今週は、イギリスの規制緩和に関する記事をお送りします。規制緩和により企業の利益を優先させればどのような状況がもたらされるのか、道路工事や労働時間に関する規制を例に挙げて説明しています。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております
没落への道: イギリス企業が統制を拒めば、イギリスの社会構造は崩壊する
『オブザーバー』紙 2000年4月2日
ウィル・ハットン
我々は企業文明の時代に生きている。社会の目的は企業に仕えることにある。個人としての適応能力は、いかに柔軟かつ企業家的になれるかで判断される。政府の適応能力はいかに企業を満足させられるかで決まる。国家予算案は企業の気に入るものでなければいけない。企業は税金や規制の負担に苦しめられるべきではない。企業は自由支配を許されるべきである。同情、正義、公益といったものは企業の役に立つ場合のみ認められる。
こうした信念による支配があまりに優勢なため、我々はもはやこれを異常だと感じなくなってしまった。我々は3月末、企業とブレア党首が掲げた新しい労働党との蜜月は終わったと企業経営者が考えているという警告を受けた。政府が医療費予算を拡大したことは犯罪だと見られているが、それは歳出が増えればインフレ抑制のために金利引上げの必要が出てくるかもしれないからである。さらに悪いことに、政府は有給の出産/育児休暇を認める法令まで検討しているという。
労働条件や生活環境の改善は、政府の関心事とは思われていない。それどころか、国民全体の利益を増進させる人民主義の立場をとることや、より良い医療サービスや家族の絆を強めようとすることで企業びいきの風潮を損なうことは、政府としてふさわしくないと考えられている。それ以上の犯罪はないというくらいに。
企業も欲張り過ぎている。確かに1970年代の停滞期へ戻るのは良くないことであろう。資本主義の前提条件は、企業が利益を生むことにある。しかし、振り子はあまりにも大きく振れ過ぎている。公的機関の権力拡大や規制強化に対しては、たとえ正当な理由があっても病的な反応を見せる。また税金は例外なく耐え難い負担だから最小限に抑えるべきだという。企業は自分達が所属する社会に貢献するどころか、海外に移転すると声高に叫んでいる。
しかし、あらゆる企業と国民の幸福のための秘策として、規制緩和、小さな政府、低い税率、使い捨ての労働市場などへ傾倒することは疑ってみる必要がある。たとえそうした熱狂が富の創造に十分必要な原動力だとしても(私はそう思わないが)、もっとも戦いに慣れたインスティチュート・オヴ・ディレクターズ(英国の実業家団体で最大のものの1つ)の会員でさえ躊躇するほどの代償が伴うからだ。事実、彼らが信奉する哲学の直接的な結果である交通渋滞の中では、躊躇どころか、一歩も先へ進めない。
イギリスでは道路工事が絶えず行われ、どこの大都市でも道路を移動することさえままならない状況にある。トーリー党の遺した企業寄りの法律が1991年に新しい道路工事法として改定され、地方自治体の許可なく道路工事が行えるようになった結果、80以上の公益企業が今やここぞとばかりにその自由を行使している。
トーリー党の考え方は、非効率な地方行政の規制力を取り除き、それを運輸省による軽い規制に置き換えるというものであった。公益企業に課された唯一の義務は、運輸省と地方自治体に、どの道路を通行止めにするかを事前に報告することだけになった。運輸省も地方自治体も、公益企業の活動を拒むことも、後らせることも、早めさせることも、工事を夜間に限定することさえできない。そうしたことは、富の創造に対してあまりに大きな負担だと考えられた。
その結果、いくつかの主要な公道が、ケーブルテレビ会社やその他公益企業によって何の調整もないまま次々と勝手に掘り返されている。それを拒絶する権限は誰にもない。道路によっては、掘り返されて舗装されたと思ったら、また掘り返されるということを繰り返しているところもある。ロンドンのカムデン・ハイ・ストリートは1年間に85回、グラスゴーのグレートウェスタンロードは233回も道路工事が行われている。
これを解決するのは簡単である。ネットワークは何重にも重複して敷設する必要はなく、公益の原則に添って全国に1種類のネットワークを準備すればよい。そして、デジタルのテレビ・チャネルの提供などにケーブル・ネットワークへの接続を望む企業は、費用をかけて独自にネットワークを構築するのではなく、すべてこの全国共通のネットワークを使えばよい。道路工事を行いたいという企業は、地域の住民に選ばれてその地域に仕える権力と責任を持つ地方行政によって厳しく規制されるべきである。予定より工事が長引けば罰金を課したり、早く終わらせるための奨励金を与えたり、あるいは幹線道路の工事は夜間にしか認めないなどの措置がとられるべきである。おそらくこれはブレアの新しい労働党ではなく、「古い労働党」の考え方かもしれないが、自分が住む都市を自由に移動できることは大切だと私は考えるし、他の人々、特にビジネスマンも同様の考えだと思う。
