この資料は2000年を迎えるにあたり、一経営者として、日本人を幸せにする企業経営のあり方について自分の考えをまとめたものです。
日本人を幸せにする企業経営とは(前編)
- 商売の理念 -
【 社会における企業の役割 】
社会の目標は国民の幸福であり、最もすばらしい社会とは、最大多数の国民の最大の幸せを達成できる社会であると私は考える。
社会における企業の役割は、国民の幸福につながる製品やサービス、雇用を提供することである。利益、売上、マーケット・シェアの追求は企業の目標として妥当ではない。企業は国民の幸福につながる製品やサービス、雇用を提供し続けるために必要な研究開発費や設備投資に必要な分のみの利益を求めるべきであり、それ以上の利益が得られるのであれば、製品やサービスの品質向上や値下げ、仕事の質や報酬の改善に向けるべきである。企業は必要経費を満たし、かつ企業の存続に必要な投資を賄う分だけの収益を求めるべきである。
企業が顧客の幸福につながる製品やサービスを提供し、また社員の幸福に寄与する雇用を提供することだけに注力していれば、社会は社会全体の幸福に最も役立つ製品とサービスを生産し、それを生産する国民に製品やサービスを分配することができる。1億2,500万人の国民が自分達の幸福に最も寄与する製品やサービスを生産し、その製品やサービスを総生産に対する貢献度に応じて国民の間で分配すること以上に、国民に幸福をもたらすことがあるだろうか。私は多くの日本企業がこのような経営理念に基づいて商売を行っていた高度成長期が、日本社会が最も安定し、経済が最も繁栄していたと思っている。
【 日本社会の変化 】
年号が平成に変わってから日本社会と経済が衰退し始めたのは、日本企業がこうした経営理念を捨て、貪欲に利益を追求し始めたからだと思う。企業は、国民の幸福に最も役立つ製品やサービスではなく、利益率が最も高い製品やサービスを創出し、それらに関する情報を正直に伝えることなく、宣伝広告やマーケティング手法を駆使して国民に自社の製品やサービスを買わせるようになった。また人件費削減が利潤増加の最も手っ取り早い方法であることに気づいた企業は、従業員に確かな安定した職を提供し続けるという約束を放棄し始めた。
社会に対して奉仕する存在であった日本企業はなぜ突然、社会から奪い取る存在に変わってしまったのであろうか。昭和の時代には国民の幸福に寄与することを目指していた企業が、平成になると、なぜ消費者と名づけた国民からは金をまき上げ、その一方で従業員の賃金は減らすようになってしまったのであろうか。それは、日本の長い歴史の中で平成になって初めて、日本の価値観や文化をほとんど学ばなかった人々が国を治めるようになったからではないかと考える。昭和の終わり頃まで日本を治めていたのは主に、日本の価値観や文化に基づく、日本の規範の教育を受けた人々であった。しかし平成になり、マッカーサー元帥がマインドコントロールによって日本を米国の植民地にすべく押し付けた教育制度を施された人々が、日本の指導的地位に就くようになった。1945年以降日本人が受けてきた教育とは、日本の歴史や文化、価値観、慣習、さらにはその祖先までも蔑み、その代わりに歴史、文化、価値観、慣習などにおいて日本とは正反対ともいえるアングロサクソンのやり方を模倣し従うというものであった。
アングロサクソン人は基本的に狩猟民族であり、一部の裕福で権力のある支配者階級が、残りの労働者階級を貧しい状態に置くことで常に社会を二極化させた征服者である。そのような社会では大部分の国民が当座の生活費さえ賄うのが難しい状況にあり、貯蓄をする余裕があるのは一部の裕福な支配者だけである。つまり支配者だけが資本の提供者となる。支配者階級は私利私欲を満たすためにさまざまな偽りを広める。例えば、資本の唯一の供給源として、所得の一部を貯蓄するよう人々に動機づけるためにはそれに対する特別な見返りが必要だと主張する「資本主義」もその1つである。しかし、これは嘘である。なぜならば、二極化の社会では、金が有り余った富裕者はすべての所得を使いきることができず、消費できない分は貯蓄するほかないからである。資本主義は、二極化社会の裕福で権力のある支配者しか提供できない資本という資源に、社会の構成員全員が生産した製品やサービスの第一の権利を付与するものである。このような嘘は、貯蓄ができず社会の製品やサービスの生産に対し労働しか提供できない労働者階級に比べ、すでに裕福で権力のある支配者をさらに富ませ、したがって労働者階級に対する裕福な支配者階級の力をさらに強固なものにするのである。
