今回は、テロに対して正義を求める米国が、その報復および対抗措置で正義から遠ざかっていると指摘する記事をお送りします。冷戦後、世界で唯一の超大国となった米国にとって、テロは今や共産主義に代わる新しい敵であり、テロへの対抗が最も広く受入れられている裏には資金や権力を巡る内部闘争があると、この記事は指摘しています。法の支配を求めながら、テロに対しては無制限の措置をとる米国は、自国がどちらの側にあるかを考え直すべきだと筆者は指摘しています。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。
イスラムの脅威に対する
正義の戦争で敗北する米国
『インディペンデント』紙、2000年8月23日
アンドリュー・マーシャル
彼は一番の公敵である。米国やすべての文明国家に脅威を与える邪悪な天才のあごひげをたくわえた顔が新聞や雑誌の表紙、テレビの画面に頻繁に登場し、我々を凝視する。彼の名は、オサマ・ビン・ラディンである。タンザニアの首都ダル・エス・サラームとケニアの首都ナイロビの米大使館爆破に対する報復として、米国がスーダンとアフガニスタンにミサイル攻撃を行ってからすでに2年が経つ。米国はビン・ラディンの関連施設を標的として、名付けて無制限の追跡作戦によって、正義の名の下にビン・ラディンを処断するため軍事行動をとると発表し、現在も継続中である。しかし、その聖戦の実行において、その正義が問題になっている。
サラ・アイドリスに聞いてみるとよい。アイドリスは、米国人に対して使用されたかもしれない恐ろしい武器、VX神経ガスを作る物質を製造しているとの口実で、米国が巡航ミサイルで吹き飛ばしたスーダン、ハルツームの化学薬品工場の所有者である。しかし、それは神経ガスの物質を作る工場ではなかった。少なくとも、それを証明する十分な証拠は見つかっていない。
いかなる証拠もないまま米国はアイドリスを中傷し、アイドリスをビン・ラディンの仲間だとしてロンドンにある米銀の彼の口座を凍結した。アイドリスが告訴すると脅すと米国は即座に口座凍結を解除したが、アイドリスに対する誹謗は撤回しなかった。
アイドリスに対しては起訴も裁判も行われなかった。米国の政府高官が匿名で彼の有罪を訴えても、まったく説明責任はない。一方のアイドリスは自身の発言も、証言も、弁護の機会さえも与えられず、世論という法廷では有罪にされたに等しい。彼は今、賠償金と無実の証明を求めている。
ニューヨークの重苦しい建物の中にはアイドリスと同じような状況に置かれ、大使館爆破の容疑で起訴された人が収容されている。ニューヨーク更生センターの悪名高き南十番の建物内で、時には24時間連続で完全隔離され、それは婉曲に「特別行政措置」と呼ばれている。彼らは有罪かもしれないし、有罪ではないかもしれない。まだ裁判にかけられておらず、近いうちに行われる見込みもない。彼らの弁護士は、置かれている状態や外部と連絡ができない状況を訴えているが、改善は見られない。逃亡に利用されるとして、デンタルフロスの要求さえも拒否された。
米司法当局内には、テロリストに対して過激な対抗措置を作り出すグループがある。米大統領決定による一連の極秘指令は、米国の選択に応じて無制限に容疑者への報復を許可する。これが「無制限な追跡作戦」である。
1996年の反テロ法および効果的な死刑の法律により、機密情報として提出された秘密証拠に基づいて、テロ活動への関与を告発された外国人の国外退去を政府が求める、尋問付きの新しい裁判が生まれた。秘密証拠はいつもアラブ人またはイスラム教徒の容疑者に不利になるように適用された。その機密情報の多くは覆されることが多く、ほとんどが信頼できなかったり、中には完全に間違っているものもあった。
