前回に続いて、吉川元忠著『マネー敗戦』(文藝春秋刊)からの抜粋をお送りします。このOur Worldでは、「米国はいかにして日本を滅ぼしたか ―― 1985年プラザ合意の教訓とその影響」(No. 64, No. 65)および「日本政府は外貨準備高をいかに浪費したか」(No. 74, No.75)などで、日本から米国に米国債の形で流れた資金が、米国の政策によっていかに目減りしてきたかについて、ニューヨーク在住のエコノミスト、マイケル・ハドソンに依頼して、主に米国からの視点で取り上げてきました。それを読まれた読者数名から推薦された『マネー敗戦』の中で著者の吉川氏は、日本のメディアは、日米貿易摩擦など、貿易やモノの流れにのみ焦点を当ててきましたが、実はその裏で日米マネー戦争ともいうべき事態が進行していたと指摘しています。最後に、ハドソン氏からのコメントも加えてあります。本稿をお読みいただくと同時に、是非本書をお買い求めいただき、ご一読されることをお勧めします。皆様からのご意見をお待ちしております。
『マネー敗戦』(2)
吉川元忠著(文藝春秋刊)
プラザ合意
85年9月、先進5ヵ国(G5)の蔵相は、ニューヨークのプラザ・ホテルで、貿易不均衡を解消するためにそれまでのドル高を是正することに合意し、声明を発表した。いわゆる「プラザ合意」である。プラザ合意を受けての各国の市場介入により、ドルはたちまち下落した。合意当時の1ドル=240円前後から200円に接近するのに3ヵ月も要しない急激なドル安の展開である。しかし、その後もベーカー長官を始めとする米政策当局者や、フレッド・バーグステン(国際経済研究所所長)といった「専門家」の度重なるトークダウン(口先下げ介入)により、ドル安に一応の区切りがつくのは1ドル=150円ほどに達した87年2月、G7のルーブル合意においてであった。
わが国では政府も民間も、モノ作り部門における円高対策を論ずるのみで、日米間のマネー問題を避け、これをタブー視してきたのではないか、とさえ感じられる。80年代の初めから日米間の金利差やドル高の趨勢を誘因として、膨大なジャパン・マネーが米国に流入したが、急激な円高・ドル安で、それら日本のドル資産は4割も価値を失ってしまった。米国債を買いまくった生保などの機関投資家、証券会社の勧めるままにそれを購入した個人投資家に、巨大な為替差損が発生したのである。ドルの急激な減価は、日本がドル債を積み上げたところを見定めたようにやってきた。
81~85年の経常黒字約1,200億ドルのうち約半分を日本は対米還流していたといえるが、プラザ合意によって生じた日本の対外純資産の為替差損は、約3.5兆円に達したと見られる。この重大な結果を導いた原因は、日本からの巨額の対米投資が、貿易同様、「ドル建て」で行われたことである。投資額が積み上がったところで、ドルが大きく切り下がった。大規模な資本の流入が、流入国の通貨建てで行われるという例は、歴史的にも、また現代の国際社会の常識に照らしても、めずらしい現象だといって良いだろう。歴史的には前回述べたビクトリア循環の時代の被投資国の例を見れば明らかであろうし、現代の国際経済においては、やはり相当規模の資本輸入を行っている中南米諸国と比較してみるといい。これらの諸国では、資本の輸入をメキシコ・ペソなどの自国通貨建てで行うことができず、債権国の通貨、すなわちドル建てを原則としている。
これに対して、日本からの資本流入を自国通貨建てで行ってきた米国の場合はどうか。第一次世界大戦後にイギリスが、基軸通貨・ポンドの信認を維持すべく、旧平価で金本位制に復帰しようと努力したのはポンド切り下げでポンド建て対外債権の価値を減じないためであった。現代の米国は自国通貨建て債務国という逆の立場から、債務の対外価値を減じて身軽になったと見ることもできる。
投資続行の謎
日本の機関投資家による米国債の取得はプラザ合意後も大規模に行われた。なぜこのようなことが起こったのか。
まず第一に、「国際政策協調」として金利調整が米国と日・独との間で行われ、金利が同時に引き下げられた。米国にとっては双子の赤字を補填するために、海外からの資金流入は必須であるが、対外純債務の累積とドル安のもとでは、対米資本投資の継続に不安が伴う。こうした条件下においては、内外金利差の縮小などもっての外である。そこで米国金利を相対的に高水準とするような協調利下げがベーカー米財務長官の主導のもとに推進された。
ただし、米国の金利が日・独よりも3%高かったことが、プラザ合意後もドル債投資が続行された理由と断定できるであろうか。日本の投資家にとって、3%程度の金利差だけでも米国債は十分魅力的であり、投資継続が経済的合理性に基づいた行動だと判断されたのであろうか。この程度の金利差はドルの水準如何によっては何の意味もなくなることを経験したばかりである。とすれば、ジャパン・マネーがドルの水準をどう見ていたかという問題がここで大きく浮かび上がる。
