今回は、『ワシントン・ポスト』に掲載された、米国の一極支配に世界が反発し始めたことを論じる記事を取り上げます。特に、最後にある、米国の役割の再定義の提案については、私もすべて賛成です。日本が米国一極支配から、多極化の世界に向かう潮流にどう対応すべきか考える上でも、この記事は参考になると思います。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。
米国の役割の再定義:
米国は盛者必衰の運命にあることを知るべき
クリストファー・レイン
『ワシントン・ポスト』 1999年11月14日
過去ほぼ10年間を通して、米国の世界支配は当然のことと考えられてきた。しかし、ここ数ヵ月、米国の優位性は他の諸国、中でもドイツ、フランス、ロシア、中国、インドなどから非難され、米国の政策立案者は自国の優位性に新たな疑問を抱いている。つまり、冷戦後の米国の壮大な戦略基盤に、翳り(かげり)と綻び(ほころび)の兆候が現れているということだ。
壮大な戦略の中心には、世界的に優位な役割を永続させたいという米国の欲望がある。しかし、なぜそれを望んではいけないのだろうか。一極支配の世界で唯一の超大国であること以上に素晴らしいことなどあるだろうか。ワシントンなら、「ありはしない」と答える。しかし、実世界においては一方的支配、あるいは政治学者のいう覇権主義は自滅する運命にある。第一に覇権は維持できない。第二に、それを維持しようとすれば究極的には米国の国益にとって利益になる以上の害をもたらす可能性がある。
国際政治を注意深く学ぶ学生であれば、覇権主義の戦略が勝利につながったためしがないことを知っている。歴史は覇権を狙った国家の残骸であふれている。カール5世やフィリップ2世支配下のハプスブルク家、ルイ14世やナポレオン支配下のフランス、ビクトリア王朝時代のイギリス、ヒトラー支配下のドイツなどがその例である。最終的にこれらの国々が失敗した理由は単純である。1国が強くなり過ぎると、他の国家が恐れを抱きそれに対抗する勢力を築こうと団結する。つまり他の国が自力で軍事力を増強し、必要とあれば戦略的な対抗勢力として同盟を築くのである。
つい最近まで、米国の政策立案者は、米国だけはこの道をたどらないかのように振る舞ってきた。しかし、最近の出来事を見れば、米国だけが例外だと考えるのは希望的観測でしかない。
最近の2つの出来事、米国上院議員が包括的核実験禁止条約(CTBT)批准決議案を拒否したこと、そして1972年の弾道弾迎撃ミサイル制限(ABM)条約を破棄し弾道ミサイル防衛システムを展開する可能性が高い、ということに対する国際的な反応を見てみよう。
ロシア、中国、フランスは、国連を利用して米国に包括的核実験禁止条約およびABM条約を遵守させようとしている。1999年11月、ドイツのフィッシャー外相は、核を保持しないというドイツの決意は、米国が主要核保有国としてある種の秩序を保証するという信頼に常に基づいていると指摘した。さらに続けて、米国がその保証を放棄するのであれば、ドイツは自国で核保有能力を開発しなければならないという主旨の発言をしている。同様に恐ろしいことには、ロシアは独自に弾道ミサイル防衛を構築し核弾頭を増加するとして脅威を与え、実際1999年11月3日、短距離迎撃ミサイルを試射している。
また11月初め、フランスのベドリン外相は、米国を抑制するために策を講じる必要があるのではないかと懸念を表明した。ベドリン外相は米国を超大国と呼び、フランス国際関係研究所において「一極支配の政治の世界も、均一な文化の世界も、さらには唯一の超大国による一方的主義も受け入れることはできない。そのために我々は多極化、多様化、多国間主義を求めて戦っているのである」と述べた。
欧州連合が政治的、軍事的統合を果たし、世界政治において独立した戦略的プレイヤーになることがあるとすれば、それはコソボにおける米国主導のNATOの行動が触媒となったのかもしれない。NATOの冷戦後の威信を証明するためであったともいえるこのコソボの戦いは、皮肉にも米国とヨーロッパの軍事力の格差をまざまざと見せつけた。
コソボでの米国の行動が引き金となって、NATOに比べると米国との友好関係の薄い同盟関係が中国、ロシア、インドの間に誕生した。これら3ヵ国は、米国が主権国家に対して内政干渉する権利があると自ら宣言したコソボでの前例を見て、軍事協力を強化し、特に武器の移転や軍事技術の共有に対する協力関係を強めた。そしてヨーロッパ諸国と同様に多極化世界の支持を宣言している。
