No.386 資本主義とは何か

今回は、資本主義の概念がどのようにして今のような形になったのか、どうやってこれだけ社会に浸透していったのかについて、様々な文献から私が学んだ知識をもとに、まとめました。

資本主義とは何か
イギリスの土地は、貴族の所有地を除き、そのほとんどは何世紀にもわたりすべての国民の「公共用地」であった。経済は交易ではなく、自給自足に基づいていた。つまり人々が食料を獲ったり耕作したり物を作るのは、自分や家族の需要を満たすためであり、他の人に売って利益を得るためではなかった。それぞれ違うものを作って近隣の人と交換することはあっただろうが、輸送手段が発達していなかったために、そうした物々交換は地元でしか行われていなかった。ほとんどの人は死ぬまで、生まれた村から遠く離れることはなかった。

すべての人々が狩猟や耕作、家を建てたり家族の自給自足に必要なものを作るために公共用地を使うことができた。しかし、そこには、自分と家族の健康と安寧のために必要な分の土地は利用してもよいが、それ以上の土地を独占してはならないという道徳的規範があった。働ける者が貧窮することはなく、働けない幼児や老人、病弱な人は親族や近隣の人々が面倒を見た。この状況はアーノルド・トインビーの『産業革命』に詳しく記されている。

確か15世紀であったと思うが、毛織物の市場が出現し、羊を飼って羊毛をこの市場で売れば金儲けができることを発見した人々がいた。彼らは公共用地の囲い込みを始め、そこで暮らす人々を力づくで追い出し、それでも立ち退かない場合は家や作物を焼き払った。もちろんこれは違法行為だが、多くの場合、権利よりも力が優先した。このことからもわかるように、「民営化」は新しい概念ではなくこの頃から存在していたのである。

土地を追われた者たちはせいぜい抗議するくらいが精一杯で、彼らを守ろうとしたイギリス国王さえ、広大な土地を手にしてオリバー・クロムウェルのもと団結して対抗する者たちによって捕らえられ処刑されてしまう。そして自分達の仲間で議会を結成し、武力で取り上げた土地の所有を合法化する法律を成立させた。さらに公共用地の私有化のために「囲い込み」を許可する法律を次々に制定し始めた。この「囲い込み」はその法律の制定者にとって功を奏し、19世紀末には、イングランド、ウェールズ、アイルランド、スコットランド全土の半分がわずか2,512人によって所有された。

その間ロンドンなどの大都市では1ヵ所に集まって商品を売買したり、金銭を貸し借りして利益を手にする商人階級が出現した。社会的地位を高め政治的影響力を持つためには、広大な土地を所有する必要があったために、商人たちは商品の売買や金貸しで得た利益で土地を購入したり、土地所有者との縁組みで所有地を増やしていった。こうして土地所有者と財界人が結び付けられるようになった。

【 知識人たちの役割 】

土地所有者や財界人の層から知識人も出現し、彼らは当然自分たちの階級の利益を代弁した。また政府提供の仕事に依存する知識人もいたが、政府も土地所有者や財界人によって支配されていたために、彼らの利益を代表することが多かった。さらには、直接、土地所有者や財界人が提供する仕事に依存する知識人もおり、当然彼らの利益を代表した。結局、当時も今日と同様、土地所有者や財界人の利益に逆らっては、自分や家族の快適な暮しは望めないということをほとんどの知識人は知っていた。

考えてみればそれは当然である。なぜなら知識人は自分の知識を製品やサービスとして売って生計を立てており、快適な暮しのためにはそれが購入できる金持ちや権力者に奉仕しなければならなかったからである。食料や衣服、住居さえ満足に確保できない貧困者が、知識人を雇ったりサービスを受ける余裕はない。また、中流階級も、余裕があれば少しでも良い生活をと当座の生活費に充てるため、知識人の製品やサービスを買うことはほとんどない。結局、金持ちか政府以外にこうした知識人の製品やサービスを買う余裕のある者はいなかったのである。また、当時は政府そのものが民主主義的ではなく金権主義的であったため、政府に雇われた知識人が誰の利益を代弁するかは明らかである。