国内金利が低下している米国で何が外資流入を引き付けるか? その答えは通貨の下落それ自体にある。通貨が経常収支をバランスさせるような、きわめて低い水準にまで下がると、いずれこの低水準から回復するはずだ、と投資家は見る。外国人投資家としては、ここで通貨(ドル建て資産)を買っておけば将来大きな値上がり益を得られると予測するがゆえに、資本を流入させる。この資本流入は通貨(ドル)の下落に歯止めをかけるし、(収支が均衡化するまでの)経過期間の赤字を埋めるために利用できるだろう。
ドルが「下げすぎ」と見れば外国資金は買いに入り反騰に向かうというのは、一般論としてはそのとおりかもしれない。しかし、プラザ合意以降、ドルはつるべ落としに下落し続けており、日本の機関投資家の投資行動が、将来の大幅値上がり益を期待してのものであったとはとうてい考えられないのである。
暗黙の行政指導
それでは何がいったい彼らをドル債購入に駆り立てていたのか。それには2つの意外な動因があった。
その1つは、きわめて特殊で日本的な政・財・官の関係である。大蔵省と金融界の日本独特の関係、そこでは「護送船団方式」のもとで、日本の銀行や証券会社、生保などの機関投資家などが、大蔵省から常に暗黙の行政指導を受けていたが、80年代の後半には、米国の長期国債の入札が近づくたびに大蔵省の担当者から電話が入ったという。用向きは、米国債への応募や購入の意向に関するヒアリングである。しかし、ついでに必ず他社の米国債購入状況について説明がある。こうなると機関投資家としても黙過できない。当局の意を迎えるべく行動せざるを得なかった、と密かに洩らすジャパン・マネーの担当幹部は多かった。
生保が組み入れられた金融村においては、大蔵省自身にとっては単なる「ヒアリング」と言い抜けることのできる言動が村八分を恐れる大きな圧力となって現れる。これが機関投資家をドル債投資という非合理的行動に走らせたのである。当時の事情を少しでも知る関係者であれば、このことを決して否定はしないであろう。
当時、大蔵省は、ドルを支えるためにあらゆる努力を惜しまなかった。
こんなエピソードもある。
時はレーガンからブッシュへ、共和党政権継続の成否をかけた大統領選挙も間近な、1988年3月のことである。米国の債券市場は、日本の機関投資家が、年度明けに、ドル債を売りに出るのではないかという噂でもちきりだった。そこで、大蔵当局は債券市場の動揺を抑えるべく、日本の生命保険会社に「4月になっても債券を売るつもりはない」と声明を出すよう求めた。次に、こうした「約束」を市場が信用していないと見ると、今度は大蔵省の担当官自ら市場関係者を回って、声明の背後には大蔵省がいるのだということを強調した。さらに日銀は日銀で、「保有する外貨準備の9割はドルで運用している」ことを公表し、市場の安定に努めている。ちなみに、9割といえば、これはカナダの運用状況に匹敵しよう。
当時、米国の金融市場では、「MOF(大蔵省)はブッシュ候補の選挙事務所のようだ」という声も聞かれた。日本政府が、共和党を民主党より日本に宥和的と見て、ブッシュ政権の誕生を支援し、そのためにはウォール街にわずかの波乱も招かぬようにと考えていたことは明らかであった。
バブルというバッファ
しかし、米国債への投資継続は、いかに当局の暗黙の指導があったとはいえ、経済的合理性から見ればいかにもリスクが高すぎる。そこには何らかの心理的緩衝装置が存在したはずである。実はそのバッファの役割を担ったのが、第二の動因、すなわち80年末にかけてのバブルの含み益に他ならなかった。プラザ合意後の協調利下げの結果、日本の公定歩合は米国に対して低く設定され、さらに87年2月にはおそらくはドル安に歯止めをかけるルーブル合意の代償として、日本は独自の引き下げを行っている。こうして生まれた2.5%という超低金利が89年5月まで、なんと2年3ヵ月にわたって放置された。
この長期にわたる低金利政策が円高に対抗するための日銀のドル買い円売り介入と相俟って過剰な通貨供給を生み、それが不動産市場と株式市場に吸引され、空前のストック・インフレを伴うバブル経済を生み出した。
