極化を防ぐために税の累進化を進めるといった税率による手段をメインに置くことには若干の疑問があります。

回答:  累進課税がもたらす結果に目を向けてください。米国では、1980~1999年よりも1950~1980年の方が繁栄していたという主張を大部分の米国民が認めています。米国の税率は1980~1999年よりも、1950~1980年の方が累進性が高かったのです。また、日本でも、1990年以降よりも1960~1990年に著しい成長が見られたことを多くの日本国民が認めると思います。米国同様、日本でも1990年以降より、1960~1990年の方が税の累進性が高かったのです。

読者: <<その2>> 二極化のない社会の代表が日本で、反対が米国というような印象を受けますが、日本については賛成ですが、米国は対極に存在するとは思えません。西洋や日本に比べれば、格差は激しいが、対極にあるのはロシアや中国、北朝鮮、その他低開発国だと思います。

回答:  いわゆる「先進国」の中で最も二極化の激しいのが米国です。米国その他の先進国を発展途上国と比較しても意味がないと思います。ご指摘の通り、発展途上国や低開発国のほとんどが激しい二極化にあるからです。

読者: まず、所得による二極化についてはどこに境界を引くのかが非常に曖昧であるという問題があると思います。それは日本のような社会と、インドネシアや北朝鮮のような社会ではまったく違うと思います。後者の国々ではもはや回復不可能なほど二極化が進んでいます。日本においてはどこに境界線を引くのか非常に難しい問題だと思います。むしろ「人間は社会に一定の貢献をしていると意識し、そこから満足行かないまでも、それ相応の見返りを受けている」と認識するときには、たとえ所得がそれほど高くなくても満足できるのではないでしょうか。それが中間層というものであり、社会の根本を支えていると思います。

回答:  富裕者や権力者が、政府を買収して自分達の税金を軽減させる一方、買収するだけの金を持たない一般国民に増税させたり、高額所得者の減税分を国の借金で補填させたりしている状況に、多くの国民はそれほど長くは耐えられないだろうと私は考えます。

読者: 累進課税による、所得の操作による二極化云々よりも、社会に参加しているという意識を持てない人を作り出さないような政策こそが重要だと思います。そのために全国民はこれまで通り、同一水準の教育を受けるように施策すべきであり、年齢によるリストラを防ぐような社会的な仕組みが必要だと思います。

回答:  「同一水準の教育を受けるように施策すべきであり、年齢によるリストラを防ぐような社会的な仕組みが必要だ」という意見には私も賛成です。しかし、日本社会は現在それを実践しているでしょうか。

読者: また若年層が何をしたいかわからずにフリーターになるような問題も、二極化の1つだといえます。たとえ5,000万円の年収を得ようとも、それが密航斡旋のような職業によって得たものなら、その人は社会の安定要因にはならないと思います。行きすぎた累進課税は勤労意欲をそぎ、浪費を奨励するといえます。税率が同じでも額が大きければ、その人はより多額の税金を払うのであり、率による納税を行う限り本来が累進的だといえます。それよりも、所得を得ているのに税金を払っていない人が多数存在する不平等な状態を先に何とかして欲しいというのが私の考えです。

回答:  累進課税が勤労意欲をそいだり、浪費を奨励する実例を私はこれまでに見たことがありません。税の累進性が現在よりも厳しかった1960~1990年の日本を振り返っても、それは明らかではないでしょうか。税金を寄付に置き換えて考えてみて下さい。慈善活動のための寄付についても、貧困者と富裕者が収入から同率の金額を寄付すべきだとお考えでしょうか。大半の人は、貧困者が金持ちと同率の寄付をする必要はないと考えるはずです。ではなぜ税金は、富裕者と貧困者が同率を支払うべきだと思うのでしょうか。また、所得の多寡は完全に努力の度合いによるものだとお考えでしょうか。私はそうは思いません。確かに努力も必要ですが、それと同じくらい幸運によるところが大きいと思います。健康、能力、家柄等で他の人よりも幸運な人がいるのです。所得税の累進課税とは、そうした不平等な「運」の配分を補正することによって平等な社会を築こうとするものだと思うのです。最後に、税率をゴルフのハンディに置き換えて考えてみてください。ハンディがあるからといって、ゴルフで勝ちたいという意欲が失せるでしょうか。所得税の累進課税はゴルフのハンディとまったく同じことではないでしょうか。