さらに、当時、国民をマインドコントロールすることは不可能であった。なぜなら国民は読み書きもできず、情報伝達の範囲も狭い地域に限られていたからである。したがって少数権力者が、弱い一般大衆を支配するためには暴力を使うしかなかった。たとえ表面的にせよ、ほとんどの人が読み書きができ情報伝達範囲が世界的になり、最も高い金額さえ提示すれば通信手段や知識人を購入したり雇ったりできるようになった今日、少数の金持ちはマインドコントロールで大衆を支配できるため、もはや暴力を必要としない。マインドコントロールは識字能力を持つ無知な大衆に特に効力を発揮する。無知であるがために真偽、正誤の区別をすることができないからだ。大学で勉強しなかったことを自慢し、頭を使わずにゲームや暴力やセックスであふれる漫画にうつつを抜かし、くだらないテレビばかり見ている人々は、最も支配しやすく、したがって最も搾取しやすい相手なのである。

こうして知識人たちは、その雇い主である土地所有者や財界人が残りの国民を搾取することでさらに自分達を富ませる手助けをすると同時に、不正で金持ちになった者の身分を正当化する理論を作り上げ、喧伝し始めた。経済学者はこうして生まれた。少数が多数を搾取することを正当化し、それを助ける理論や理屈を最もうまく作り普及させた者が、最も高給で有名な経済学者となった。そして今では、そうした搾取者たちの利益に最も貢献した理論や理屈を作り上げた経済学者には、大量破壊兵器の爆薬を売って大儲けをしたアルフレッド・ノーベルにちなむノーベル賞が毎年与えられている。

ラビ・バトラが記した『The Great American Deception』からOur World No. 383で取り上げた自由貿易という概念は、イギリスの植民地に対して安い原材料で自国の製造業を発展させるのではなく、イギリスに安く原料を売り、イギリスから高く製品を買うべきだと説得するために、イギリスの事業家が19世紀に作った理論である。以降、米国の経済学者によってその理論は洗練され、今では、労働者、消費者、環境に対していかなる悪影響を及ぼそうとも、大企業は最も安く労働者を調達できる場所で製造し、最も豊かな消費者のいる場所でそれを売りさばくことができるという考え方として広まっている。

【 資本主義の概念 】

資本主義は、少数による多数の搾取を可能にするために作られた理論である。オックスフォード英語辞典によれば、資本主義という名称が登場したのは1854年だが、その概念はすでに1776年にアダム・スミスの『国富論』や、当時のイギリス経済学者の論文に登場している。その概念とは、すべてのものは資本と土地と労働から作られているため、生産物は資本家、土地、労働者で分配しなければならない、というものである。分配しなければ、資本も土地も労働力も提供されない。生産物は、資本、労働力、土地の所有者から、生産効率が最適になるよう、それぞれの所有物が提供されるように分配されなければならない。

それぞれに分配すべき最低の見返りは、その効力を発揮できるよう、消耗や侵食を防ぐのに十分な額でなければならない。資本の中でも、今日最も馴染みの深い貨幣資本に関しては、最低でもインフレ分は支払われなければならない。なぜならそれ以下だと提供した貨幣資本の価値が目減りするからである。土地や貨幣以外の資本には、その生産価値が維持されるのに必要な分だけ生産物が分配されなければならない。すなわち農地であれば土地の生産能力を維持するために必要な肥料や品種改良費などに見合う分だけ支払われる必要がある。労働に対しては、労働者の体力や気力を維持し、その後継者である家族を扶養するために必要なものが分配または賃金として支払われなければならない。

では資本、土地、労働を提供した者にこれら最低限のものが分配された上に余剰生産物が出たときはどうなるのか。資本主義の概念を編み出した人々は、この余剰生産物の分配率は競争によって決まるとした。資本家は最も高い見返り額を提示する入札者に資本を提供する。食料生産よりもチューリップ相場に資本を投じた方が見返りが高ければ、チューリップ相場に資本を投じるだろう。土地の所有者も同様で、その土地で小麦や米を作るのか、それとも集合住宅を建てるかの判断は、どちらの見返りが大きいかで決まる。

