No.411 ゆりかごから墓場まで、お得意様の生涯価値

今回は、「バイオ技術の世紀に向かうことの代償」(No. 408)でバイオ技術について取り上げたのに続き、同じ筆者、ジェレミー・リフキンの記事をお送りします。今回はネットワーク経済がもたらしうる危険性について、技術そのものを否定するわけではないものの、その使い方によっては、我々の人生体験すべてが消費対象と化す可能性を示唆しています。

ゆりかごから墓場まで、お得意様の生涯価値

『ロサンゼルス・タイムズ』紙 2000年4月24日
ジェレミー・リフキン

ある朝、目が覚めるとあなたという存在に関するあらゆることに値段が付けられ、人生そのものが究極の買物体験になっていたらどうだろうか。

「アクセス時代」の台頭は、何にも増して、人間の全体験のさらなる商品化を意味する。実業界ではこれを顧客の生涯価値と呼んでいる。人の一生の、一瞬一瞬が様々な形で商品化されれば、1人の人間の価値はいったいどのくらいになるのかを論理的に測定するものである。

一人の顧客の生涯価値を計算するのに、企業は、顧客との長期的な関係維持のためのマーケティングおよび顧客サービス費用に対して、これから先どのくらいの購買が期待できるかを予測する。加入者や会員に売上を依存しているクレジットカード会社、雑誌、通信販売カタログ会社などは、これまでにもこうした生涯価値対原価の予測を行ってきた。しかし今では、経済全体が同様の予測を行っている。

一人の消費者の生涯価値の計算を可能にしたのは、ネットワーク経済の情報技術および通信技術である。電子的なフィードバックやバーコード・データにより、顧客の購買情報は常に更新される。それをもとに企業は、消費者の食事の好みや持っている衣類、健康状態、娯楽嗜好、旅行パターンに関する詳細情報を知ることができる。また、コンピュータのモデリング技術を使えば、この大量の生データをもとにその人の将来需要を予測し、長期的に顧客としてつなぎとめるためにはどのようなマーケティングを行えばいいかといった計画も可能になる。

情報科学分野の専門家は、新技術を関係(R)技術と捉えることさえ示唆している。「情報を管理するための技術から、関係を築く手段としての技術へと、情報技術に対する考え方を変える必要がある」と、MITスローンスクール、調整科学センターのマイケル・スクラージは述べる。フランスの経済学者アルバート・ブレッサンドは、こうした情報技術のマシンで処理されるのは物質的な製品ではなく関係なので、それはR技術と呼ぶのにふさわしいと語る。

サプライヤーとユーザーの間に豊富で密接な相互連結や関係を築くことにより、個人の生活体験を長期的な商業関係として数量化し、商品化することが可能になる。その狙いは遍在的な存在となり、顧客の分身として商業世界で活動することである。

例えば、財務計画を考えて欲しい。多くの投資会社は、ただ単に株式や債券の取引を行う存在から、顧客の生涯さらには死後にまであらゆる金融取引を代行するために、顧客の金融資産をすべて管理する立場へ変わりつつある。その役割の中には、年間事業計画、個人の予算計画、退職金計画、不動産計画、税金/会計サービス、法律面の支援などが含まれる。そして財務計画のすべてを投資会社に任せる見返りとして、顧客は専門知識へのアクセスを手にし、自分の代わりに財務計画を行ってくれる信頼できるアドバイザー、代理人の支援を受けることができる。

悲観的に考えれば、顧客は継続的な商業関係の緻密なクモの巣の中に組み込まれ、ほとんど自分達には理解できない、かつますますどうにもならない商業的な力に依存することになるかもしれない。

R技術を使って、社会の最も根本的な分類をし直すこともできる。マーケティング関係者の間ではすでに、企業のブランド、製品、サービスに対する共通の関心に基づき特定の活動や目的でまとまる人々で、新しい「コミュニティ」を形成する方法にまで話が及んでいる。ホリデーインの「プライオリティ・クラブ」は、同ホテルを頻繁に利用する500~1,000人を年に2回、同ホテルのリゾート施設に招き、週末のパーティや娯楽イベントに加え、ホテル経営者との集団討論会を開催している。これもこのクラブの会員が一同に会す時間と場所を提供することにより、会員間の親交を深め、またホテル経営者との関係を強化することにある。

1日は24時間しかないが、この新しい商業サービスや関係においては、経営者の創造力さえあれば、時間を商品化する方法は無数にある。商業分野において、互いのニーズや要望を満たすために労働や時間を節約するあらゆる道具の発明や活動を行ったりしているにもかかわらず、人類史上かつてないほど、我々は時間が足りないと感じている。その理由は、時間節約のための道具やサービスの普及によって、さらに我々の身の回りの商業活動の種類や速度、流れが増したためである。

ネットワークに基づく経済は、接続速度を速め、効率を高め、思い付くものは何でもサービスに変えることで生活の利便性を高めている。しかし、大部分の関係が商業的なものになり、個人の生活が1日24時間休みなく商品化されている今、血縁や隣近所、共通の文化的関心や宗教、人種、組合、市民活動といった非商業的な関係に費やす時間など、まったく残されていないのが現実ではないだろうか。

マーケティングの専門家や企業は、顧客との緊密な関係を長期にわたり維持することに真剣に取り組んでおり、コミュニティの連帯感を構築しようと多数の手段や機会を積極的に試みている。これだけでも実に心配である。しかしそれ以上に懸念されるのは、社会に広範囲な影響を及ぼす可能性を持つこれら代用社会を作る大規模な活動の多くが、商業活動に組み込まれて行われているために、気付かれることも批判されることもなく進行している点である。

事実上、我々の存在のあらゆる面に価格が付けられるようになれば、人生そのものが究極の商品となる。そうなると、個人あるいは集団の存在価値に最終審判を下すのは商業分野となるのである。