No.389 湾岸戦争における米国の大罪

今回は、湾岸戦争における米軍の行動が戦争犯罪であったと指摘する記事をお送りします。すでに我々の記憶から薄れかけている湾岸戦争ではありますが、近頃『ニューヨーカー』誌で元指令官の戦争犯罪が指摘されたことに対して、『ロサンゼルス・タイムズ』紙の記者は、この戦争全体に見る残虐ぶりに比べれば司令官1人の行動など取るに足りず、戦争全体の残虐性から目をそらしてはならないと警告しています。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

湾岸戦争における米国の大罪

『ロサンゼルス・タイムズ』紙 2000年5月22日
ロバート・ジェンセン

 湾岸戦争で米軍司令官が交戦規則に違反し、停戦後もイラク人を殺したと、『ニューヨーカー』誌(5月22日号)でジャーナリストのシーモア・ハーシュが主張した。ハーシュの追及に遭ったのは、元米軍司令官で現在は麻薬撲滅大帝(全米麻薬撲滅政策局長)のバリー・マキャフリーで、これに対し彼は、ジャーナリスト的批判の犠牲になったと述べた。どちらの主張が正しいかはここでは問題ではない。なぜならば、ハーシュが問題視しているマキャフリー個人の行動は、湾岸戦争と呼ばれる大虐殺全体からすれば取るに足りないことだからである。どちらの主張が正しいかの論争に陥ることの問題点はそこにある。一部の地域に限った指揮官の行動だけに気を取られていては、1991年、米国がイラク全土で、全世界が見守る中、罰せられることもなく日常的に行った行動を見失う恐れがあるからである。米国の湾岸戦争における行為は、米国以外の国では「戦争犯罪」と呼ばれるものの、米国内の教養ある人々の間で「戦争犯罪」が話題になることはない。

 しかしそれでも、米国政府と米軍が1991年に犯した罪の大きさは認めなければならない。もしハーシュの主張が真実なら、マキャフリーが行ったことは非難されるべき犯罪行為に他ならないが、彼1人の行動は湾岸戦争全体を通して米軍がイラク国民相手に出た暴挙とは比べ物にならない。米軍はどのような蛮行をしたのか。どのような犯罪であったのか。それではもっとも初歩的な事実である、イラクにおける民間人と民間施設への攻撃から始める。

 民間人への攻撃については、ジュネーブ協定で、「民間人を攻撃の対象にしてはならない」とはっきりと定められている。国連安全保障理事会の決議で軍隊に課せられた任務は、クウェートに侵攻したイラク軍の駆逐だけであった。そのために米軍はイラクに88,000トンの爆弾を投下した。これは近代戦争史上、1つの社会に対してなされた爆撃としては、最も集中的な攻撃の一つであった。爆撃により、民間人がその場で殺される場合もあれば、電線や食料、上下水道などの破壊を通じて、間接的に民間人の命が奪われる場合もあった。また民間人が直接標的になる場合もあれば、無差別攻撃の場合もあった。どちらの場合も、ジュネーブ協定では戦争犯罪だとされる。

 焼け焦げた車体と黒焦げの死体が散乱するクウェートの長く伸びた道路、「死のハイウェイ」を覚えているだろうか。米軍は国際法を破り、停戦の直前、退却中のほとんど無防備なイラク兵士を標的にした。報道記事の中で、米軍パイロットはそれを「わけないことだった」、「朝飯前だった」などと描写した。大虐殺というほどのこともない、単に残忍な行為でしかなかった。

 米国の武器の残虐性についても考えて欲しい。塹壕にいるイラク兵士を焼き殺すためにナパーム弾を使った。また、気化爆弾の投下も行った。それは爆発、窒息と震動による破壊力ゆえに、しばしば「核兵器もどき」とも呼ばれる。さらに剃刀のように鋭い破片で人体を粉々にするクラスター爆弾の投下も行った。戦車の侵入を助けるために使った劣化ウラン弾は、人体に長期的にどのような影響を与えるかまだわかっていない。これほどの武器を使っていたということだけでも、武力は正当な軍事目的に比例すべきであるということや民間人保護の一般的考え方など、吹っ飛んでしまう。

 狙撃戦は止んだが、国家に与えられた経済制裁の中で最もひどい制裁がイラクに対して今も課せられている。たとえそれがサダム・フセイン政権を抑圧するためだとしても、厳しい経済制裁は罪のない人々の命を奪うだけである。国連によれば過去10年間に経済制裁によって100万人の人々が死んでいるという。

 一言でいえば、湾岸戦争を戦争と呼ぶのは間違いで、あれは虐殺であったということだ。湾岸戦争を詳しく調べたイギリス人ジャーナリスト、ジェフ・シモンズによれば、無力な敵を大量虐殺し、さらにその殺戮のほとんどが、建設的な外交で争いが終結しクウェートが安全に解放された後に起こったという。このような見方は、世界中で大多数の人が認めているにもかかわらず、米国内ではこうした意見が聞かれることはほとんどない。

 この記事の目的はマキャフリーを弁護することではない。しかし、たとえ彼の罪がどんなに確実でも、彼を悪役に仕立てることは、この大虐殺を企て実行させた政治家や役人の責任を正しく糾弾することから我々の目をそらすことになる。そして、我々は、これほどの政治的自由を持つ国の国民でありながら、合衆国の名のもとに政治家や役人が犯罪を犯すのをなぜ阻止しなかったか、ということを追及できなくなってしまうであろう。