ところが、資本主義概念の標榜者たちは労働については別の扱いをした。彼らは、労働者には生存に必要最低限以上のものを与える必要はないと主張するために、ありとあらゆる理屈を用意した。ある者はユダヤ教やキリスト教の教義を持ち出して、人間は元来怠け者かつ悪者であり、家族を含む労働者の体力、気力の維持に必要な分だけを与えるべきであり、それ以上を与えれば飲酒や賭け事、女遊びに向けられるだけだとした。また、労働者に体力と気力維持に必要以上の賃金を与えると、多くの子供が生まれ人口過剰になると主張した者もいた(マルサスの人口論)。さらに、たとえ30人の従業員の企業であっても、労働者は団体で交渉しなければ1人の資本家や1人の土地所有者に対抗できないにもかかわらず、資本家や地主は集団労働争議を行う権利を労働者に認めるべきではないとする理由を考えた者もいる。

【 資本と土地の優遇 】

社会の生産能力が侵食されないよう、資本、土地、労働のすべてに対し生産能力を維持するのに必要最低限の生産物を分配しなければならないものの、資本と土地には、その最低限以上のものを与えられるべきだというのである。資本主義の概念というものが、資本家や地主が自分たちの利益を守るためにお金を払って作らせたものだということを忘れていると、この話は理解しにくいかもしれない。最低の賃金しか得ていない労働者には、知識人を雇って自分達に利益をもたらすような代わりの理論を用意させ、喧伝させることがどうしてできたであろうか。

必要最低限の配分を超える全余剰生産物を資本と土地だけに分配し、労働者には分配しないというのは、この資本主義理論の小さな欠点にすぎない。なぜ資本と土地だけが生産に使われたその他の原材料や道具以上の分け前を得なければならないのか。なぜ資本と土地だけが、石油や石炭、木材、釘や金槌、ネジやねじ回しとは違う扱いになるのか。さらには、労働の介入なしに作られたという物があるだろうか。労働の助けなしに、資本あるいは土地だけで作られたものがあるだろうか。もちろんない。資本主義とは、社会の生産物、すなわち労働者の働きで生産された生産物から資本と土地だけに特別な分け前が与えられるようにと、資本家と土地の所有者に金で雇われた知識人たちが考案し、喧伝したものである。すなわち、資本と土地を優先させる理論だといっていい。

石油、石炭、米、小麦、果物、靴、シャツ、自動車、コンピュータ、食事、宿、銀行、輸送機関などの製品やサービスは、すべて人間の労働と、人間の手で発明され作られた機械や道具を使って生産される。労働者は、資本、土地、石油、石炭、木材、釘や金槌などを使うかもしれないが、この中で土地と資本だけを、他の原材料に比べて特別扱いしなければならない正当な理由はない。これらの生産に必要な原材料や道具を提供する人々にはその提供を動機づけるに十分なお金を払う必要はあっても、それ以上を払う必要はまったくない。原材料や道具の費用を払ってもなお余剰な生産物があれば、それはすべて労働を提供した人々の間で分配されるべきである。

孤島や山奥に1人で住む隠者なら自分一人の健康や幸福に必要なものだけを作ればいい。1つの社会で共に暮らす共同生活者は、構成員の健康や幸福に必要なものを集団で生産しなければならない。その社会が盗みを許し奨励すれば、盗みがはびこるのと同様に、一部の構成員が他者の取り分を奪うことを許しそれを奨励する社会は、当然そうした寄生に悩まされることになる。純粋に生産的な作業を要求し奨励する社会は、純粋に生産的な収穫だけを刈り取ることができるであろう。純粋に生産にかかわる労働者の生産物の一部を、生産的作業にまったく貢献していない人々に与えてしまうような社会は、生産的労働者のやる気をくじくであろう。

【 資本 】

生産に使われる石油、石炭、木材などの原材料や道具と、資本を別扱いする理由はまったくないことに加えて、資本の運転状態の維持、または侵食や目減りを防ぐのに必要な分より多くを資本に見返りとして支払う必要はまったくない。資本は、過去の貯蓄から減少分および価値の低下を差し引いて残ったものの蓄積である。貯蓄は消費されなかった生産物にすぎない。現在の健康や幸福のために必要な分より多くを人や社会が生産または手にすると、余剰分は後で使うために貯蓄したいという自然な欲求や傾向が生じる。つまり、貯蓄のために特別な奨励や見返りを与える必要はないのである。家族が現在消費するのに必要な量以上の食料を生産した農家は、後で自分で食べるか、または家族や家畜に与えるために貯蔵しておくだろう。サラリーマンであれば、家族の幸福や健康に当座の必要以上の所得があれば、後で自動車や家を買ったり、休暇や子供の学費、結婚費用、不慮の出費、定年退職後の生活に備えて、余剰分を貯蓄に回すだろう。その貯蓄の価値が目減りしないという保証さえあれば、貯蓄のために特別の奨励や見返りは必要ない。貯蓄をさせるために必要なのは、それがインフレや盗難や汚職によって減ることがないという保証だけである。そして社会は貯蓄者の預金を盗んだり、それで博打を行ったり、あるいは不正流用しないよう銀行を規制さえしていれば、あとはインフレ率と同等の利子を払うだけで、社会に必要な資本が提供されるのである。日本は高度経済成長期、そのような方法で銀行を規制していた。日本経済が沈み始めたのは、銀行の規制を解いてからである。

