No.369 読者からのご意見とそれに対する回答

今回は読者からいただいたご意見と、それに対する私の回答、およびニューヨークの友人であるマイケル・ハドソンの回答をお送りします。

読者からのご意見とそれに対する回答

<社会消費増加の提案について>

* 個人消費より社会消費によって日本の経済を回復させるということですが、一方ではグローバル化や情報化をキーワードとして日本の経済を再生させなければならないということで企業は一斉に海外に向かって進もうとしています。私の会社も生き残りのために海外への展開を模索し始めています。製品のコストを考える時、グローバル化によって世界市場で大量生産が必要であるというのが主な理由であると思います。米国や独の巨大企業が世界市場での主導権を取るために企業買収を進めています。スケールメリットという経済原則で世界が動いていると感じています。私の会社もスケールメリットを出すためには海外市場を考える必要があります。また、世界の巨大資本に負けないようにするために海外に出ざるを得ないということもあります。

耕助: 『消費不況、こうして突破する!』でも述べましたが、私はスケールメリットの利点がなくなりつつあると確信しています。PCの価格が低下し、かつ使いやすくなると同時に、インターネットや他の通信ネットワークの普及、さらには電子決済、少量低価格の配達(宅急便)が提供されたことにより、製品やサービスの大量生産および配送の利点は急速に低下しています。さらに、企業買収の大半はスケールメリットを的に行うのではなく、主に競争と過剰設備の削減のために行われていると私は考えます。

* 日本国内の社会消費を増やすことが必要であるという主張には賛同しますが、日本の社会消費市場だけでは製品コストが上がるばかりで、いずれは海外の製品に負け、やがては巨大資本に飲み込まれてしまうのではないかという危惧を感じます。私が心配するのはその点です。日本企業は技術力はあるのに、やはり巨大資本によるコストという切り札に屈することになるのではないでしょうか。

耕助: 私はスケールメリットの利点が消えつつあると信じているので、正しく経営されている企業であれば大企業との競争を心配する必要はないと思っています。さらに正しく経営されている企業であれば株式を公開しない限り、あるいは公開したとしても株主が私利私欲のために株を売らない限り、巨大資本に飲み込まれることを恐れる必要はありません。最近の傾向として、多くの日本企業が資本を集めるのに株式市場に依存し過ぎており、それが原因で自らを危険に晒しているのです。日本経済が最も健全であった時、大半の企業が資本の多くを銀行から借りていました。あまりに多くの日本企業が高度成長期の先達の経営方法を捨て米国のやり方を模倣し、さらに長期的な安定を犠牲にして短期的に低コストな方法で自己資本を獲得することによって、不必要に自らを乗っ取りの危機に晒しているのです。

* 私も日本の社会資本が十分ではないと感じていますし、社会消費といった時、公共事業だけを指すのではないということも理解できますが、公共事業といえば、金権政治につながった高度成長時代の悪夢を思い出します。後世に借金という付けを残してまで、公共事業を中心とした社会資本の充当に当てようとしているのが現状だと思います。

耕助: 現状をもたらした原因は投票率の低下にあると思います。20~30年前には80%近くの有権者が選挙で投票をしていましたが、現在では3分の1に下がっています。国民が選挙で投票するという責任を放棄し、投票率が下がれば、政治に占めるお金の力が強まり、金権政治が生まれます。この金権政治に対抗するために必要なのは、投票率をできる限り100%に近づけることであり、金権政治を倒すにはそれで十分だと私は考えます。社会消費の必要性については、次の私の回答をご参照下さい。

* 社会消費による景気浮揚策はよい考えだと思いますが、グローバル企業だけが生き残れるという経済サイクルの中で、一体どのように考えればよいのか貴殿のご意見を伺うことができれば有り難いと思います。

耕助: 社会消費を増やしたいと私が考える主な理由は、それが国民の幸福を増やすからです。生産者は国民の幸福のために生産すべきであり、生産者の過剰生産能力を吸収するために国民が余計な消費をする必要はありません。日本に限らず社会の目標は、国民の幸福であるべきだと私は信じています。そしてその幸福には個人消費と社会消費の両方が欠かせないのです。企業の目的は国民の幸福に寄与することであって、収益や売上、マーケットシェアの拡大であってはならないと私は信じています。

