この資料は2000年を迎えるにあたり、一経営者として、日本人を幸せにする企業経営のあり方について自分の考えをまとめたものです。
日本人を幸せにする企業経営とは(後編)
- 商売の理念 -
【 わたしの経営理念 】
前回のメモ「日本人を幸せにする企業経営とは」(No.353)では、私の信ずる企業の役割と、その企業を取り巻く日本社会の現状を明らかにした。いかなる経営者も企業の存在理由という明確な方針を掲げ、さらにその企業を取り巻く経営環境に対する的確な認識を持たなければならない。そして社員もまたそれを理解する必要がある。私が経営する会社においては、なぜ利益追求を目標としないのか、なぜ外部資本への依存を最小限に抑えるのかといった理由が、前編で取り上げたような日本社会に関する私の見方を明示することにより、社員にも理解されていると考える。
会社が提供する製品とサービスについては業界や業種によって異なるが、我が社に限定すれば、日本の会社で、少なくとも現在は日本国内でのみビジネスを行っており、我々の役割は日本国民の幸せにつながる製品やサービスを提供することである。
すべての日本国民の幸福に不可欠な製品やサービスを1社ですべて提供できる会社はない。1972年の設立以来、我が社は主に大企業の従業員の生産性を向上することによってビジネスをよりよく管理/運営できるようなコンピュータ・ソフトウェア製品を提供してきた。日本の大企業を対象にそうした製品を提供することで、健全な商売を維持できるのであれば、我々のビジネスの焦点をあえて変更する必要はないであろう。そのビジネスを変更することがあるとすれば、1)顧客から製品に付随したサービスを提供して欲しいと要求があった場合、2)現在扱っている大企業向け製品が価格、規模、有用性面でより小規模な事業所においても販売できるようになった場合、3)大企業向けに売り始めた製品だけでは独立採算制を維持できない地域営業所が、新たに中小企業向け製品やサービスを販売しなければならなくなった場合、4)70歳までの雇用を約束する上で各キャリアにあった雇用を提供する必要性が生まれた場合、である。
そしてこれらの新しい製品やサービス、事業の展開については、実際に顧客と接している営業や技術の担当者などからの意見を基に、迅速な意思決定が求められる。
会社が提供すべきもう1つが雇用である。我が社の採用方針は、新卒者を雇い、70歳までの雇用を提供することである。社員の採用では、各人の特定の技能や知識、経験よりも人格を重視する。その理由は、採用後の約50年間を共に働きたいと思える人を採用したいからである。搾取の対象である人材ではなく、一緒に働くパートナーとして人を採用している。
希望者には70歳までの雇用を提供する。しかし、それ以前に退社したいと考える人をつなぎ止めておこうとは思わない。私は、終身雇用制度とは強い立場にある会社から、弱い立場にある個人に対する一方向の約束であると捉えている。つまり、会社は社員の生活を守るために事業を継続させることを約束するが、社員は個人の選択によっていつでも会社を離れることができる。唯一社員に求めることは、雇用されている間は、個々人が会社から受け取るよりも多くのものを会社に貢献して欲しいということである。
繰り返すが、私が考える終身雇用とは保証ではなく、約束である。私個人、または取締役や上級管理者でも全社員にそれを保証することはできない。我々が約束しているのは、各社員が誠実に、かつ熱心に働ける環境を提供することである。そして、少なくとも会社から受け取るのと同じだけ会社に貢献できる人が、自分が望む期間、自分の雇用を保証できるのである。
我が社が主に新卒しか雇わない理由は、それまでの学校教育をきちんと終えることが、我が社で働くにあたって最善の準備になると考えるからである。原則として中途採用を行わないのは、社員が辞めてもいつでも補充できる状態だと、管理者が今いる社員を大切にしなくなる傾向があるからである。したがって、例外を除いて中途採用を禁止することは、すでに採用されている社員すべてに、人材としてではなく、共に働くパートナーとして接することを徹底させる1つの方法なのである。
会社に貢献できる社員が自分が望む期間、自分の雇用を保証できる。これが何を意味するかをさらに考えてみたい。
お客様は我々がその要求に応じるものを提供した時だけ我が社から商品を購入してくださるだろう。生き残るためには、常にニーズを理解し、それを満たす製品やサービスをお客様が支払ってくれる価格で提供するための技術的能力を持たなければならない。どうすればお客様のニーズに直接的、間接的に貢献できるかを明確に理解できない社員は、自分の雇用が約束されないことを理解すべきである。雇用の安定を手に入れたいのであれば、自分が具体的にどうやって我が社に与える負担以上の貢献を会社に果たすことができるかを自信を持って説明できなければならない。