現在の社会基盤に対する企業の愚行は変化を余儀なくするであろう。私がそう考える理由は明白で簡単だが、企業がさらなる負担の削減や規制緩和を要求すれば、もっと目につきにくい、しかし同じように有害な代償が伴う。
イギリス人の労働時間は他のヨーロッパ人労働者よりも長い。労働市場に対する規制緩和はサッチャー政権によってもたらされたと一般には考えられているが、実際にはそれ以前に溯る。1970年代においてもイギリスの失業率は高く、労働市場はきわめて柔軟で、週に48時間働く労働者の数はヨーロッパのどの国よりも多かった。その数が過去20年間にさらに増加した。そのため仕事を持つ父親と母親は家庭で子供と過ごす時間を減らす代わりに仕事場での時間を増やし、その結果子供の心身に有害な影響をもたらしていることは数々の世論調査が示している。
こうした結果が出ているのは、なにも世論調査の設問が偏っていたからではない。イギリスの子供たちには、ストレスに起因する病気が極端に多いことを示す研究結果もたくさん出ている。3月末に、「マザーズ・イン・マネジメント」という団体が発表した研究結果によれば、イギリス人の子供の実に20%がストレス関連の病気に苦しんでいるという。子供を持つ親であれば誰もが証言するであろうが、親子の交流時間の質を高めればよいといった考え方は、子育てにおいてはまったく意味をなさない。子供の場合、職場の会議のように、話したい時間、遊びたい時間を事前に決めておくことはできない。子供が親を必要とする時にそこにいてあげられるよう、常に近くに待機している必要がある(私自身はこれをまったく実行できていないが)。子供は親が近くにいてくれなければ、親にとって家の外でのことの方が中で起こることよりも重要なのだと思い込み、その結果、子供の自尊心は傷つけられ、ストレスも増える。
労働時間が長ければ生産性が上がるのなら長時間労働も正当化されるが、労働時間と生産性の間に関係があるとすれば、まさにそれとは逆の反比例の関係にある。イギリス人は、他のヨーロッパ諸国に対し、労働者に優しいといわれるイギリスの労働市場を模倣すべきだと講義するが、イギリスの生産性はヨーロッパ大陸の平均に比べ約20%も低い。労働時間と生産性が反比例の関係にあることをイギリス人はきちんと理解しているのであろうか。高い生産性、短い労働時間、ストレスの少ない家庭は、そんなに悪いことなのだろうか。イギリス人の労働時間が長いのは長時間働きたい、生産性を上げたいと思っているからではなく、そうすることが文化的に認められるようになったからである。そしてその文化的容認の1つが、いかなる変化も富の創造過程を崩壊させるという企業の特別な要求をあまりに容易に受入れ過ぎるということでもある。
これがイギリス経済界が何十年間にもわたってとってきた態度である。イギリスの経済界は、19世紀に工場法(労働時間、保安基準などを定めた法律)に反対した。また、政府が子供の労働を禁じた時、イギリスの哲学者ハーバート・スペンサーは、自由と資本主義が崩壊すると予測した。1920年代の労働環境改善を求める戦いは、企業の経費を大幅に押し上げ、イギリスの国際競争力を低めるとして抵抗に遭った。
今日、道路工事の夜間限定、有給の出産/育児休暇の提供、週48時間以上の労働の禁止は、企業に対する不条理な脅威と見られている。ヨーロッパで見られるような質の高い医療サービスを提供すれば、一時的に金利を押し上げることになるとの批判はもっともらしく聞こえるものの、結局、イギリス国民はその高金利を喜んで支払うだろうと私は見ている。
企業の成功は良い社会を築くための手段であって目的ではないことを、企業は強く肝に銘じるべきである。労働時間には制限を設けるべきである。優良企業の中には、フレックス制度や長時間労働の制限は、社員だけではなく企業にとっても良いことだと理解しているところもある。ただしその土壌には、こうした規制や介入を不本意だとする文化や表現が広く一般に存在する。
もし再び規制が可能となるよう文化を変更しようと思うなら、他の価値観も重要であり、企業の利益は公益ではないとする信念を持つ必要がある。それには啓発された企業と政府の両方に指導力が必要である。その点、首相は好運な立場にある。有給の育児休暇を認める法律が制定されずとも、他の価値観の重要性を示すため、子供が生まれたら1週間の休暇をとり、その行動により無数の影響を及ぼすことができる。興味深いことに、ブレア首相の任期中、この決定は最も重要なものの1つになるであろう。ブレア首相は働かないことで、国民に間違った信号を送ることになるのではないかと心配している。そんな首相を我々は安心させる必要がある。それこそ我々が求めている信号なのだ。