No.410 実体のある国を築いた人

今回は、日本の繁栄を築いた経営者として、また平成以前の日本式経営を実践してきた経営者として、いつも私が挙げている松下幸之助氏と本田宗一郎氏について書かれた米国地方紙のコラムを取り上げます。日本では有名な2人ですが、ここでもう一度、彼らがどのような考え方に基づいて経営を行っていたか思い起こしていただきたいと思います。また社員を人材として扱う米国式の経営方法と比較して、日本企業がどちらを選択すべきか再考していただければ幸いです。皆様からのご意見をお待ちしております。

実体のある国を築いた人

『オーランド・センティネル』紙 2000年8月15日
チャーリー・リース

 松下幸之助という人物を知る米国人は多くはないだろう。しかし彼が創業し、経営していた会社の製品は、おそらく米国の家庭や事務所に数多く見られるはずである。松下電器は米国ではパナソニック、JVC、テクニクス、クエーサーなどのブランド名で知られ、25万人の従業員は、カラーテレビ、VTR、ビデオカメラ、衛星放送用パラボラアンテナ、CDプレーヤー、ステレオ、テープレコーダー、自動車用ラジオ、コードレス電話、携帯電話、ファクス機、コピー機、産業用ロボット、IC、冷蔵庫、エアコン、電子レンジ、炊飯器、掃除機、アイロン、扇風機、洗濯機、トースター、電池、電球、PC、レーザープリンターなどを作っている。

 家が貧しく10歳で自転車店に丁稚奉公に出された男が、一代でこれほどの製品を扱う会社を築いたのである。自転車店での数年間は週80時間労働、休暇日数は年にわずか5日で、食事はご飯と漬物だけだったという。

 その松下幸之助が16歳のとき、市電を見て交通手段としての自転車に未来はないと確信、大阪電燈という会社に内線係見習工として採用された。20歳で見合い結婚をし、その後74年間夫人と連れ添った。松下電器の創業当時には、夫人が帳簿をつけ、従業員の食事の世話をすることも多かったという。松下幸之助が大阪電燈を辞めて借家を工場にして改良ソケットの製造を始めたのは1917年のことであった。

 大恐慌が日本を襲った時、松下幸之助は「生産は半減させるが、従業員は解雇してはならない。給与も全額支給する。工場は半日勤務にし、あとの時間は在庫の販売に全力を傾注してほしい」と社員に告げた。1年以内に、松下電器の売上は従来の水準に戻ったという。松下電器は、社訓、社歌、独立採算の事業部制、品質管理グループ、週休2日制、男女同等の給料、西欧並みの高賃金を日本で最初に導入した企業である。

 マーク・ウェストンの『Giants of Japan』(講談社アメリカ刊)には、こうした日本の偉人たちが数多く取り上げられている。経済、政治、美術、スポーツなど、各界の現在および歴史上の重要人物の短い伝記が紹介されている本書は、有益であると同時に興味深い。

 例えば、本田宗一郎もまた、貧困の中から偉大な産業帝国を築き上げた人物である。鍛冶屋の息子であった彼は、小学校卒業後自動車修理工になった。本田宗一郎は本田技研工業で革新的なことを数多く実行したが、その1つは、社員の創造性を刺激するために、社員が発明したものは社員の名前で特許を取り、特許権使用料が社員の懐に入るようにするというものだった。この制度を説明するにあたって本田宗一郎は、彼が最も興味があるのは製品であって、お金ではないと述べている。彼自身、400を超す特許の持ち主であった。

 これこそ、日本と戦後の米国産業界が一線を画する点である。米国のほとんどの産業界を牛耳る弁護士、会計士、金融業者が、最もそして唯一興味があるのはお金、それも彼ら自身の利益であり、製品や従業員、顧客はあくまで付随にすぎない。ある時彼らの中の正直な一人が、社員に次のように語ったという。「私にとってあなた方は、必要悪にすぎない」

 こうした考え方があるからこそ、米国の経営者と従業員の間には途方もなく大きな所得格差が存在する。日本や他の国には、米国ほどの大きな格差は存在しない。しかし長い目で見れば、弁護士、株の売人、銀行家、手形割引商、会計士、芸能人からなる国家は、エンジニア、実業家、発明家からなる国家に太刀打ちできないと思う。どんな時でも、実体のあるものが、ないものに勝るからである。