お客様は必ずといってよいほど、信頼している人から商品やサービスを購入する。日用品はともかく、我が社が販売するソフトウェアのような複雑な製品では、特にそうである。そしてどのような社員または企業にとっても、誠実さと正直さは最も貴重なものである。お客様の懐を狙うのではなく、誠実に対応し奉仕しようとすれば、自分に対する信頼、そして我が社に対する信頼を築くことができる。それはまた自分の雇用と会社の商売にとっても安定をもたらす。有能な営業マンは我が社の製品からお客様が恩恵を受けるかどうかがよくわかっている。誠実な営業マンなら、何も買わない方がよければお客様にそれを告げるであろうし、自社製品よりも競合相手の製品の方がニーズを満たすのであればそれを紹介するであろう。このような営業マンは手っ取り早く売上につながるチャンスを犠牲にすることはあるかもしれないが、長期的な繁栄に欠かせない評判を積み上げていくだろう。
正直さについても同じことがいえる。正直な人は、自社の製品を実際以上に高く評価することはないし、質問に対する答えがわからなければそれを認め、お客様や同僚に対する約束を必ず守る。正直な行動をとるたびに信用が築かれ、それによって仕事や生活がより楽になり、安定していくのである。
社員は自分が尊敬する人と一緒に働きたいと考えるし、お客様もたいていの場合、尊敬できる人から商品を購入したいと思うであろう。尊敬される人、それは、一貫した価値観や道徳、倫理に基づいた行動をとる人だといえよう。
ここで挙げたことすべて、当たり前のことのように思われるかもしれない。ここで述べたことはみな、私が生まれてから58年間、そのうち我が社での28年を含む日本での30年間に経験したことに基づいている。人は誰しも自分が尊敬する、有能で誠実かつ正直な人から商品を購入したい、またそういう人と一緒に働きたいと考える。自分自身がそうした人になる、その努力をすることによって、自分の雇用、会社の繁栄と安定を確実にすることができるのである。
【 ビジネス戦略 】
ではこれらの理念を基に企業としての役割を果たすために、我が社はどのような戦略を持つべきであろうか。
どうすれば会社を大きくできるか、ということは考える必要はない。お客様と社員を満足させ、健全かつ持続的に会社を運営していけば、会社は最もふさわしい規模であり続ける。我が社をこの業界においてどのような会社にしたいのか。トヨタのような会社を目指すのか、それともフェラーリのような会社を目指すのか。マクドナルドか、それとも5つ星レストランになるのかをよく考えればよい。
わたしが重視するのは資本ではなく、人である。業績を傍観している資本家ではなく、実際に仕事を行っている社員に会社のビジネスの見返りを還元したい。したがって事業を資本集約型にするのではなく、労働集約型にするよう常に心がけなければならない。巨額の資本を投じて大々的な広告宣伝を行うのではなく、お客様との密接な人間関係に依存した営業およびサポートを行うよう心がける。人件費を削減するために味気ないボイス・メール・システムを導入するようなこともあってはならないと思う。しかし現在の技術革新は日進月歩である。人間が行っていたサービスを機械に置き換える設備投資はよくないが、生産性や効率を高めることで付加価値が高まる設備投資は重要である。その違いを慎重に見極め、適切なものに投資を行う必要がある。そして収益は一人一人の社員が提供する価値によってもたらされるのであるから、常に個人が付加価値を高められる方法でビジネスを行うべきである。
我が社は他者が所有するソフトウェア製品を販売している。その限りにおいて、所有者であるサプライヤーはいつでも我が社からビジネスを奪うことが可能であり、実際、これまでに何度も経験してきた。したがって他者が所有する製品ではなく、自分達が付加し、かつ所有する価値、営業、サポートに商売の基盤を置くべきである。特定商品を特定地域の特定企業にのみ販売していたら、その製品のサプライヤーは我が社から販売権を奪い、その製品を扱う我が社の一事業部に取って代わる体制を自分達で簡単に築くことができると考えるであろう。しかし、その製品を統合型の製品/サービス群の一部として日本全国の様々な業種の顧客に販売していれば、我が社の販売体制に代わるものを簡単に自分達で用意することはできないと考え、我が社に販売を任せるであろう。
