No.352 価格が決まっていなければ、消費者の負担が増す

米国流儀を模倣することが日本に何をもたらすのか、それを知っていただきたいと思い、以下の記事をお送りします。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

価格が決まっていなければ、
消費者の負担が増す

『ワシントンポスト』 1999年6月27日
ジョン・シュワルツ

 私が自分にすごい力があることに気づいたのは、数ヵ月前のある日、ホームデポでのことであった。3年間、何もつけていなかった私の小さな平屋建ての家の窓に、そろそろ日除けをつけようと、妻と買い物に出かけた時のことである。クレジット・カードで支払いをするために並んでいると、前の客が10%の割引券を出している。そこで店員にどうすればその券を入手できるのか尋ねると、郵送しているという。そこで私には同じ10%の割引を受ける資格はないのか、それともホームデポのDMによるキャンペーンは、私のような庶民と、高級住宅地の富裕層とを差別しているのかと尋ねると、店員はマネージャーと話してくれというので、マネージャーに説明を求めると、それは差別ではなく、クーポンの送り先は人口統計に基づき郵便番号で決められているということだった。

 「私が指摘したいのは、まさにその点だ」と、富裕層に焦点を当てたマーケティングがいかに邪悪なものかを語ろうとする私を、マネージャーは肩をすくめて遮ると、レジ担当の若者に「このお客さんに10%の割引を」といったのである。

 私は積極的に苦情をいうことがいかに威力があるかとか、いかに自分が賢い買物客であるかなどといいたいのではない。固定価格の終焉という革命に遭遇したのである。近所のスーパーに行けば、陳列棚には歯磨き粉や髭剃り用クリームの定価がしっかり表示されていることはもちろん承知している。しかし、米国経済の多くの分野ですでに値札が取り除かれ、市場は好機と不平等の両方が誕生している例であふれている。

* 元同僚が(米国から)ギリシャにいる義父と22分間電話で話したら、33ドルの請求がきて激怒した。それ以前に使っていた長距離電話会社では1分間35セントだったからである。電話会社のオペレーターに文句をいうと、次の請求から33ドル差し引くといわれたばかりか、ギリシャとの通話が1分間35セントになるもっと安い長距離電話プランへの変更を勧められ、とても驚いたという。
* ある友人はホテルを予約するときは必ずクレジット・カードや航空会社などが提供する優待券や割引券を利用し、通常価格で予約することはしない。またホテルに到着すると、自分の予約が最も安い料金かどうか確認することを習慣にしており、さらに値切れることもしばしばだという。
* また別の友人は、コレステロール検査をした後で受け取った医療保険会社からの明細表に2つの金額が書かれているのを発見した。1つは55.50ドルという検査の請求額で、もう1つは保険会社が検査を行う病院と取り決めた9.98ドルという価格であった。彼はこの割引率に驚き、逆に保険のない人々が約5. 5倍もの金額を支払わされる状況がいかに不公平かを感じずにはいられなかったという。

 血液検査、ホテルの宿泊料、電話の通話料は本当はいくらなのか。その答えは、本当の価格などないのである。米国ではすべてが交渉で決まる。多くの人々にとって米国は消費者天国かもしれない。しかし私は、それが残りの国民を消費者地獄、あるいは少なくとも困難に陥れているのではないかと感じるようになった。伝統的な小売の関係で見られたような安心や安定のための保護措置はまったく見られない。価格が決まっていない状況は、交渉力や力がものをいうローラーゲームのような世界に市場を変えてしまう。
 
 昔ながらの固定価格では、臆病だったり、気が回らなくて値引き交渉が苦手な人でもある種の保護が与えられていた。安く買うことはできなくても、法外に払わされることはほとんどなかった。しかし新しい世界では、そういう人々は土地を相続したとしても詐欺師に騙し取られるのが落ちかもしれない。イギリスの作家オスカー・ワイルドはその昔、冷笑家とは、あらゆる物の価格を知っていてその値打ちはまったくわからない者だといみじくも語った。不確実性の現代、このワイルドの警句も「価格のある物がなければ、価値があるものなどあるのだろうか」と書き換える必要があるかもしれない。

 米国の消費者の間ではすでに長い間、車や家、増改築に定価はなく、メーカー希望価格は値引き交渉開始の値段で、値引き交渉は当たり前になっている。しかし今、他の様々な分野でも価格が無意味なものになりつつある。健康管理サービス、処方薬、家電、電話サービス、その他何百もの分野でその傾向が見られる。中でも顕著なのが大学の授業料であり、ここでは詳しく触れないが、売り手が可能な限り高額の価格を広告しておき、陰でこっそり多くの顧客に割引額を提供するという不合理な経済モデルとなっている。

