No.325 米国に戦争なしの繁栄はあり得るのか

今回は、イズィー・ストーンの著書『The Truman Era』から「米国に戦争なしの繁栄はあり得るのか」に関する記述を抜粋しました。この著書は、トルーマンが政権に就いていた1945~53年に関するものですが、財界に支配された米国政権が軍需を減らせないために戦争を続けるしかない今の状況とまったく同じであることがよく理解できるはずです。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

米国に戦争なしの繁栄はあり得るのか

イズィー・ストーン著『The Truman Era』より抜粋
1952年6月24日 ニューヨーク

 戦争前夜の大騒ぎや軍需、そして戦争そのものなくして、アメリカ合衆国は経済を発展させ続けることができるのであろうか。

 もし、米国が繁栄するには戦争しかないのであれば、他のことはどうでもよくなってしまう。ロシアが共産主義であれ資本主義であれ、またスターリンが妥協しなかろうと協調的であろうと問題ではない。ロシア勢力が昔の境界線まで撤退しようと、エルベ河とドナウ川沿いに依然として残っていようと問題ではない。中国が共産主義国のままであろうと、毛沢東が蒋介石を呼び戻し後を継がせようと、まったく問題ではないのである。

 もし、戦争なくして米国が繁栄できないのなら、板門店で北朝鮮と韓国の和平合意を阻む障害がなくなるたびに新しい障害が見つけられるように、1つの戦争熱が消えるたびに米国はまた新しい戦争の口実をでっち上げることだろう。

 だからといって米国とロシアの不和が真実ではないとか、米国の指導者が平和を求めるというその言葉が偽りだとか、和解に到達するのは本当は容易ではないというつもりはない。単に、人間同様、国家もその発言だけでは判断できないということなのである。

 不安や最も楽な方法、すなわち正気の時に認めるにはあまりにも恐ろしい無意識的な確信は、人間だけでなく国家の行動にも影響を及ぼす。米国が平和を恐れているというのは、共産主義のプロパガンダだといわれている。しかし、米国の商業誌、経済誌を見れば、軍需景気が去ったらどうなるかという恐怖にいかに企業が取り憑かれているかが十分に理解できるはずである。

 これらの不安は、ビジネスマンが『プラウダ』(元ソ連共産党中央機関紙)で読んだり、ラジオ・モスクワで聞いたことに起因するものではない。

 人は2つの密接に関連した、しかし異なる質問を混同させることが多いため、問題が不明瞭になる。1つ目の質問は米国が戦争なしに繁栄できるかで、その答えは「できる」である。

 1920年代、米国は戦争なしに繁栄し、30年代には戦争なしに復興した。米国は両方の経験から学んだ。米国が戦争前の大騒ぎや軍需、戦争そのもの抜きには繁栄できないということは、平和を求める闘争において敗北主義者になることであり、論理的にも経済的にもそれは真実ではない。

 しかし、もう1つの質問は難しい。それは、米国人および米国政府が、戦争なしに米国の経済問題を解決するという共通の目的に対して意志と知性と意識を奮い起こすことができるか、ということである。

 米国はずっとインフレ傾向の中でお祭り気分を味わってきた。米国経済を「浮かれさせ」続けている飲み物の主成分は、新たな戦争のための準備である。米国が冷静さをとり戻すのは不可能だと決めつけるのは間違っているかもしれない。しかし、浮かれた男が酒場で飲み過ぎても死ぬことはないと見るのもまた間違いであろう。

 米国は戦争騒ぎや軍需、あるいは戦争そのもの抜きで繁栄することができる。しかし、そのためには痛みを伴う調整が不可欠である。平和の見通しがはっきりしないのは、その調整が痛みを伴うためである。

 ある意味で米国は、外国貿易においては自由企業制を許可しながら、国内経済では自由企業性を規制した状況に適応する必要があるかもしれない。非共産主義世界は、戦争騒ぎを理由に米国議会からの恵まれた施しに永久に依存し続けることはできない。結局、平時に非共産圏が米国製品にとって安定市場となるのは、それと引き換えに、米国市場での自由な貿易でドルを稼ぐことが許された場合のみである。したがって、平時の米国を繁栄させるには、低い関税が欠かせないのだが、米国企業はすでに海外からの輸入に対して規制強化を求めている。

 米国政府が民間企業と共に、あるいは経由して、また時には対立してでも米国経済の活動を最高レベルに保たなければ、非共産主義世界は繁栄できない。それは、関税障壁を低くすることと同様、民間企業の利益を無視することによってしか達成されない。そこが問題なのである。

 不況につながるのではないかとして、米国は平和を恐れているという共産主義者の主張に対し、1952年6月の『ニューヨークタイムズ』紙にその回答となるJ.K.ガルブレイス教授の記事が掲載された。平和になったとしても、大規模な住宅建設や公共事業プロジェクトなどの政策により繁栄を促進することはできるとガルブレイスは記している。「つい最近わかったように、ミズーリー川はまだまだ人間の思い通りにはならないのである」と彼は述べたが、ミズーリー川よりもさらに荒々しいのは民間利益であり、それが軍需に代わる代替分野の隆盛を妨げている。

 ガルブレイス教授は、米国国内や海外の生活水準を上げるために政府主導で支出を行えば、戦争の大騒ぎや軍需に代わる効果が上がるとして、米国が平和を恐れているという共産主義者の主張が間違っていることを証明しようとした。実際に、そうした手段をとれば軍需や戦争など必要ないのである。

 しかし、国内の大企業や財界に嫌な顔をされるくらいなら、スターリンを敵に回す方がずっとましである。さらにミズーリー川やセントローレンス川の氾濫を食い止めるために議会から予算を出させるよりも、共産主義の封じ込めの名目で予算を出させる方がはるかに簡単なのである。

 米国の生産性は驚異的に伸びた。戦争が米国を滅ぼすのに対し、平和は我々の生きている間に米国内の貧困を撲滅し、そして海外の貧窮を軽減するであろう。しかし、こうした政策こそ、1932年の大統領選にルーズベルトが勝つと同時に副大統領の座から外されたワレスが掲げていた政策である。また、これこそがその昔「共産主義的だ」としてばかにされたニューディール政策なのである。

 軍需と同レベルの需要を他の分野で肩代わりするには、わずかばかりの公共事業では足りない。結局は、戦争で新しい貧困街を作るか、または平時に古くからの貧困街を一掃するかのいずれかなのである。必要とされる支出と政策の規模には、どのような政治家も二の足を踏む。ごく小規模な住宅政策を採用したタフト大統領でさえ共産主義者と呼ばれた。現在、軍備に使われている数十億ドルを国民生活の向上のために使おうなどと、誰がいい出せるだろう。

 平時の繁栄のために必要な経済政策を、ただ紙の上で計画するだけなら簡単である。難しいのは、これらの政策を実現可能とする政治的決意を奮い起こさせることだ。冷戦は大惨事に身を任せる方が気楽だという雰囲気を作り上げた。平和の主たる障害はここにある。