また社会は、輸入に必要な外貨を稼ぐ分だけの輸出をすべきだと思います。それ以上の輸出は他の国からビジネスや雇用を奪うことになるため、他の国の幸福を減じることになります。日本企業がコスト削減や過剰設備の利用のために海外輸出を行えば、他の国の生産者や労働者から仕事を奪うことになります。他の諸国の生産者がビジネスを健全に保つために必要な仕事と、労働者が雇用を維持するために必要な働き口を、日本企業が奪うことがあってはならないと思います。こうした行動は、近隣窮乏化政策と呼ばれます。

我々は自国民の幸福だけに集中すべきです。日本の生産能力は個人の需要を上回っており、その余剰生産能力を社会の需要に振り向けるべきなのです。社会の需要が満足させられて初めて、国民は労働時間を減らし、余暇を増やすことに時間を振り向けることができます。したがって、日本企業が、輸入代金に必要な輸出も含め、国民の幸福を満たすことに努力している限り、日本政府は、日本企業が外資に乗っ取られないよう保護すべきなのです。結局、政府の役割は、国民および日本企業を保護することにつきるのですから。
<最貧国の借金帳消しについて>

* 昔見たTVドラマの、逃亡者で、州を越えるとやり直せる米国は、変だとは思っていたのですが、国の話と個人の話を一緒にはできないでしょう。最貧国は貧乏人とは違うから、アナロジーの論理は成立しないと思います。

耕助: 私はそのテレビドラマを見たことがありませんが、「最貧国の借金は帳消しにすべき」(No. 348)が指摘していることは、米国の破産法が、最貧国の貧困者に対するより自国民に対してずっと寛大であるということであり、返済の見込みのない借金から米国民が容易に逃れられるようにしているという点です。借金を帳消しにすることは、確かにその場は損失となりますが、負債者が立ち直り健全な消費者となれば、社会全体としては最終的にその損失分を取り戻せるという考え方です。国内の負債者にはこうした理屈を適用する米国の債権者が、最貧国の貧困者にはなぜそれを適用しないのでしょうか。さらに最貧国の国民が支払いを求められている負債の多くは、腐敗した政府(多くは腐敗した独裁者)が国民を抑圧するために米国から兵器を購入したために発生した負債なのです。この点については、「忌むべき負債」(No. 349)で、著者のパトリシア・アダムスが指摘しているように、そうした忌むべき負債を帳消しにすることに関しては、道徳的論理、および判例が存在しています。

ハドソン : 支払能力を超えた負債の返済義務から開放するという伝統は、ハムラビ法典や聖書の時代にまで溯ります。旧約聖書のヨブ記には、借金のかたに未亡人から牛を奪うのは正当ではないと記されていますし、申命記では、債権者が負債者から生活の術を奪うことが禁じられています。すべての社会は、債権者に融資と貯蓄の総額を増やし続けさせることを優先し、経済全体を立ち行かなくさせてもいいのかどうかを判断する必要があります。借金を帳消しにする社会は、バランスを保つことにより生き延びることができますが、借金の義務に固執する社会では、負債者が苦しめられ、権利が剥奪される一方で、資産は裕福な債権者の手に集中することになります。そのような社会はすぐに破綻することになります。

これは、1990年以降、日本が経験している状況と酷似しています。今日、日本では、「不良債権を帳消し」にすることは、国民の貯蓄を帳消しにすることを意味します。日本は不動産投機家の負債は帳消しにしましたが、その融資に使われた貯蓄はそのまま残し、その貯蓄に対する責任を政府が肩代わりすることにより、負債帳消しのリスクを社会全体に負わせたのです。これによって、富裕な貯蓄者と、その富裕者に融資をさせられた一般の貧しい貯蓄者が救済され、日本の公的負担が増加したのです。

また、米国に関していえば、日本や中国、その他の国の中央銀行に対する負債を返済する意思はありません。これらの国々は貯蓄を米国に融資していますが、ある時点でそれらは債務不履行となるでしょう。しかしその米国は、他の諸国には、ドル建て債務の支払拒否を認めることをしないのです。上記の議論の中で欠けているのは、全体的なバランス感覚であり、問題なのは個人の負債者や貯蓄者ではなく、社会全体のなのです。

* 上記のコメントは、日本の徳政令に関する考え方と同じだと思います。ただし、徳政令が出されたのは君主制の時代でした。

耕助: 君主制の時代にはできて、なぜ民主主義の政府にはこうしたことができないと思われるのでしょうか。公的資金を使って住専や銀行の博打負債を帳消しにした政府の行為は、債務免除とどこが違うのでしょうか。統治者に賄賂や天下り先を提供できる裕福な企業の負債は免除できる政府が、最貧国やその貧しい国民の負債を免除できないというのでしょうか。