このようなアングロサクソンの社会に比べ、日本はより平等な社会を築いてきた。大半の国民は最低水準以上の生活を送ることが可能で、所得の一部を貯蓄したいと考えるのも自然であり、同時にほとんどの人がその能力を有する。さしあたり必要な生活費を除いた残りの収入を、旅行や自動車や住居などの耐久消費財の購入、子供の教育費や老後の生活その他に備え貯蓄に回すのである。日本では国民に貯蓄を奨励するために必要なのは、インフレや盗難、不正行為や不運によって貯蓄が減るようなことはないという保証を与えることだけなのである。
日本はそうした保証を昭和の終わりまで提供してきた。政府が銀行やその他の金融機関を厳しく規制し、最低水準以上の生活をする多くの日本国民の貯蓄の安全を保証した。そして日本国民はそうした規制に守られた金融機関に、将来に備えて収入の多くを貯蓄していた。規制はインフレや盗難、不正行為や不運によって貯蓄が目減りしないように守ると同時に、金融機関にインフレと正当な運転経費を賄うに足る最低限の金利で日本の生産者や消費者に融資を行うよう徹底させていた。
これによって日本企業には、顧客の幸福につながる製品やサービス、従業員の幸福につながる雇用を提供し続けるために必要な、研究開発費および設備投資分の資本が用意された。日本企業は、いわゆる「資本家」に報いるための利益を生む必要はなかった。日本企業が借りた資本の返済に用意しなければならなかったのは、その資本の資金源となった貯蓄のインフレ等による目減りを防ぎ、その貯蓄を企業に融資した金融機関の運転費用を賄うための金利だけであった。
現代の日本人は、日本社会もアングロサクソン社会も正しく理解することなく「ビッグバン」と呼ばれる改革を行い、銀行や金融機関の規制を緩和することによって、日本とアングロサクソンの最悪の部分を日本に導入した。所得の多くを貯蓄に回し、資本のほとんどを自分達で用意している日本国民は、現在、銀行や金融機関に貯蓄をしてもわずかな利息しか手にすることはできない。金融機関はインフレと運転経費分だけを賄う低金利しか課せないよう規制されれば、国内の企業や消費者には貸し渋り、高金利が得られる海外に融資したり、株や債券、デリバティブ、通貨で賭博を行ったりする。さらには、高金利を課して恐喝まがいのことを行ってでも取り立てを行う、日栄のような商工ローン業者に融資を行う金融機関もある。その結果、日本の真の資本家である高い貯蓄率を誇る国民は、インフレをかろうじてカバーできる利息しか得ていないのに、規制緩和後、単なる貯蓄の管理者であるはずの金融機関は、真の資本家である日本国民が預金した貯蓄を運用して25% もの収益を上げているという。これはつまり、日本で生産される製品やサービスすべてから、25%もの取り分を要求することに他ならない。こうして何万社もの日本企業が資金難に陥ったり倒産したことで、約300万人もの労働者が職を失った。
日本経済は本当の意味では不振に陥ってはいない。何万件もの企業倒産、300万人もの失業者が出現する前に比べても、現在の日本ではなお多くの製品やサービスが生み出されている。日本の真の問題は、ビッグバン以降、アングロサクソン流の資本主義の嘘によって、日本で生産される製品やサービスの25%もの成果を金融機関に支払っているために、その生産に携わった国民が残りの75%を分け合わねばならないところにある。倒産と失業、それに付随して増えている自殺は、金融機関に高利という貢ぎ物を与えた結果であり、戦後のマッカーサーの洗脳教育を受けた植民地の住民が、理解できないアングロサクソン流手法を、やはり自分達が理解していない日本社会に持ち込んだ結果なのである。