現在の規模である700人という社員は、強力なチームにもなれば、危険な暴徒、怠惰な群集、あるいは単なる700人の個人にもなり得る。最も優秀な社員を会社に留め、最も力を発揮させるにはチーム・ワークを築く必要がある。社員全員が互いに恩恵を受ける体制を築かなければならない。チームとして働いた方が、自分だけで行うのと同じかそれ以上の成功をもたらすと信じている社員はそのチームを離れることはほとんどないだろう。結束の固いチームのメンバーは、個人としても即戦力を発揮するだろう。
【 民主主義社会の一員としての義務 】
最後に企業経営者が忘れてはならないことは、自分達の成功の中で、自分の能力や努力による部分がいかに少ないか、そしていかに多くを社会から与えられているかということである。企業の運営にあたり、日本の道路や鉄道、港や空港、学校、病院、通信、電気、ガス、水道、下水、治安、さらには正直で好意的な日本人の国民性といったさまざまな恩恵を受けている。社会からもたらされるこれらの基盤サービスなしに、ここまで成功し発展することが果たしてできたであろうか。一企業の成功や繁栄が、どれほど社会の恩恵によってもたらされ、個人的な能力や努力による部分がいかに少ないかということを決して忘れてはならない。
世界の国々と比べてみるとよくわかる。エチオピアやバングラデシュなどの貧しい国、イラクやセルビアなど戦争や空爆で荒廃した国家、国民を貧困に追いやり残虐に扱う一方で少数独裁者のみが潤い権力を維持する中南米諸国に生まれ育っていたらどうだったか。健康で高い教育レベル、快適な暮らし、繁栄と幸福を享受することができたであろうか。
強者が弱者を略奪したり搾取するのは自然なことである。ほとんどの動物の世界は弱肉強食が常であり、それは過去も現在も変わらない。西欧社会は1789年のフランス革命まで、大衆を抑圧する一方、自分達は裕福な生活をする独裁者によって支配されてきた。イギリスにおいては日本の明治維新頃まで、貧しい人が蔑まれ虐待されてきた。「民主主義」という言葉は、米国を建国した金権主義者たちが使った言葉である。彼らは自らを富ませる個人的な道具として政府を利用し、支配することによって権力と富を確固たるものにした。米国が今日、世界に広めようとしている民主主義に基づく法律や制度の大部分は、ようやく20世紀になって米国で確立されたものである。
日本のように平等で幸福な国に戦後生まれ育った人には理解し難いことかもしれないが、一般国民のために統治されている民主主義国は極めて少ない。そしてその民主主義はごく最近になって達成されたものであり、非常に長い期間国民が苦労して戦った結果勝ち得たものであると同時に、それを維持するために国民が警戒を続けていかなければ、簡単に奪われてしまうものなのである。イギリスでは過去150年間に達成してきた民主改革の多くを1980年以降、サッチャー政権が元の状態に戻してしまった。米国ではレーガン政権が、過去100年間に築き上げた民主改革の多くを消し去ってしまった。そして日本でも、1990年以降、自民党とそこから派生した政党がさまざまな政策を強行し、日本人が過去50年以上にわたり享受してきた民主主義の利点を奪い続けているのである。
個人としての幸福や繁栄、我が社が企業として培った成功のほとんどは、国民の幸福を目標として治められた社会で生活し、働くことによって得られたものだと私は信じている。しかし過去10年間、それが急速に変わりつつある。日本の政府が、米国、日本の富裕者や権力者を利する一方で、国民の大半を犠牲にする意思決定をしているのをほとんど毎日のように目にする。それは米国政府や日本の富裕者、権力者の利益となる法案を制定したり、彼らが自分たちの利益のために税金を使うよう日本政府に絶えず圧力をかけ、説得しているからである。しかし、それとは対照的に日本国民の大半は、自分たちのための政治を行うよう政治家に圧力をかけられる手段であり、務めでもある、選挙での投票すらしないのである。これは民主主義という力を放棄しているに等しい。
企業の成功と幸福の多くは、個人の能力と努力だけではなく、社会からの恩恵によってもたらされる。企業の成功と幸福を維持するためには、日本の国民として政府に国民の利益に反するのではなく、利益になるよう日本を治めさせなければならない。そのためには、政府の行動を注意深く監視し、国民の利益に反することを行った政治家を選挙で落選させ、利益になることを行った政治家を当選させるとともに、仲間にもそうするよう呼びかけるべきである。