【 土地 】

資本を優遇するという資本主義の理論は奇妙だが、土地を優遇することはもっと信じがたい。第一に、生産に使う原材料や道具と資本を別扱いする理由がないのと同様、土地を別扱いする理由もまったくない。したがって、土地に対して、生産性を維持し消耗や侵食を防ぐのに必要な金額以上を支払う必要はまったくない。

より重要なことは、土地を供給し、所有しているのは誰かという問題である。労働者は自分の体と頭を使って労働を提供するが、人間の尊厳が尊重される自由社会にとっては、その体も頭もその労働者自身のものである。資本家はお金やその他の資本を提供するが、その資本とは、消費が生産や所得を下回った分が貯蓄されたものであり、自由社会においては人も企業も、自分が所有する生産物や所得から(社会の共通費用を賄うために応分の税金を支払った後)貯蓄をすることが許されている。しかし、たとえ土地が生産に使われる原材料や道具とは違った扱いを受ける権利があると認めたとしても、その土地を供給しているのは誰なのか。誰がその土地を所有しているのか。

人間が作った土地があるだろうか。地球上のすべての土地は、宇宙の創造主が作ったものではなかっただろうか。もしそうだとすれば、創造主はその土地を特定の時代にいる人々のためだけに作ったのだろうか。そして、その土地の所有権を、その所有者が勝手に後世に継承させ、土地の分配を決定する、あたかも神のような権限を各世代に持たせ続けるようにしたのであろうか。私はそうは思わない。創造主は、この土地をどんな時代でも、すべての人々によって共有されるよう創造した。しかし、時が経つにつれて、貪欲な強者たちは力や不正によって、創造主がすべての人々のために作った土地の大部分を盗みとり、自分達が支配する政府に力づくで、あるいは詐欺的法律を作らせ、それを私有財産にさせてしまったのである。この動きが最もよく表れたのが、イギリスの「囲い込み」運動だが、基本的に土地が存在するところではどこでもそうやって土地が私有化されていったのである。

つまり、個人が所有する土地はすべて、もともと力か不正によって盗まれたものであり、現在の所有者は泥棒か、盗品の受領者なのである。もし法律が一貫して、かつ倫理的に施行されていたとすれば、現在の土地の所有者は土地に対して、盗品に対するのと同様の権利しか有していない。生産で使われる土地にはその維持に必要なだけを、あるいは生産能力の侵食を防ぐために必要な見返りだけは生産物から分配されるべきだが、土地の所有者だと主張するだけの人物に、それ以上を支払う倫理的理由はまったくないと私は考える。

さらに、たとえ土地の所有を合法的だと認め、土地に多くを払ったとしても、生産量を増やすことにはつながらない。労働者の取り分を増やし賃金を上げれば、労働者がより長時間働く誘因となり、またはより多くの家族が働くか、労働力としての子供を育てることを奨励する。また資本の取り分を上げ資本の価値を高めれば、人々は消費を減らして所得や生産物をもっと貯蓄に回すようになり、より多くの資本が供給される。しかし、土地の価格を上げて土地の取り分を増やしても、土地は増えない。土地の量は創造主が地球や宇宙を創造した時にすでに決められている。したがって、土地の価格を上げても生産量を増やすことにはならないのである。

つまり資本主義は、矛盾だらけで非論理的であり、土地と金を持つ裕福な人々が、自らが生産に携わることなく社会の生産物からの取り分を横取り、またはそれを生産した労働者の分け前以上の法外な物を手にするために、彼らが雇った知識人たちによって作られ、喧伝された詐欺のような理論なのである。