No.385 青少年犯罪の多発に思う

1997年、神戸で小学6年生を殺害した犯人が14歳の少年であったという事件は、非行という言葉ではくくれない少年の心の闇の深さに驚愕したものですが、このところ高速バス乗っ取りや主婦刺殺など、青少年による重大犯罪が相次いで起きています。これらの犯罪の原因がどこにあるのか、私なりに考えてみました。

青少年犯罪の多発に思う

 

昨年12月21日、京都で小学2年生の男子が21才の男に包丁で刺され死亡した。今年1月28日には、新潟で1990年11月に行方不明になった当時小学4年生の少女が、9年2ヵ月ぶりに保護され、この女性を自宅に監禁していた37歳の男が逮捕された。また4月初めには、15歳の少年が同級生の不良少年約10人に暴行を受け、中学在学中に約5,000万円を恐喝されていた事件が明るみに出た。その少年が入院していた病院の同室の男性が異変に気づいて加害少年の家を訪ね、その親たちが警察に訴え出るまで、教師や周囲の大人は何の行動も起こさなかったという。さらに5月3日には、17歳の少年が高速バスを乗っ取り、6歳の女の子に刃物を突きつけて人質とし、刺された女性の一人が出血多量で亡くなった。その少し前には豊川市で65歳の主婦が17歳の高校生に刺殺されている。

これらの犯罪は、日本人男性が男らしさを失い、弱体化していることの表れだと私は見ている。なぜならほとんどの事件は、弱者を対象に犯罪が行われているからだ。腕力がほぼ同等の男同士が殴り合いや、殺し合いをしたという話はまず聞かれない。聞かれるのは、家庭では夫が妻や子を、または親が子を虐待する事件、そして学校では集団で弱い者いじめをするといった話ばかりである。

弱い者のみを対象にしたこうした陰湿ないじめ、ひいては殺人を行う平成の男たちを見ると、結婚や出産をしたがらない日本女性が増えているというのはむしろ当然かもしれない。母親がこぐ自転車の荷台に乗せられた幼児のように、少女の自転車の後ろに立ち乗りする十代の男子。そうした光景に出くわすたびに、私は日本男子はいったいどうなってしまったのだろうかと、嫌悪感を覚えずにいられない。

かつて、日本男子といえば男らしさが売り物であった。武士道。大和魂。武士は食わねど高楊枝。米国で育った私は、第二次世界大戦中にアメリカ兵が日本兵と陸地戦で一対一になると、自分よりもずっと小柄な、しかし強靭な精神力を持つ日本兵にどれほど恐怖を感じたかという話をよく聞いたものである。また私が日本に来たばかりの30年前には、私自身、日本男性を男らしいと感じたし、当時は芸能人でさえ、今のような中性的な男性俳優ではなく、侍映画でお馴染みの三船敏郎が人気を博していた。

「侍の国」日本は、いったいどこへいってしまったのであろうか。日本人は、男の育て方を忘れてしまったかのようである。人間に限らず、動物や昆虫の世界でさえ雄と雌は基本的に異なる役割を持つ。出産と育児は雌の役割であり、その間、雌と幼い子供は雄の保護下に置かれる。雌は生命を育む機能のためか、一般的に他の生き物に危害を加えたり命を奪うことには抵抗感を持つ。それゆえに雄が雌や子供を守ることはますます重要になる。だからこそ動物の世界だけでなく、さまざまな国で女には生命を育む優しさを、男には種を守るための強い防衛本能を植え付ける教育がなされている。ところが日本では、出産や育児が女性の務めであることは変わらないものの、男の務めが女性や子供を守ることだということを、1945年以降、教えなくなってしまった。

「亭主関白」という言葉が、家庭内で権力を持つ父親や夫に対する否定的なイメージになり始めたのは戦後まもなくであった。その一方で女性の力が強くなり、家庭内での男性の権威は失墜した。現代の日本の少年たちにとって父親は、尊敬し畏怖の念を持つ対象ではなくなり、代わって母親が、服従・依存の対象になった。

それと同時に、日本政府も、日本国民が自分の手で国を防衛する必要はないということを国民の頭にたたき込んできた。もし日本が他の国から攻撃または侵略されても、日米安全保障条約によって米国が日本を守ってくれるという理由からである。日本政府は日本男子に国家を守るのに必要な男性本来の役割を教えず、また家庭においても息子たちは妻や子供、弱者を守ることを教えられていない。社会も家庭も、男として果たすべき役割を教えないのであれば、日本の男が男らしさを失うのも当然である。