 グリーン・スタンプを集めたり、クーポンを切り抜いたりして、数ドル節約していれば賢い消費者であった時代と比べると、今日の消費者にはかなり深い知識が要求される。「予測可能な固定価格の時代は過ぎ去った。飛行機の座席の価格を決めるのと同じ方法で、製品やサービスの価格を設定する企業がますます増えている」と語るのは、ドイツ証券銀行のエコノミスト、エドワード・ヤーデニである。航空会社は空席を埋めるため大幅な値引きを提供している。そして消費者は多くを知っていればいるほど、より大きな値引率が得られることを発見した。知識は市場の潤滑油の役割を果たし、すべてのものをより効率的に動かす。ヤーデニは、この変化に対して情報収集や伝達のスピードを大幅に向上させたインターネットが果たす役割は大きいと指摘する。

 多くの業界でビジネス・コストが変化した結果、企業には柔軟な対応ができる余裕が生まれた。冒頭に紹介した電話料金の例を思い出してほしい。デジタル回線などの新しい技術の出現により、企業は以前にも増して低コストでより多くのサービスを提供できるようになった。だからこそ顧客の獲得に必死な米国の携帯電話会社は、ボイス・メールやポケベルなどのサービスを付加したり、着信電話の最初の1分間を無料にするなどのサービスを提供できるようになったのである(米国では着信にも料金がかかる)。また苦情電話をかけただけで、なぜ通話料が棒引きになったのかもこれで説明がつく。携帯電話会社の担当が私に語ったところによれば、最も重要なことは、担当者独自の方法でインセンティブを与えてでも、金になる得意客を満足させることだという。「25セントで通話時間何分という料金設定の時代は終わった」とも語った。

 電話会社はソフトウェアやコンピュータ業界などと同様の問題で苦しんでいる。つまり、光ファイバー・ケーブルの敷設、ソフトウェア開発、半導体の設計といった製品開発にはかなりのコストがかかっても、通話やディスク、チップなど製品の生産そのものにコストがあまりかからない業界では、すべてを勘案して価格を提示する必要がある。「インテル社の半導体の製造コストが3ドルだということだけ考えれば、それを4ドルで販売すれば利益が出る。しかし、それだけでは設計過程のコストは賄えない。この事実こそが、価格が固定しない経済に付随するリスクを示す。値引き競争になれば、自社も競争相手も共倒れになってしまうからだ」と説明するのは、テキサス大学のエコノミストで競売の専門家であるR・プレストン・マカフィーである。こうした理由から、オンライン小売業者の中には、価格比較のWebサイトから抜け出し、価格ではなく使い易さや豊富な品揃えで他社との差別化を図ろうとしているところもある。

 このような変化については話したがらない人が多く、私が連絡をとった有名なエコノミストも匿名を希望した上で、確かに価格設定はかなり柔軟になってはいるものの、消費者側に余裕を与えているかといえば、それを裏付ける経験的データは存在しないと語った。そしてこちらが聞きもしないのに、自分が育った時代には、店に行けばすべてに値段がついていて、それに従うだけで良かったと語ってくれた。そして、苦情を電話しさえすれば割引きになることを知られたくない電話会社は、案の定、社名も名前も伏せるよう要求した。

 未来に向けて疾走しているように見えて、それと同じくらい、価格交渉や物々交換が当たり前だった時代に逆行しているようにも思える。米国で固定価格が登場した1800年代に、雑貨店の出現で生産者と異なる人が商品を販売するようになってからだとマカフィーは語る。例えば銃の価格が固定されたのは、銃製造業者がすべての販売先に出向かなくても、その製品の価値に見合う料金を全額取り立てるためだった。多くの国で価格交渉は今も行われている。私がメキシコに旅行した時にはスポーツシャツやカエルの置物で値切る交渉の腕を磨いたものだ。多くの点で、我々は元に戻っている。

 今の時代は、新しい可能性と同時に負担も増えた。固定価格の時代のスローガンは「買い手は気をつけるように」であったが、新しい時代の新スローガンは、「買い手は常に世事に通じていること」を求めている。

 しかし、そんなことを求められてうんざりする人も多いはずだ。誰が常に安いものを探し回りたいと思うだろう。実際、カーマックスという会社は、時代に逆行して固定価格の安心と単純さを消費者に提供している。また正直いって、私は買い物下手である。たとえ日除けを値引きさせても、その分すぐに食料品で浪費するだろう。堅実に安い買い物を求めてはいない。それが他の店ではいくらなのか、いつも買った後になって値段を気にしているから、後悔するのは当たり前だと妻によくからかわれる。

 しかし、それだけではない。値切るのはくたびれる。男だからかもしれない。または、買い物のたびにそれを決闘と考えたり、よくて販売員を敵と見なすようなことなく、平穏な生活をしたいと思っているからかもしれない。あるいは、買い物をするために生きているのではなく、人生を存分に楽しみたいと望んでいるからかもしれない。これはおそらく、米国映画『市民ケーン』の登場人物がいったように、「人生において金儲けだけが目標なら、たくさん金を儲けるのは難しくない」ということなのかもしれない。