読者: 次に米国が自由競争の社会でそれによって二極化したという件ですが、それは逆であり、完全な形での自由競争ができないから二極化したと思います。そもそも、人種、民族、言語、家庭環境等において出発点からかなりの格差が存在する社会であるから、それを克服して社会的な成功を収めるものすごいエネルギーを持った人間が現れ、米国はすごい競争社会だという印象が強いのではないでしょうか。ただ、ほとんどの人はそれを克服できずに埋没しているのではないでしょうか。自由競争の中で二極化しているのではなく、すでに二極化(固定化)している社会の中で、対流が発生しているというのが印象です。その意味で米国は日本より、ものすごい身分社会だといえます。詰まるところ、日本においてもかなり激しい競争(横並び意識)が存在していて、米国における競争(階級闘争)とは異なる競争であり、まったく質の異なるものであり、それらを単純に所得面から比較することには無理があると思うのです。

回答:  読者がここで示してくれた米国の印象は、米国のプロパガンダによるものであって米国の史実に基づくものではありません。米国が多数の人種、民族、言語から成るのは次の理由によるものです。

(1) アングロサクソン人が米国先住民を征服し、彼らの土地を奪った。
(2) 奴隷としてアフリカから黒人を連れてきた。
(3) 奴隷制が廃止されると、今度は奴隷同然の条件で働かせるために、中国人を無理矢理米国に連れてきた。
(4) メキシコの40%の土地(現在の米国西部に相当する)を奪い取った。
(5) 低賃金で働かせるために、アイルランドやイタリアといった国から最も貧しい人々を米国へ連れてきた。

少数の裕福で特権を持った資本家が米国東海岸を植民地化しました。また少数の裕福な地主と資本家が、イギリスとの独立戦争において指導的役割を果たし、米国を独立に導きました。そして大多数の貧困者ではなく、限られた少数の金持ちを優遇する米国憲法を起草したのです。さらに、少数の裕福な地主と資本家は政府を支配し、歴史を通じて永遠に自分達に利益をもたらすように法律を制定し、施行しました。地球上で最も金権主義の強い国が民主主義国家を装うのを見るにつけ、歴史上最もひどい偽善的な欺瞞だと強く感じます。

思うに、今日の日本人の大半が抱いている米国像は、第二次世界大戦後から20年間の米国に対する当時の日本人の印象が影響しているようです。当時の米国は、それ以前、以後と比べても、米国史上最も良い時代でした。その素晴らしい20年間というのは、少数の富裕者が貧しい大衆をひどく略奪した結果起こった大恐慌がもたらしたものです。当時、苦しむ米国人は、もう金持ちに略奪されたくないと願い、フランクリン・D・ルーズベルトを大統領に選びました。ルーズベルトは競争や独占を取り締まる法律や規制を制定したり、労働組合を強化したり、所得税、相続税の累進性を高めるなど、平等な社会を築くためにさまざまな改革を行いました。第二次世界大戦後の20年間に日本人が目にした米国は、典型的な米国ではありません。フランクリン・D・ルーズベルトのニューディール政策の結果、変貌を遂げた米国の姿だったのです。しかし1972年、富裕者と権力者が金の力にものをいわせてリチャード・ニクソンを大統領に就任させてからは、自分達の利権を満たす政権と議会を次々に築いていきました。そして少数の金持ちと権力者を代表する米国政府は、フランクリン・D・ルーズベルトの民主的な改革をひとつずつ捨て去り、本来の金権主義政府への回帰を果たしたのです。