それでは本当に米国は日本を守ってくれるのであろうか。安保条約を云々する前に、まず米国の女性が、自分の妻子を守ろうとしない日本の男に代わって、自分の夫や子供が命を危険にさらして日本のために戦うことを許すかどうかを考えて欲しい。日本人男性が国家を守るための準備も訓練もせずに遊びや金儲けに熱中しているのに、その日本を守るために米国人男性が準備や訓練をすべきだとでもいうのであろうか。

国家と家庭の安全を心配するのであれば、また米国が日本を守るというすばらしい主張を信じる気になれないのであれば、安保条約を読むべきである。米国による日本の防衛について書かれているのは第5条と第6条だけである。

第五条 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。前記の武力攻撃及びその結果として執ったすべての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定に従って直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執ったときは、終止しなければならない

ここでは、日本が武力攻撃を受けた場合、「各締約国は、自国の憲法の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する」とだけ記されており、それがいかなる行動になるかは米国が米国の憲法の規程および手続きによって決めることである。日米共通の危機に対処するには、それを遠くから傍観することであると憲法の規程や手続きに則って米国が判断すれば、それが米国にとって適切な行動となり、それだけで安保に規定された約束は果たしたことになる。または武力攻撃から日本を防衛するとして、その条件として沖縄やNTTドコモの所有権を米国に移管すべきだということを憲法の規定や手続きにしたがって米国が要求してきても、それも安保の付帯条件になるということなのだ。

第六条 日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。前記の施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位は、1952年2月28日に東京で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基づく行政協定(改正を含む)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される

第5条で日本に対する米国の義務が極めて曖昧なのとは対照的に、第6条では日本の米国に対する義務が明確に規定されている。安保条約は米軍による占領強化条約に他ならない。援助交際がその実態とは異なるものを意味するのと同様、安保は西欧の帝国主義諸国が過去200年間にわたりアジア諸国を従属させ、植民地化し、搾取するために利用してきた不平等条約の一つなのである。

他国の男性が日本を守ってくれるという幻想を信じ込むことによって、日本は家族や国家を防衛する力を失っただけではなく、男らしい男もいなくなった。アメリカ人が日本人男性の妻子や富を奪うのではなく、保護してくれると信じるのはあまりにも愚直である。

武力攻撃や侵略から家族や国家を守るという意識を日本人が失った1945年以降、世界ではそうした軍事攻撃あるいは侵略の危険性は逆に高まっている。20世紀は史上もっとも戦死者および戦争による被害が多かった世紀であり、特に後半の半世紀にそれが集中した。その中心的役割を果たしたのが米国であり、売春を援助交際と呼ぶように、防衛と称して米国は他国を攻撃してきた。このような国に自国の防衛を委ねる日本人は、かつてローマ帝国が外国人の傭兵に防衛を委ねて衰退したことを思い出すべきである。また同じようにして平安時代末期から戦国時代に突入していったのではなかっただろうか。

弱い者をいじめる一方、強者にへつらうという卑怯さは、特に平成時代における日本の国家的特質のようである。実親による子供の虐待件数は過去最高に上っている。校内暴力が多発しても、教師や警察は見て見ぬふりをするというのが今の日本社会の風潮である。日本政府は米国などの強い国にへつらう一方で、弱い国には高圧的な態度をとっている。インドやパキスタンが核実験をすれば激しく抗議するが、米国がそれよりもはるかに破壊的な核兵器の実験を行っても口を閉ざしたままである。カンボジアやインドネシアのような弱い国には邦人保護の目的で自衛隊を派遣しなければならないと強く主張するが、米国や中国にはそうした主張はまったく行わない。

多発する青少年犯罪の原因を探る鍵がここにあると私は考える。この弱い者いじめの特質に米国のそれを見るからである。米国はセルビア、イラク、ソマリア、ベトナム、北朝鮮、パナマ、ニカラグア、メキシコなどの弱小国に対しては、巨大な軍事力を使って威嚇したり、攻撃を行うが、中国や元ソ連、その他の大国に対して軍事力を試したことはない。過去2つの大戦で米国がドイツに開戦したのは、何年にもおよぶヨーロッパでの戦争でドイツが疲弊した後であった。さらに弱小国家を攻撃する時でさえ、兵士を地上戦に送るのではなく、遠く離れた空や海から爆撃する戦法を選ぶことがほとんどである。「侍の国」日本が弱い者いじめの国になったのも、日本が米国に軍事的かつ政治的に支配されている一つの結果にすぎないのではないだろうか。