一方、日本でも軍事力増強の必要があるという意見を支持する声が高まっており、米国の戦略的従属から解放されるために、核兵器を保有してはどうかという声すら出ている。
こうした変化に、米国政府はもちろん気付いている。米国の懸念がどれほど強いかは、1999年10月に国家安全保障補佐官サミュエル・R・バーガーが外交問題評議会に対し行った講演で明らかである。その講演は主に、バーガー氏の言葉を借りれば、米議会に台頭する「新たな孤立主義」を攻撃するものであった。しかし、バーガー氏は同時に、米国の力に対する外国からの批判に対しても触れた。
バーガー氏は、米国がヨーロッパやロシア、中国において、一方的で過剰な力を持つ「空威張りの覇権国」と映っていることを承知していた。そして米国の支配的な役割を否定することも、批判することもしなかった。その代わりにバーガー氏は、米国を悪意のない覇権国であると主張した。米国は利己的な利益を推進するためではなく、より多くの国の人々の利益のために行動しているのであり、他の国の人々も米国の世界的なリーダーシップから有形の利益を得ていると述べた。米国の理想と価値観を考えれば優位に立つのは当然であり、だからこそ軍事力よりも、道徳的権威をもとに世界をリードできるともいった。「米国の権威は、力とは異なる質に基づいており、価値観の魅力、模範を示す力、責任を果たす信頼性、他者に協力や支援を提供しようという意欲に立脚している」とバーガー氏は言明した。
他の国が、こうした米国の傲慢な発言を額面通りに受け取ると思うのであれば、それは大きな間違いである。世界の大半は、米国が世界の模範であるという米国の信念を共有してはいない。米国のイデオロギーを他国に伝播させようという試みは利他主義からはほど遠く、米国の地政学的優位性を正当化するための手段に過ぎないと世界は見ている。米国が理想主義を自任するのは今に始まったことではない。しかし、これまでと異なるのはイデオロギーの押し付けと圧倒的、実質的な力を併せ持っている点であり、他の国はそれを恐れている。
ヨーロッパ、中国、ロシアのいずれを見ても、米国の超大国戦略は地政学的に反発を引き起こし、米国の国益にとってもマイナスになると思われる。無分別なNATO拡張政策はロシアの不安感をあおり、ロシアにとって米国の力がいかに危険かを強調する結果になったし、中国は台湾に関する米国の立場および人権政策を中国の内政に対する不条理な干渉だとして拒絶している。自由市場に基づく民主主義社会を拡大しようという米国の独断的政策を、他の国は情け深い理想主義というよりは、ただ単に世界を牛耳りたいという意志を覆い隠すためにイデオロギーを利用していると見ている。
今こそ新たな議論を始める時にきている。超大国モデルを捨て、より生産的な米国の役割を模索するのである。問題は、米国が一方的な行動をとるべきか、他の国と協力すべきかではない。すべての国家が国益に基づいて行動するのは当然である。しかし、議論の起点とすべきは、米国の国益をどう定義するかである。以下はその提案である。
* 米国は、ヨーロッパの台頭を国際政治における米国と対等の独立した参加者となるよう奨励し、そして受け入れるべきである。
* 米国は米国の価値観や制度を世界の他の諸国に押し付けることを止めるべきである。場合によっては、ロシアの例のように米国モデルが適切ではなく、それが利益よりも害を与えることがある。あるいは中国の例のように、米国がイデオロギーの準拠を強制しようとすれば、元々緊張した関係がさらに悪化するということもある。
* 最後に、米国は外国に対して性急な介入を行うべきではない。米国の安全保障上の利害が危険に晒されない地域では、他の国や組織にその地域の安全保障の責任を委ねるべきである。これは孤立主義ではなく、古典的な現実主義の戦略である。
非覇権主義の戦略は、不安定さを増幅させることになると主張する者もいるであろう。そうかもしれない。しかし、核の抑止力と地理的条件のために、米国が歴史上最も安定した超大国であることには変わりない。さらに、我々は現実を直視しなければならない。唯一の超大国が存在したという過去10年間の状況は持続可能ではない。一極支配という現在の状況を引き延ばそうとしてもうまくいかないであろう。皮肉なことだが、米国が優位性を維持しようと独断的になるより、もっと慎重になる方が将来は安定するであろう。