今回のOur Worldは、イギリスの『オブザーバー』紙の編集長ウィル・ハットンのコラムをお送りします。欧州諸国の中でイギリスはもっとも米国に近い、唯一の「アングロサクソン」国家ですが、そのイギリス国内からも米国の独善的振る舞いに対する嫌悪感が出始めていることがわかります。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。
米国よ、裏庭より出て行け
『オブザーバー』紙 2000年7月2日
ウィル・ハットン
イギリスの主権を脅かすものはNATOやEC本部のあるブリュッセルからではなく、大西洋の対岸にある国の覇権主義から来ている。
誰にでもお気に入りがある。私のお気に入りは、米国のテレビ番組『フレイザー』と『アリー my ラブ』、そして同じく米国の歌手、シェリー・クローだが、昔であればルーズベルト、ボブ・ディラン、J. D. サリンジャーなどが人気があったはずだ。ほとんどのイギリス人がそうであるように、私は米国のものが好きだ。米国の寛大さ、大きさ、活力が大好きなのだ。米国を身近に感じる。
ただし条件付きである。米国人はイギリス人と同じ言葉を話し、文化的ルーツを共有するかもしれないが所詮は外国だ。そればかりでなく米国は、「権力は腐敗し、絶対的権力は完全に腐敗する」というような格言に、イギリス人の想像以上に忠実に従うような異国である。さらに米国には味方がいない。米国にあるのは計画的侵略によって追求する不変的国益だけである。そして冷戦終結後、米国は、その国益をこれまで以上に完璧に遂行する能力を備えた世界の覇権大国になった。過去50年間さまざまな場面においてイギリスの左派と右派は米国の野心をいぶかったが(左派については妄想に近かった)、主流派のイギリス人は冷静を保ってきた。この不安定な関係に問題があったとしても、ヨーロッパに平和と自由主義および資本主義の秩序を維持するために、我々には米国が必要であった。そして本質的には、情け深い主人を持った我々はこれまで幸運だった。
それが今日では、左派、右派という政治的に両極端な人々でさえ、米国の野心に対する猜疑心を捨てた。しかし、矛盾するようだが、だからこそ今我々は守りをもっとも固くすべきなのだ。最近の米国は毎週のように、他の諸国との関係において傲慢で尊大な態度を見せている。これは米国のかつての寛大な慈悲心に終止符が打たれた証拠である。
例えば6月末、イギリス人科学者がヒトゲノムプロジェクトに不可欠な貢献を果たしたにもかかわらず、米国人はプロジェクトは米国の功績だと主張した。またCBSテレビはニュース番組で、米国の方がイギリスよりも安全だと報じた。しかし、米国の殺人事件発生率を考えれば、このような見解が出てくるはずはないのである。結局、イギリス人が抗議しようと、どう感じようと、そんなことは知ったことではないと米国は考えているのである。イギリスにはなんの影響力もないのだろうか。
米国の傲慢な態度はずっと続いている。ハリウッドは第二次世界大戦の歴史を書き換え続けている。イギリス人潜水艦乗組員や捕虜収容所コルディッツ城からのイギリス人の脱出(第二次世界大戦中ドイツの捕虜収容施設として使われ、収容されていた連合軍将校がしばしば決死の脱出を試み、一部は成功した)といった英雄的行為は、米国人の行為として書き換えられている。ハリウッドにとって重要なのは真実ではなく観客の入りであり、それこそが、全米ライフル協会など比較にならないほど強力なロビー活動を行う全米映画協会が求めているものなのである。米国の映画制作は高い評価を得ているが、ヨーロッパにおける米国映画の独占的立場が、米国の独創性の優位だけに起因しているなどと考えるのは、まったくのお笑い草である。実際には、50年間にわたり配給とマーケティング構造の掌握に努力を重ねてきた結果であり、そのために全米映画協会は米国政府を味方につけてきた。
似たような例はいくつもある。軍事分野では、米国は核不拡散条約の批准を拒み続け、今になって全米ミサイル防衛(NMD)などという言語道断な防衛網を提唱し始めた。これを実現するには弾道弾迎撃ミサイル制限条約(ABM)を改定しなければならない。金融分野では、アジア経済危機の後、国際金融規制に対する協力を拒んだ。他の国の麻薬取締についても、自国の司法権を主張し続けている。また、米国の貿易の利権を守るために高圧的な態度をとるのは、今も昔も変わっていない。
もちろん、米国には自国の利益を求める権利があるし、世界の見方や文化が米国中心であるのも驚くべきことではない。ただ米国はその絶対的力ゆえに世界で最も重要視され、そのためにグローバル化は、事実上米国の標準や制度、価値観を世界に広めるための手段となってしまった。その過程を管理しているのは、必ずしも米国ではない。基本的にウォール街によって動かされている世界の資本市場は、米国の金融資産を自由に売却することが可能だし、米国の多国籍企業は米国内の工業地帯から肉体労働の仕事を自由に海外に移転させている。
しかしこれは、より深遠な問題を見落としている。このゲームでは、米国企業と投資銀行は世界を米国の延長として捉えている。彼らはヘンリー・キッシンジャーが臆面もなく米国の帝国主義と呼んだことをさらに強く確信して、資産や資金を世界中に移動させているのである。
イギリスやヨーロッパの中心的価値観に対する挑戦がたいして大きくないのであれば、我々もそれほど焦ることはない。しかし米国化とは、米国の野心や幸福のために、イギリスやヨーロッパの生産資源の多くが所有、独占されることだけにとどまらず、われわれの考え方がより微妙に植民地化されることを意味するのである。政治的思考の領域においても、イギリスの右派と左派の概念は、彼らとは文明が極めて異なる米国人によって再定義された。
例えば、イギリスの長い伝統を持つ刑事裁判制度には、懲罰や犯罪の抑止とともに更生という役割があった。しかし今では、必要なのは禁固と刑罰だけとする、米国式のはるかに厳しい考え方に取って代わられてしまった。教育や医療、福祉政策も、社会に対する姿勢や社会の状況は米英で大きく異なるにもかかわらず、すべて米国式のものに変えられている。
フランス人はイギリスよりも常にこの問題に敏感である。マクドナルドへの強盗で裁判にかけられているフランス人の農夫、ホセ・ボヴは、イギリス人が支援しがちな米国化に対して、芝居がかった抗議を行ってきた多数のフランス人の最新の例である。
一方のイギリスには、現在NAFTA(北米自由貿易協定)加盟を装った議論で米国の51番目の州になるという冗談が出るほど、正反対の伝統がある。狂気じみているが、国際貿易委員会の担当官たちが今年初め、EUからの脱退が必要な、NAFTAへの加盟の可能性を探るためにイギリスを訪れている。ますますなぞめく保守的な米国の政略の中では、英語を母国語とする世界連合を確立しようという議論すら起きており、もちろんその主導者は米国である。
しかし地理と価値観が邪魔をする。宗教、死刑、人種、または作法でも、イギリスと米国はかけ離れている。ニューディール開始から長い間、ヨーロッパに対して同情的で、概して自由主義的なコンセンサスが米国を支配したが、それが根本にある大きな隔たりを隠してきた。しかし過去20年間にこのコンセンサスは消失し、そして米国はより保守的で、過酷で、個人主義的な国となった。そして米国の政治家も企業経営者たちも、おおっぴらに米国第一主義を掲げるようになったのである。
イギリスの欧州に対する猜疑心は、欧州連合によるイギリス主権への脅威をことさら強調させることになった。しかし、もっと大きな脅威が大西洋の反対側から迫ってきている。