80年代半ば、特に87年以降の金融政策のもとで発生した日本のバブルは、深刻な後遺症を日本経済に残すことになったが、米国にとっては逆に、大きなメリットをもたらした。通常であればあり得なかったであろう民間の米国債購入がバブルを背景にして初めて継続されたのである。皮肉なことに、この低金利政策は、本来は対米資本投資を継続させるための「内外金利差」を維持することが目的だった。そして日本の機関投資家が膨大な為替差損を破りつつ米国債購入を続けた事実は、一見、こうした「国際政策協調」が効を奏したことを示すかに見えた。しかし、購入継続をもたらしたのは実は金利差そのものより、低金利政策がもたらした株価・地価の急騰、それによる膨大な含み益であった。これが機関投資家にとって為替差損への隠れた緩衝装置となっていたのである。
金融法人が87年からの3年間に株式などで上げた評価益は205兆円(国民所得ベース)、当時のドル換算で1兆5,000億ドルにも達した。このバブル益によって、金融村、なかでも機関投資家の隣組を不承不承でも米国債投資に向かわせるよう、大蔵省は風圧を強めることができたのである。
88年7月、国際業務に携わる銀行は、93年までにBIS規制という国際基準を達成せよ、という規定が設けられた。銀行は資本の規模に応じて保有できる資産の中味を考えざるを得なくなったわけだが、幸い生保などへはこのBIS規制も直接は及ばない。結局は生保がディスクロージャーとは無縁の「相互会社」という前近代的な業態であったことを、大蔵省が利用したといって良い。
当然、米国側は、日本のバブル益が米国自身にとっていかに重要であるかを密かに観察していた。当時、日本の金融機関が擁していたバブル益を1兆5,000億ドルと見積もると、これは米国の財政赤字の約10年分にも相当する。そこで、このバブル益を引当てに日本の機関投資家が米国債投資を続け、米国はその間に双子の赤字を削減することによって経済を難着陸させる。ざっとこんなシナリオが描けることになる。大幅なドル安によってポートフォリオ投資の対象とはいえなくなってしまった米国債にとって、日本に発生したバブル経済はじつは最後のよりどころともいえるものであった。
いずれにせよ、米国債の利回りといった内外金利差や、為替レートの予想変化率など、標準的な教科書にある「要因候補」では、80年代後半から90年代に入るまでの日本の海外投資の動きがほとんど説明できなかった、という点は重要である。それは、日本のドル債投資が、いかにポートフォリオ投資としての合理的な範囲を超えていたかを何より雄弁に語っている。
ウォール街を守れ
日本の政策当局は何を考えていたか。プラザ合意後も、米国債投資に向けて、民間の資金を動員する。当時、どこまで意識されたかは不明だが、これはかなり大胆で重要な意思決定だったといえるであろう。なぜなら日本側にとって、いったん深く足を踏入れた以上、米国の経常収支赤字が続く限り、日本がこれを埋め続けなければ、ドルの暴落を引き起こす危険性がある。ドルが暴落すれば、それまでに投資され、ドルに姿を変えたジャパン・マネーはさらに大幅に減価する。そうならないようにと、ドル債投資を続けることが、唯一の方策となってしまった。一蓮托生、ドルと運命をともにする。これが日本側から見た「ドル買い」第二幕の基本的構造である。
こうした日本の政策当局の依って立つスタンスは、87年10月19日、ニューヨーク株式市場を襲った大暴落、いわゆるブラック・マンデーにおいて見事に明らかになる。ダウ平均株価が1日に約500ドル、2割も暴落するブラック・マンデーの衝撃はたちまち世界を走ったが、その過程で「ウォール街基準」ともいうべき原則が日本の金融政策にすでに定着していたことが、はっきりと顕在化した事実を見逃すわけにはいかない。
ウォール街の崩落を前にして、「日本が頑張らねば」という決意のもとに、日本の金融政策当局は2つの課題を実行した。第一は、緊急策として日本の証券市場の反転上昇である。このため、大蔵省は四大証券にただちに大規模な株式買い出動を行うよう、「意向」を示した。たまたまブラック・マンデー翌日の火曜日は、大蔵省担当官と四大証券代表の月例昼食会があり、きわめて微妙なやり取りのなかで大蔵省(政府)の意向を把握した四大証券が、ただちに大規模な買い出動に入った。
さらに大蔵省は、株式の新たな買い手として、特金(特定金銭信託)やファントラ(ファンド・トラスト)を動員しようとした。これらは、当時の株高を眺めていた企業が、いわゆる財テクのため特定の資金で設定したファンドである。その運用について、大蔵省は、かねて儲けていた種々のガイドラインを緩和し、株式の購入を促す。こうした方針が明らかにされた以上、ファンド・マネージャーとしてもその方向に動かざるを得ない。こうして官=>財の力学は、はるか金融村を越え、一般企業にまで広がっていった。
ブラック・マンデーの事後処理において、わが大蔵省当局が見せた獅子奮迅の働きは、日本のドルに対する過剰な思い入れを世界に印象づけた。日本の金融政策の基本スタンスがあくまでも対米協調にあること、ドルを支え続ける以外に独自のマネー戦略を持たないことを進んで告白したようなものである。