ビン・ラディンに対する訴追がこれ以上進展する様子はほとんどない。公式記録によれば、ケニアとタンザニアの米大使館爆破事件に関する情報提供者の中には、ビン・ラディンの関与を直接知るものは誰もいない。しかし、事件担当者にとっては明らかに証拠などどうでもよいのだ。米国のテロ対策責任者のリチャード・クラークは、『ワシントン・ポスト』紙に次のように語っている。「米国民に対し大量破壊兵器が使われる脅威があるとなれば、米国の行動に対する制約を大幅に緩めなければならない。裁判所で提示される証拠を足枷にすることはできない」。クラークは1998年のスーダンとアフガニスタンへの報復ミサイル攻撃を指揮した人物である。クラークは事実上、何もないところから、米国民の生命や自由に対する唯一の脅威とされる「世界的テロ」を照準にした巨大な勢力基盤をワシントンに作り上げたのである。
テロとの戦いはワシントンの一部の人間にとって、全情熱を傾けるものとなり、故ケネディ大統領が就任演説で共産主義について述べたように、「いかなる代償も、負担もいとわない」ものとなった。しかし、これには国民に対する脅威だけでなく、ワシントンの官僚の間に見られる内部闘争が関係している。冷戦後、新しい敵の定義、またその対抗に必要な資金と権力を巡ってワシントン政府内で権力闘争が起きた。その中でトップに立ったのがクラークである。クラークは、元オリバー・ノース中佐が使用していた国家安全保障会議の執務室からテロ対抗作戦の陣頭指揮をとっている。これは、1950年代以降、国家安全保障会議の担当官たちが、同会議を米国の国防および諜報活動の作戦機関にしようとした夢を彷彿とさせる。
政府内でもあまり知られていないクラークという人物は、現代版『博士の異常な愛情』(核戦争の愚かさを描いた諷刺映画)の主人公として登場している。また、ハッカーによるコンピュータ・システムへの破壊的攻撃という「電子版パールハーバー」の恐怖を最も煽ったのも、クラークである。「ハッカーはなぜそのような攻撃を仕掛けたがるのか」との『ニューヨーク・タイムズ』紙の問いに、「我々を脅迫し、おじけづかせ、イスラエルその他に関する外交政策を撤回させるためである」と即座に答えている。
ワシントンの暗い執務室にいる変人たちによって、おかしな名目でほとんど説明責任もないまま、このような生死をかけた戦いがいつの時代にも数多く繰り広げられてきた。例えば、麻薬戦争は南米と米国の都市に信じられないほどの逆効果をもたらしている。また、元FBI長官であるJ・エドガー・フーバーによる共産主義に対する狂信的な聖戦や、ノース中佐による中央アメリカのコントラに対する資金援助なども同様である。それぞれ、目的さえ良ければ手段を選ばないとされたが、結局、その目的は手段を正当化するものではなかった。
米国を国際的な指導者だとする主張は強力だが、それが成り立つためには道徳的な指導力、つまり、米国にはその力があるばかりでなく、道徳的に正しいと他の国に思わせる必要がある。それがなければ、米国がブロックIIIトマホーク巡航ミサイル、空母戦闘群、海兵隊遠征部隊を保持し続けようが、戦いに勝つことはできないだろう。オサマ・ビン・ラディンとリチャード・クラークと、どちらが米国の自由にとってより大きな脅威なのかを考える必要がある。
テロリズムに対する聖戦とイスラム教の脅威は、米国政府高官にあまりにも簡単に反自由主義的かつ容認しがたい手段をとらせてしまった。米国が世界唯一の支配者となったことは、それに対抗するものが、誰も、何もないことを意味する。ワシントンでアラブ人やイスラム教徒のために効果的な代弁をする者はいないのである。
米国が求めたこと、また今も望んでいることは、大使館の爆撃で殺された人々に対する正義であり、それ自体は立派な志である。たまたま側を通りかかったというだけで、米国とは無関係な何百人もの死傷者を出したこの爆破事件は、確かに邪悪な行為である。しかし、それに対して正義を求める米国のやり方そのものも不当であった。
たとえテロに対抗する場合でも、目的が手段を正当化することはないというのは、単なる偽善的な自由主義ではない。クリントン大統領は大使館爆破事件の後、こう述べている。「自由と狂信的な行為、法の支配とテロリズムの闘争は、これからもずっと続くであろう」。この対比には誰も異論を挟むことはできないであろう。しかし、この闘争のどちらの側にいるのかを米国は忘れないようにする必要がある。