日本の金融当局は、早い段階で、ドル離れを実行に移せるように、さまざまな施策を練るべきであった。ドルのみならず、マルク、ポンドあるいは金などにも分散投資を行うよう金融界をリードすべきであった。さらには円建てによる貿易や対外投資チャネルの形成など、円を基軸とする世界を構想すべきであったし、それは不可能ではなかった。
経済活動の将来の外部環境の不確実性を軽減するうえで、円の安定こそが日本にとって再建の鍵である。将来の不確実性を軽減するためには、まず日本自身で余分なドルを貯め込まない、つまりは輸出円建て化への厳しい努力が必要であろう。その上で円の対ドル安定は期待し難いので、ユーロを媒介として安定への途を探り、行く行くはこれをアジアに押し広めていくことである。
マイケル・ハドソンのコメント
(プラザ合意以降の金融緩和による金利引き下げについて、ハドソン氏は次のようにコメントしている。)
日本の低金利政策は日本の資産価格を押し上げる効果をもたらした。なぜなら、資産価格と金利は反比例の関係にあるからである。それは債券でも不動産でも同様である。
金利が低くなれば、銀行の預金や保険会社の積立金の投資対象である債券や銀行貸付の市場価値が支えられ、銀行や保険会社の投資内容が良いように見えてくる。
しかし、これは経済を富ませる上で危険な方法である。新しい建物や生産手段などの有形資産が伴わない、紙の上での架空の投資でしかない。日本は実質的な収入を増やす代わりに、ただ単に金利を下げることによって、つまり現在入ってくる収益を減じて、金融資産の市場価値を押し上げている。
金利を引き上げるだけで、日本の投資家が購入した債券や、銀行や保険会社が行った融資の市場価値は下落する。またドルが下落するだけで、円の資本価値が失われるのである。
リスク分析はどこにあるのだろうか。ドルは慢性的に下落してきたし、これからもそれは必然的であろう。金利の上昇も避けられないのではないか。真実の予言者はどこにいるのだろうか。
確かに予言者はいたが、米国の外交官達は日本の傀儡政権に対し、その予言者の言葉に耳を傾けることは米国に反目することだと告げてきた。日本企業は楽観主義的で思弁的な米国のアドバイザーを雇うよう仕向けられ、間違った方向へ導かれるとともに、不適切なアドバイスを与えられてきた。その結果、日本の企業経営と経済理論は無視されてきた。
プラザ合意から1989年5月まで続けられた2.5%の低金利政策によって、日本経済には資金があふれた。日本企業は自社で十分な資金を調達し、設備投資のみならず海外への投資資金も賄えたため、銀行からの融資を受ける必要はほとんどなくなった。
一方、不動産投機家はキャピタル・ゲインを狙って、常に融資を望んでいた。金融緩和によって融資を受けやすくなったことも理解していた。その結果、不動産向け融資が増え、不動産投機家達はその融資を利用して、住宅や営業用不動産など、不動産の値を釣り上げた。
銀行や保険会社は不動産投機家に対する融資をさらに増やしていった。実際に起こっていることが、ポンジーの陰謀(利殖性の高い投資対象を考え出し、それに先に投資した人が後から投資する人の投資金によって利を得る方式の詐欺)あるいは永久運動の機械のごとく機能することを内部で指摘する監視体制もなかった。銀行は、不動産融資の借手に対し、担保を差し出すように要求した。新たな融資のたびに資産価値が上昇し、それに付随して担保価値も上昇した。日本は数字の上で豊かになっていったが、そうした架空資産は健全な発展の基盤にはなり得なかった。
株の投機家への融資ももちろん増加していった。ここでもその融資が株式市場に流れるにしたがって、株価が釣り上がっていった。米国でも、有名なナビスコの買収に使われた資金のほとんどは日本の銀行が提供したものであった。約220億ドルで行われたこの買収は、米国史上最大のレバレッジド・バイアウト(借入金をてこにした企業買収)であった。
低金利とそれに伴う不動産および株式市場向け融資の増大は、日本の資産価値を押し上げた。吉川氏によれば、金融法人が87年から3年間に株式などで上げた評価益は205兆円(国民所得ベース)に達したということであるが、日本はこの205兆円で家や工場、設備を建設したり、機械、コンピュータを購入したり、研究開発を行ったわけではない。ただ単に金利の引き下げにより資産価値を押し上げた結果、融資が増加し、それが不動産や株式市場に流れると同時に、米国政府や民間部門への融資に向けられただけのことである。これに助けられたのは短期的利益を狙う投資家であり、またその結果、日本は健全な長期指向経済から短期指向に転じ、米国債への投資や株、為替、不動産収益を目指すようになったのである。